第二章 依頼

 ……事の発端は、この裁判が行われる一週間ほど前にさかのぼる。二〇一〇年六月十一日金曜日、東京都品川区の一角にある古びたビルの一室で、二人の若い男が緊張した様子でソファに腰かけていた。そして、来客用テーブルを挟んだ対面のソファに座るその部屋の主……榊原探偵事務所所長の私立探偵・榊原恵一は目の前に座る若者二人の様子をジッと観察しているようだった。

 岡部武一おかべたけかず片寄耕太かたよせこうた……それが今日、この事務所を訪れた二人の若者の名乗った名前だった。岡部は眼鏡をかけた、どことなく真面目そうな風貌。片寄は髪を茶髪に染め、岡部とは反対にどことなく遊び回っているような風貌である。

 今日になって突然「依頼をしたい」という一方的かつ曖昧なアポ電話があり、実際にこうして事務所に訪れてきた次第である。いささか失礼な依頼の仕方とはいえ榊原としても実際に来られてしまった以上は無下に追い返すわけにもいかず、やむなくこうして話だけは聞く態度を示していた。少なくとも、アポなしでいきなり駆け込んで来られるよりはましというものである。

「それで、ご用件は?」

 とはいえ、あまりいい気分ではないのも事実なので、榊原の対応も事務的かつ少し棘のあるものになっている。榊原の言葉に二人はピクリと肩を震わせてバツの悪そうな顔をしていたが、やがて意を決したかのように岡部の方が話を始めた。

「急なお願いで申し訳ありません。実は探偵さんに、ある事件について再調査をしてほしいのです」

「ある事件?」

「小さな事件です。多分、東京の新聞には載っていないと思います」

「……という事は、殺人ではない、か」

 榊原は呟く。殺人ならばどこで起ころうが新聞の三面記事くらいには載るはずである。それが載らないという事は、その事件が殺人という事は考えにくかった。

「具体的には?」

「一週間くらい前に京都の東山区のマンションで起こった事故です。マンションの屋上からレンガが落ちてきて、下にいた女性に当たって死亡させたという」

 榊原は少し考え込んだが、そのような事件の記憶はない。常日頃からその手の記事はチェックしている榊原である。どんな小さな記事でも見逃すはずがなく、そんな榊原が知らない時点で、彼らの言うように本当に小さな事件という扱いなのだろう。さすがの榊原も、新聞にも載っていないような事件の事まではわからなかった。

「屋上からレンガ……穏やかな話ではなさそうですが、どのような事情が?」

「それが、少し込み入っていまして……」

 そう前置きすると、岡部は京都市東山区のマンションで起きた斉川敦夫の事件について語り始めた。榊原は岡部の話をジッと聞いていたが、やがてそれが終わると、静かに息を吐いた。

「……なるほど。確かに珍しい話ですが、聞いた限りだといささか特殊ではあるものの、つまるところは何らかの過失致死罪に相当する事案と考えるのが妥当でしょう。だが……君たちはそう考えていない」

 榊原は静かにそう言いながら二人を見据える。その視線に体を震わせながらも、岡部はしっかりと頷いた。

「そういう事です。僕たちは、あれが事故だなんて思っていない。涼花は……意図的に殺されたと思っています」

「意図的……つまり、殺人という事ですか?」

「は、はい」

「根拠は?」

 榊原の問いかけは単純だった。だが、それだけに有無を言わさぬもので、岡部が真剣な表情でそれに答える。

「……亡くなった家田涼花さんは、僕たちの友人でした」

「友人、ですか」

「同じ大学のサークルメンバーだったんです。僕たちは京都にある京邦大学の二年生で、僕……岡部が法学部、こっちの片寄は理学部、家田さんは文学部の学生です。三人とも、大学の旅行サークルに入っていました」

「ふむ……」

「それでその……実は家田さんから、少し気になる事を聞いていたんです。だよな、片寄」

「あぁ」

 ここでずっと話していた岡部に代わって、片寄が話を引き継いだ。丁寧な話し方の岡部に対してこちらは少し乱暴な口調をしており、榊原に対しても敬語ではなかった。

「半年くらい前だったと思う。あいつ……バイトからの帰り道にひったくりを見たらしい」

「ひったくり、ですか」

「正確に言えばひったくりに遭っていた女の人を助けたって事みたいだ。バイクに乗った犯人はそのまま逃げたって聞いてる」

「それで、もちろんその犯人はヘルメットをかぶっていたらしいんですけど、最近になって家田さんが『犯人をどこかで見た気がする』って言い始めたんです」

「ほう?」

 岡部の言葉に榊原は少し眉を吊り上げ、そのまま先を促した。

「ただ、本当にそんな気がするって言っていただけで、具体的に誰かとかはわからないみたいでした。だけど……」

「……察するに、今回彼女を死なせてしまった斉川敦夫が同じマンションの住人だった事から、この斉川こそが実はひったくりの犯人で、彼が事故に見せかけて口封じ目的で彼女を殺害したのではないかと考えたわけですか?」

 榊原の言葉に岡部と片寄は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに黙って頷いた。

「しかし、印象だけではただの言い掛かりに過ぎません。何かちゃんとした根拠はないのですか?」

 榊原としては駄目元で聞いただけだったのだが、予想に反して片寄はこんな事を言った。

「一応、ある」

「お聞きしましょうか」

「……涼花は犯人の顔は直接見ていなかったが、その犯人が乗っていたバイクははっきり見ていた。で、涼花の話だとそのバイクは赤いバイクだったらしいんだが……調べた限り、斉川は赤いバイクを持っている」

「確かですか?」

「あぁ。岡部の話だとな」

 榊原が岡部の方を見ると、岡部はしっかり頷いた。

「斉川の会社のホームページに社員の自己紹介ページがあるんですが、斉川の紹介ページに赤いバイクに乗ってツーリングしている写真が掲載されていたんです。だから、斉川が家田さんの見たような赤いバイクを持っていた事は間違いないんです」

「ほう……」

 榊原は少し眉を動かす。とはいえ、正直それだけでは弱いのも確かだった。確かに疑わしい話ではあるが、赤いバイクに乗っているのは何も斉川だけではない。だが、彼らにとってはそれだけでも充分なのだろう。その気持ちはわからなくもないが、榊原としてはそれだけで斉川を怪しむわけにいかないのも事実だった。なので、榊原はその事実をはっきり告げる。

「あえてはっきり言いますが、それだけでは法廷を納得させる事は不可能だと思います」

「えぇ、それは僕たちも重々承知しています。でも、もし本当に斉川がひったくり犯で、奴が口封じのために家田さんを殺したのだとしたら、奴はまんまと罪を逃れようとしている事になってしまう。それが僕らにはどうしても許す事ができません」

「……」

「このままでは、斉川は殺人ではなく過失致死の罪で有罪判決が出てしまいます。そして一度判決が確定してしまうと、探偵さんはご存知かと思いますが、一事不再理の原則が適用されて二度と奴を殺人の罪で裁く事ができなくなってしまうんです。そうなってしまってはどうする事もできません。だから……判決が出る前に、斉川が故意を持って家田さんを殺した事を証明してほしい。これが僕たちの依頼です」

 岡部と片寄は同時に頭を下げる。が、榊原はなおも慎重だった。

「……現段階で、斉川が故意を持って家田さんを殺害したというのは君たちの主観に過ぎません。もし調査の結果、斉川氏がひったくりでも何でもなく、現在裁判で審理されている通り単なる過失に過ぎない事が証明されたとしたら、君たちはどうしますか?」

「それならそれで構いません。僕たちの考えが間違いだったと証明されるだけですから。とにかく、この疑惑を持ったまま斉川の判決日を迎える事自体が僕たちには耐えられないんです」

「俺も同感だ。とにかく、白黒をはっきりつけてほしい」

 だが、これでも榊原は納得できないようだった。

「解せませんね。失礼を承知で言いますが、君たち二人とその家田涼花という被害者はあくまで大学の友人関係に過ぎないはずです。犯人がまだ捕まっていないというならまだしも、犯人が捕まっていてちゃんと裁判にかけられているこの状況で、わざわざ殺人の罪を立証するためにそれなりの依頼料を払って東京の探偵に依頼をするというのは、ないとは言いませんが単なる友人のためだけというのはいささか不自然にも映ります」

「それは……」

「依頼をする以上、下手な隠し事はしないで頂きたいのですがね。隠し事をされると、それだけこちらも情報不足になって調査に支障をきたしますので」

 そう言って、榊原は二人をジッと見やる。重苦しい沈黙がしばしその場を支配したが、やがて片寄が耐え切れなくなったのか頭をかきながらこう言った。

「おい、岡部。この際言っちまったほうがいいんじゃねぇか? 正直、依頼する動機は俺よりもお前の方が強いし」

「……そう、だね」

 そう言うと、岡部は意を決したように言った。

「じゃあ、言いますが、僕と家田さん……いや、涼花は付き合っていたんです。だから、こんな形で彼女が死んで……納得できるわけがないんです」

「……という事だそうですが、事実ですか?」

 榊原は隣の片寄に尋ねる。片寄ははっきり頷いた。

「あぁ。俺から見てもお似合いの二人だったよ。だから、こいつが彼女の『事故』に納得できない理由はよくわかる。だからってちょっと噂を聞いただけの探偵にまで依頼するのは個人的にはやり過ぎな気もしないでもないが……本人がそれで満足するなら、俺も止める事はできない」

「……なるほど、ね。それならまだ理解できます」

 榊原は二人をジッと見ながらそう言った。ようやく二人の依頼動機について納得したようだった。

「それで、どうでしょうか? この依頼、受けてもらえませんか?」

 岡部の遠慮がちな言葉と、それでもまだどこか胡散臭そうに榊原を見つめている片寄に対し、榊原は少し何か考え込んでいたが、やがてこう尋ねた。

「一つ聞きたいのですが、どうして京都の学生の君たちが、わざわざ東京の私に依頼を? 普通は依頼するにしても、地元の人間を探すものでしょう」

 ある意、味当然とも言える問いかけである。それに答えたのは岡部だった。

「それは……彼女の葬儀にこっちに来た時に、偶然探偵さんの噂を聞いて……。片寄君は『胡散臭い』って言っていましたけど、話を聞くと腕利きだという事だったので、これも何かの縁だと思って僕が無理を言って……」

「葬儀……という事は、家田さんの実家は京都ではなく東京という事ですか?」

「えぇ。実家は東京の品川区内で、京都では問題のマンションに下宿していたんです」

「噂を聞いたという事ですが、一体誰から私の事を?」

「えっと、僕の従姉妹がこっちの大学に通っていて、せっかく東京まで出てきたから葬儀の帰りに彼女の下宿に寄ってみたんですけど、たまたまその時に従姉妹の大学の友達が部屋に来ていて、僕たちから事件の話を聞いたその人が探偵さんの事を……」

「その人の名前は?」

「確か……恩田朝子、とか」

 それを聞いて、榊原は一際深いため息をついた。

「なるほど、理解した」

「え?」

「何でもありません。こっちの話です」

 そう答えてから、榊原は改めて姿勢を正した。

「いいでしょう。恩田君の依頼なら、無下に断るわけにもいかない。この依頼、受ける事にしましょう」

「あ、ありがとうございます!」

 岡部はホッとしたように、片寄はまだ榊原を信用しきれない様子ではあったが再び頭を下げる。が、そんな二人に榊原はこう付け加えた。

「ただし、一度依頼を受けた以上、私はどこまでも事件の真相究明に全力を尽くします。たとえ辿り着く真相が君たちにとって不都合なものだったとしても、私は止まるつもりはありません。君たちにその覚悟はありますか?」

 その言葉に二人は一瞬ひるんだようだが、すぐにこう応じた。

「もちろんです。お願いします」

「あぁ、頼む」

「……本当にわかっているのならいいんだがね。まぁ、いい」

 榊原は独り言のようにそんな事を言いつつも、正式に依頼を受諾した。

「それで、具体的に調査はいつから始めてくれるんだ? 裁判もあるし、なるべく早い方がいいんだが」

 片寄がそんな事を聞き、榊原は少し考える。

「そうですね。すぐに始めてもいいのですが……」

 そう前置きして榊原はこんな問いを発する。

「その事件の第一回公判はいつ?」

「えっと、確か一週間くらい後だったと思います。京都地裁の小法廷で」

 答えたのは岡部だった。その答えを聞いて榊原は少し考えるとこう返した。

「では、その日に最初の公判を見て、それから現場の現地調査をする事にしましょう。交通費を減らせれば、君たちに請求する依頼料も抑える事ができますのでね」

「ご案内しましょうか?」

「いや、先入観を持ちたくないので、こちらで勝手に調べる事にします。ひとまず、現場の住所を教えてください」

「は、はい。わかりました」

 岡部が慌てた様子で現場のマンションの住所を告げる。それをメモしながら、榊原はさらにこう尋ねた。

「ところで、君たちは今日京都へ戻るつもりですか?」

 榊原の問いかけに、岡部が戸惑いつつも公答える。

「あぁ、いえ。今日はもう遅いので東京に一泊して、明日にでも帰ろうかと思っています」

「そうですか。いえ、少し気になったもので」

「はぁ。それではその……よろしくお願いします」

 そう挨拶して、二人は事務所から出て行った。二人を見送った後、榊原は深く息を吐いてソファにもたれかかる。

「どうやら今回も、一筋縄ではいかない厄介な依頼になりそうだ」


「恩田先輩の紹介ですか?」

「あぁ。正直、余計な事をしてくれたと思っている」

「まぁ、恩田先輩らしいって言えばそうですけど……」

 それから一時間後、大学を終えて事務所にやってきた瑞穂は、榊原から依頼の内容を聞いてそんな感想を漏らしていた。ちなみに、話に出てきた「恩田朝子おんだあさこ」とは瑞穂がかつて所属していた立山高校ミステリー研究会の先輩であり、瑞穂も何かと世話になった人物だった。

 そもそも、瑞穂がこうして榊原の事務所にアルバイト事務員という名の自称助手として出入りしているのは、彼女が高校一年生の時にミス研で起こった殺人事件を色々あって榊原が解決し、その推理に心酔した瑞穂が勝手に弟子入りしたという流れからである。で、そのミス研で起こった殺人事件の数少ない生き残りがこの恩田朝子で、その際に彼女も榊原の事はよく知っており、当時のミス研メンバーの中で瑞穂以外に榊原と繋がりがある希少な存在でもあった。

「彼女、今どうしてるんだ?」

「元気か、とは聞かないんですね」

「元気なのは嫌と言うほどわかっているからね」

「まぁ、それなりに自由にやってるみたいですよ」

「そうかね……」

 何はともあれ、依頼を受けた以上、榊原としては全力で事に当たるしかない。

「という事で、近々京都に出張する事になった。君は……」

「もちろん一緒に行きます! ちょうど金曜日は講義も少ないので自主休校しても問題ありません。何より、裁判が見られるんだったらそれが勉強になりますから」

 即答だった。そう言うと思っていたので、榊原も今更瑞穂を止めるような事は言わなかった。

「とはいえ、今回は少し下準備しておく必要がありそうだ。少し待ってくれ」

 そう言いながらどこかに電話を掛ける。そして少しの間何かを話して、最後にこう締めくくった。

「じゃあ、頼むよ」

 そう言って電話を切る。

「誰にかけたんですか?」

「まぁ、ちょっとした京都の知人だ。今回ばかりは情報が足りない。だから、先に地元の人間に色々下調べを頼んでおこうと思う」

「はぁ」

「何にしても、今回も難しい案件になりそうだ。ついてくるなら、そのつもりでいるように」

「わかっています。というか、先生への依頼って簡単な事件の方が珍しいくらいですよね」

「まぁ……否定はできないがね。とにかく、一週間後の現地調査までにある程度事件の概要を調べて、最低限の情報は把握しておく必要がある。ただでさえ情報が少ない事件だ。悪いが、手伝ってくれるかね?」

「もちろんです!」

 榊原の言葉に、瑞穂は元気にそう返事したのだった。



 それから一週間後の六月十八日金曜日、榊原と瑞穂は予定通り新幹線で京都の地に足を踏み入れていた。東京から新幹線で約二時間。本来、東京の若者にとっての京都とは高校の修学旅行辺りで来る場所であって、そう簡単に訪れる機会があるような場所ではないはずである。だが、榊原の自称弟子としていくつもの事件の捜査にくっついてきた瑞穂にとってはもうすでに何度か訪れている勝手知ったる場所となりつつあり、京都に来るという事に対するありがたみが薄れつつある今日この頃だった。

「と言っても、せっかく京都に来てるのに、観光地に行ったりした事はあまりないんですけどねぇ」

 そんな事をぼやきつつ、もはや大体の構造を理解するまでになった巨大な京都駅ビルの中を歩く瑞穂に対し、その後ろをこれまた勝手知ったる様子で歩く榊原もどこか遠い目をしている。

「確かに、私も京都に来るのは仕事がらみばかりで、観光地に行った事はあまりないな。京都府警本部や京都地方裁判所なら何度も行った事があるんだが……」

 まったく自慢にならないし、京都に来てまで行く場所が毎回そんな場所というのは一般人から見れば何とも嫌な話である。

「で、まずはどこに行くんですか? やっぱり京都地方裁判所ですか?」

 問題の裁判は今日の午前十一時から京都御所の南側にある京都地方裁判で行われる予定である。このままいくと、開廷まであと一時間程度である。

「あぁ。まずは裁判を傍聴して、調べ切れなかった情報を集める事にしよう」

 二人はそのまま駅前でタクシーを拾うと、しばらくして京都地裁に到着した。中に入り、正面の受付のノートで本日行われる裁判を確認する。そして目当ての法廷を見つけると、エレベーターで該当する階まで上がって傍聴席に入った。

「これが、京都地裁の法廷ですか」

 瑞穂は興味深げに法廷内を見回す。すると、少し離れた場所に依頼人の岡部と片寄がいるのが見えた。彼らもこの裁判を傍聴するつもりらしい。向こうもこちらに気付き軽く頭を下げたが、ほぼ同時に裁判官が入廷してきたため榊原と瑞穂は近くの座席に座り、そのまま裁判を傍聴する事になった。


 ……そして、話は冒頭の法廷の場面へと戻る。二人が見ている前で、事件についての最初の証人尋問が行われようとしていた。証人席の前に立った男性に対し、裁判官が声をかける。

「では、まず人定質問をします。名前は?」

「か、金下源蔵です」

「生年月日は?」

「昭和三十年二月二十五日です」

「職業は?」

「その、マンション『メゾン平安』の管理人をしています」

「住所は?」

「同じ『メゾン平安』の一〇一号室に住んでいます。住所は京都市東山区……」

 そこからいくつか質問が重ねられた後、続いて証人としての宣誓文の朗読が行われる。証人席に宣誓書が置かれており、証人として呼ばれた金下は緊張した様子でそこに書かれた定型文を読み上げる。

「りょ、良心に従って、本当の事を申し上げます。知っている事を隠したり、ない事を申し上げたりなど決して致しません。右の通り誓います」

「ありがとうございます。では、署名と捺印をお願いします」

 裁判長に言われ、金下は少して戸惑いつつも宣誓書に書名・捺印を済ませる。裁判所書記官が宣誓書を回収して自身の席に戻ると同時に、裁判官が声をかけた。

「結構です、そのままお座りください。では、検察官、お願いします」

 裁判官の言葉に、検察官がゆっくり立ち上がる。証人尋問は最初に証人を呼んだ方が主尋問を行い、その後反対側が反対尋問を行って、最後に主尋問を行った側がもう一度尋問を行う事ができる。今回の場合は検察側が呼んだ証人なので、まず諸橋が主尋問を行い、次に秋沼が反対尋問を行うという流れのはずだった。

「さて、すでに人定質問でお答え頂いている事ではありますが、大切な事ですのでもう一度確認させてください。あなたは今回事件があったマンション『メゾン平安』の管理人で間違いありませんね?」

「はい。その通りです」

「マンションの管理人という事は、そこに住む住民の方の事はご存知のはずですね」

「もちろんです」

「では、本件の被害者・家田涼花さんと、本件被告人・斉川敦夫の事はご存知ですか?」

「知っています」

「念のために確認させてください。この法廷内にあなたの知る斉川敦夫氏はいますか?」

「はい」

「それはどこにいますか?」

「被告人席に座っている人です」

「結構です」

 面倒臭いやり取りではあるが、被告人が証人の認識する人物と一致しているかを確認するために必要な事である。あとで『認識違いでした』では済まないので、理由がわかれば当然の質問ではあった。

「あなたから見て、家田さんと斉川氏はどのような人物でしたか?」

「二人とも話しやすくて付き合いやすい住人でした。家賃の滞納なんかもなくて、出会った時に世間話をしたりもしていました」

「二人がマンションに入居したのはいつ頃でしょうか?」

「家田さんは大学に入る少し前だから大体一年半前。斉川さんは……五年くらい前だったはずです」

「そうですか。では、本題に入ります。あなたの知る斉川氏は、普段、マンションの屋上で何をしていましたか?」

「屋上の一角で菜園をしていました」

「それはいつからですか?」

「ええっと……詳しい日付はわかりませんが、二年くらい前からだったと思います」

「彼が屋上菜園を始めたきっかけはご存知ですか?」

「はい。私が彼に勧めました」

「どのような理由で?」

「実はあの屋上菜園は以前私がやっていたのですが、色々面倒臭くなって放置気味になっていたんです。それで二年前に斉川さんと話をしていた時に『趣味で家庭菜園をするのが夢だ』と彼が言ったので、私が『屋上に使っていない菜園があるが、よかったら使ったらどうか』と言ったら、彼が承知したというわけです」

「その屋上菜園というのは具体的にどのようなものなのですか?」

「五メートル×五メートルくらいのレンガに囲まれたエリアに土を入れて、そこで野菜を育てるというものです」

「あなたは彼が屋上菜園をすると聞いて、不安を覚えたりしなかったのですか?」

「私自身が勧めた事ですし、他の住人の迷惑にならない限りは問題ないと思っていました」

「では、実際の所、何か屋上菜園に関わる問題などは起っていなかったのですか?」

「そうですね……私の知る限りは、トラブルなどはなかったと思います」

「何かの住人からその手のトラブルを聞いた事は?」

 と、ここで突然弁護席の秋沼が低く短い、しかしどこか鋭い声を上げた。

「異議あり。伝聞」

 今までどこか眠そうな表情で裁判を聞いているように見えただけに、不意打ち気味のこの「異議あり」に瑞穂は何とも言えない迫力を感じた。と、裁判官がその異議を受けてこう答える。

「異議を認めます。検察官、質問を変えてください」

「失敬」

 諸橋は形ばかりの謝罪をして別の質問に移り、それを見届けると秋沼は元の眠そうな表情に戻る。が、瑞穂からしてみれば目の前で何が起こったのかさっぱりわからなかった。

「あの、何があったんですか?」

 瑞穂は榊原に小声で尋ねる。

「弁護側が、検察の質問が『伝聞証拠』ではないかと指摘したんだ。裁判官もそれを認めたから、検察官は質問を変更せざるを得なくなった」

「伝聞証拠?」

「いわゆる『又聞き』だ。例えば『~さんから聞いた話ですが』とか『噂で聞いた話では』のように、証人が他人から聞いた話を証言してしまう事だな。こうした『又聞き』は話をした本人がこの場にいなくて反対尋問ができない事から裁判の上では信憑性がかなり低いとされていて、裁判の証拠からは排除しなければならないとされている。法学的には『伝聞証拠排除原則』と呼ばれている裁判上の大原則の一つでね。どうしても『又聞き』の内容を証拠にしたかったら、その話をした本人を直接この場に呼んできて直接証言させるしかない。例外はその話をした当人が死亡しているとか海外など出廷させるのが困難な場所にいる時だけで、テレビ電話を使った遠隔証言も認められていない。まぁ、これについては色々学説があったりするわけだが、詳しい事は大学の刑訴法の講義でこれからしっかり勉強する事だ」

 そう言って、榊原は秋沼を見やる。

「あの弁護士、話を聞いていないように見えて、押さえるところはしっかり押さえている。一癖ありそうな人間なのは間違いなさそうだ。もっとも、そうでもないと弁護士などという職業はやっていられないんだろうが」

 そうこうしているうちに、証言は進んでいた。

「被告人が家庭菜園をやっていた頻度についてはどうでしょうか?」

「私も常に見ていたわけではないので正確ではないかもしれませんが、休日にはよくやっていたようです」

「つまり、頻度としては一ヶ月に一度とかではなく、大体一週間に一度くらいのペースだったという事でしょうか?」

「そうだと思います」

「参考までにお聞きしますが、被告人は収穫した野菜をどうしていましたか?」

「自分で食べたり、私や近所の住人に配ったり……あと、実家に送ったりしていたみたいです」

「なるほど。ところで、念のためにお聞きしますが、事件当日、あなたはどこで何をしていましたか?」

「えっと……右京区の方にある知り合いの家に行っていたんですが、トラブルがあって話をするどころじゃなくなったので早めに辞去して、仕方がないからその辺の本屋で時間を潰してから戻りました」

「トラブルというのは?」

「何でも近くの水道管が破裂したらしくて、区内一帯が断水になったんです。水道工事中の事故だったらしいですけどね。まぁ、結局二時間くらいで直ったらしいですけど」

「事件の事を知ったのはいつですか?」

「午後五時頃に帰った後です。警察が来ていて、それで事件の事を知りました」

「事件の事を知ってどう思いましたか?」

「そうですね。そんな事故が起こるのかと驚いたのを覚えています。屋上菜園についても、安全性についてちょっと考えなければならないと思っています」

「わかりました」

 そこで諸橋は裁判長の方を見やる。

「検察からの質問は以上です」

「わかりました。では、弁護人、反対尋問を」

 続いて、弁護人席の秋沼が眠そうな表情のまま反対尋問に移った。

「えー、では、こちらからもいくつか簡単な質問をさせて頂きます。まず先程の証言を整理させて頂きますが、被告人は二年前にあなたの勧めで屋上菜園を始め、ほぼ週一で菜園の作業を行っていた。これで間違いありませんか?」

「その通りです」

「しかし、素人考えかもしれませんが、野菜というものは冬にはあまり育てたりしないのではないですか? だとするなら、冬場は作業頻度が減るのではないかと思うのですが」

「それは……確かにそうかもしれませんが、少なくとも今の時期はちょうど野菜が育つ時期ですので、ほぼ毎週やっていたと思います」

「そうですか。しかし、証言は正確にお願いします。人一人の人生がかかっていますのでね」

「はぁ……わかりました」

「この件については理解しました。では、次の質問ですが、屋上での家庭菜園をする際にレンガを交換する事はよくある事なのでしょうか?」

「まぁ、そうですね。結構風雨にさらされるので、早いペースで風化するんです」

「では、被告人もこれまでに何度かレンガの交換作業をしていたという事ですか?」

「さぁ……私もずっと見ているわけではありませんので。でも、常識的に考えてあったと思います」

「それでは、被告人がレンガを交換する際に、今回同様にレンガを屋上の手すりに置くという行為をしているのを見た事はありますか?」

 不意に秋沼の質問が鋭いものになった。要するに、手すりの上にレンガを置いたのは今回だけの例外で、日頃から常習的にレンガを手すりの上に置くという不注意をしていたわけではないという事を証明しようという算段なのだろう。常習性がないとなれば、検察の主張する「業務」に当たらないと主張できる可能性が高まるはずである。

「いや……少なくとも、私は見た事がありませんね」

 金下は困惑気味に答える。

「結構。では、これまでに被告人がレンガを交換する場面を一度でも見た事はありますか?」

「そうですね……一、二回くらいなら」

「その時、被告人は交換用のレンガをどこに置いていましたか?」

「ええっと……確か、その辺の屋上の床にでも置いてあったと思います」

「つまり、今回のように手すりに置いていたわけではなかったという事ですね?」

「そうなります」

「今までの証言をまとめると、被告人が過去にレンガの交換作業をしていた際には、彼はレンガを手すりの上ではなく床に置いて作業をしていたという事になり、手すりの上に置いた今回の事例は常習的ではないイレギュラーな行動だったという事になります。確認しますが、この内容で間違いありませんか?」

「え、えぇ。間違いないと思います」

「わかりました。こちらからは以上です」

 秋沼は一礼して反対尋問を追える。裁判官はチラリと検事席の諸橋を見やった。

「検察官、反対尋問は?」

「一つだけ」

 そう答えると諸橋は立ち上がって金下にこう問いかける。

「今、被告人がレンガの交換作業をする際に普段はレンガを手すりではなく屋上の床に置いていたと言っていましたが、まずそれについて間違いありませんか?」

「さっきも言ったように、ないと思います」

「しかし、別にあなたは被告人の監視係ではない。あなたの見ていない所で被告人が一人で作業をする事もあったはずですが、その時もレンガを床に置いて作業していたと断言できますか?」

「それは……できません。あくまで私が見ている範囲内の話です」

「確認します。あなたが見ている範囲で被告人はレンガを床に置いて作業していたが、毎回必ずそうしていたかまでは判断できない。この内容で間違いありませんか?」

「……間違いありません」

「結構です。質問を終わります」

 諸橋はそう言って腰かけた。それから少しして、裁判官が判断を下す。

「それでは、甲9号証、金下源蔵氏の証言を証拠として採用します。検察官、調書の提出を」

 そこからしばらく書類の受け渡しなどの事務処理が行われ、それが終わると裁判官が宣告した。

「本日はここまでとし、次回公判は先程述べたように六月二十五日金曜日の午後二時からとします。では、これにて閉廷」

 その言葉と同時に裁判官が退廷し、被告人の斉川は再び手錠をかけられて退場していく。同時に法廷内に漂っていた引き締まった空気が緩んで数少ない傍聴人たちがざわめき始め、本件初公判はあっさりと終わりを告げたのだった……。

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