だから君だけは例外なんだ

 一月十七日の夕方。従兄弟の和希に妹が生まれた。名前は空美そらみ。息子の和希は母親である和奏さんから一文字貰ったため、二人目は父親である兄の名前を使った名前にすると決めていたらしい。

 退院後に出産祝いを持っていくと、先客が居た。和奏さんの両親と僕の両親だ。生まれたばかりの孫娘の前で火花を散らしていた。最悪なタイミングで来てしまったとため息を吐きつつ、和奏さんにレトルトのスープセットを渡す。湊が産まれた時にお義母さんからもらったものと同じやつだ。


「なにそれ。レトルト食品?」


「うん」


「離乳食はまだ早いわよ」


「離乳食じゃないよ。大人が食べるやつ」


「はぁ? あんたねぇ……誰に対するお祝いだか分かってるの? 赤ちゃんのためのものを持ってきなさいよ」


 母が呆れたようにため息を吐く。和奏さんの母親はそれを見て苦笑いしながら「まさに反面教師ね」と呟く。隣に居た父親が妻を肘で突き「うちの娘を気遣ってくれてありがとう」と僕らに頭を下げた。和奏さんの気の強さは母親譲りのようだ。


「それ、湊が産まれた時にお義母さんがくれたやつです。質もいいし、量もそこそこあって良かったよ。何より作るのに手間がかからない」


「あんた、そんなの食べて育児してたの? 母乳飲ませるんだからもっと良いもの食べなさいよ。可哀想じゃない」


「見ての通り湊は元気に育ってるよ。てか、ババアの作る料理よりは良いものだし」


「あんたもそれ食べて育ったでしょうが!」


「別にあんたの料理が悪いものだとは言ってないよ。プロが作ってるものが、素人のあんたが作るものより質が悪いわけないだろって話。てか、そこまで言うならあんたが和奏さんのために栄養考えてご飯作ってあげなよ。空美が母乳を卒業するまで毎日」


「出来るわけないでしょうそんなこと」


「だったら口出すなクソババア」


「この……」


「海ちゃん、その辺にしときな。湊の前で汚い言葉使わないの。湊が真似したらどうするの」


 と、夫が言った側から「くしょばばあ」と湊が母を指差す。思わず吹き出してしまうと、夫に肘で突かれた。和希はそれが良くない言葉だとわかっているのか、あるいは人を指差す行為がよくないと判断したのか「それだめだよ」と湊を嗜めて指を下げさせる。


「和希、注意してくれてありがとね。海、こういうのは親が注意するべきでしょ。何笑ってんの」


「訂正しなきゃだめ?」


「駄目です! 全くもう……」


「湊、いい?」と、夫は湊の前でしゃがんで人差し指を立てる。


「人に向かってクソババアなんて言っちゃいけません」


「くしょばばあ、め?」


「そう。めっ。あの人はクソババアじゃなくて、ばあばだよ。ばあば」


「ばばあ」


「ち、違う違う。ばばあじゃなくて、ばあば」


「ばばば?」


「ばあば」


「あばば」


「……いい? お父さんの真似してね。


「ば!」


「うん。そう。


「ば!」



「あ」


「続けて言うよ。ば・ば……あれ?」


「ばばあ!」と湊の無邪気な声が部屋に響く。母の顔は引き攣り、夫は気まずそうに母に頭を下げるが、和奏さんも和奏さんの両親も、父さえも笑いを堪えるように震えていた。こんなの笑うなという方が無理だ。


「あははっ!」


「海、君ねぇ!」


「みなと。ばあば、だよ。ば・あ・ば」


 今度は和希が湊に教え始める。


「ば・ば・ば」


「ば・あ・ば」


「ばあ……ば?」


「そう。ば・あ・ば」


「ば・あ・ば」


「ばあば」


「ばあば」


「よくいえました」と、湊の頭を撫でる和希。和希は湊より十ヵ月先に生まれた。とはいえ、まだ三歳にもなっていない。それなのに既に言葉もはっきりしているし、しっかりしている。湊という弟のような存在が居るからだろうか。にしてもしっかりしすぎている気がする。兄も昔からこんな感じだったのだろうか。


「流石空の子。しっかりしてるわぁ」


 そう言って和希を見て、それに比べて……と言いたげな顔で湊を見る母。すると湊は「なぁに?」と、母の嫌味な視線など物ともしない無邪気な笑顔で首を傾げた。その無邪気すぎて眩しい笑顔を見て流石に気まずくなったのか、母は湊から顔を逸らす。


「こ、この子、ほんとに海に似てないわね」


「僕に似てなくて可愛いでしょ」


「ふ、ふん。このまま貴女の影響を受けずに真っ直ぐに育つと良いわね!」


 そう言い残して母は去っていった。父も和奏さんと和奏さんの両親に頭を下げてから母の後を追いかけていく。僕らも和奏さん達に挨拶をしてから家を出る。


「……はぁ。疲れた」


「でも可愛かったね。空美ちゃん」


「かーいかった!」


「ね。海のお腹にいる君はどっちかなぁ。女の子かな。男の子かな」


「どっちー?」


 僕の腹に話しかける二人。どっちが良いかと問うと、夫は「どっちでも」と答え、湊も「どっちでも」と夫の言葉を繰り返す。僕もどっちでも良い。だけど、女の子だったらきっと、母が僕の失敗をこの子で取り返そうとするかもしれない。『女の子なんだから女の子らしく』そんな呪いはこの子には受け継いでほしくはない。


「……海。何か不安でもある?」


「……仮に女の子だったら、母さんがうるさそうだなぁって思って。男の子でもうるさいだろうけど」


「あー……でも、大丈夫だよ。この子も湊も、俺と君の子。お義母さんに何言われたってきっと、強かに、自由に生きるよ。ねー。湊」


「ねー」


「いーよいしょっ!」


「きゃー!」


 湊を抱き上げてぐるぐると回りだす夫。きゃー!と楽しそうにはしゃぐ湊の声が道端に響き渡る。すれ違う人々が、微笑ましそうにその光景を横目で見ていく。二人の無邪気な笑い声が不安を吹き飛ばしていく。

 女性しか好きにならないはずの自分が、男性である彼に恋をした。最初はそれを受け入れられなかった。受け入れてしまえば、今まで抱いてきた同性に対する恋心を全て否定される気がしたから。実際、両親を始めとした一部の人間は、同性が治ったのだと思っている。だけど、彼は違う。今までの恋は全て本物だったと君がそう思うならそうなんだと、過去を受け入れてくれた。


『じゃあきっと、俺は例外なんだね』


 同性しか好きにならないと言い張る僕に彼はそう言ってくれた。だから彼への想いを受け入れられた。そして今の僕が居て、湊が居る。そしてもう一人、まだ名前もなく性別も分からない命が僕の中に。異性と結婚して、母親になって……側から見れば普通の女の人生だ。過去に女性を愛したことも、なんなら今も女性に惹かれてしまうことも、言わなければ分からない。なんなら言っても伝わらない。だけど別にそれで構わない。たった一人、僕の全てを受け入れてくれる人が側にいてくれるから。




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