犬のような人

 ある日のこと。湊を連れて兄の家に遊びに行くと、リビングで和希と一緒に小学生くらいの少女が遊んでいた。


「みーくん、おいでー」


「おいでー!」


 湊を降ろすと、一目散に和希の元へ走っていき、抱きつく。和希と湊は学年は同じだが、和希の方が十ヵ月近く早く生まれていたため成長が早く、和希は湊を弟のように可愛がっており、湊も和希のことを兄のように慕っていた。


「で、君はなに? どこの子?」


 少女に尋ねると少女は「ここの子です」と、はっきりとした口調で答える。兄の子供はまだ和樹だけのはずだが。


「……はー。なるほど。隠し——「違うから」


 キッチンから出てきた兄が食い気味に否定する。どうやら少女は兄の同級生の子で、一日預かっているらしい。


「あー。ゆうちゃんの。あの時の赤ちゃんか……」


 少女の父親、悠人ゆうとさんは兄の同級生であり幼馴染でもある。僕や夫のことも昔から可愛がってくれていて、僕らにとっては兄のような存在だった。そんな彼が父親になったのは、僕が高一の頃。生まれたばかりの娘を連れて家に来た。その子と会ったのはそれっきりだったため、記憶の中のあの赤子が目の前の少女と同一人物だと言われても全くピンと来ない。


「会ったことある?」


「赤ちゃんの時に一回だけね」


「おぼえてない」


「だろうね。改めて自己紹介するね。僕は海。この家のお父さんの妹だよ。んで、こっちが夫の麗音、そいつは息子の湊」


加藤かとう鈴歌りんかです。カズくんのです」


「マジで? 今時許嫁とか……」


「違うから。鈴歌ちゃん、勝手なこと言わないの」


「カズくん、鈴歌お姉ちゃんとけっこんしたいよねー?」


 湊と遊ぶ和希に問う鈴歌ちゃん。すると和希は「や」とそっぽを向いた。湊も真似してそっぽを向く。


「フラれてんじゃん」


「……じゃあ湊くんでいい」


「で良いって君な。誰でも良いのかよ」


「よくない。空さんの子が良い」


「あぁ? 兄貴の子?」


「空さんの子とけっこんすれば、わたしも空さんの子になれるでしょ?」


「はー。なるほどねぇ。本命は兄貴ってわけね」


「でも空さんけっこんしちゃったからできないもん」


 そう言って彼女は頬を膨らませて和奏さんを睨む。和奏さんはニコニコしながら、見せつけるように兄の腕を組む。二人の間に火花が散る中、湊がよちよちと歩きながら鈴歌ちゃんの元へ行き、とんとんとおもちゃの積み木を彼女に渡す。


「あしょぶ」


「けっこんしてくれるならあそんであげてもいいよ」


「けっこう?」


 首を傾げる湊。すると和希が彼を守るように抱き寄せて、鈴歌ちゃんの方を睨みながら「だめ」と首を振った。


「……なるほど。これがびーえる」


「……空さん、従兄弟同士って確か結婚出来るよね」


 抱き合う息子達を写真に納めながら、ガチのトーンで言う和奏さん。「出来るけど、妹が息子の義理の母親になるのはやだなぁ……」と、兄も真剣な顔をしながら答える。従兄弟同士である以前に男同士なのだが、そこに関するツッコミは誰もしない。ここに母が居たら絶対にその点にツッコんでいただろう。


「僕だってやだよ。まぁでも、選ぶのは湊だからなぁ。鈴歌ちゃん以外なら誰でもいいよ」


「えぇ! なんでわたしはだめなの!?」


「本命に近づくために利用しようとする奴にうちの大事な息子はやらん」


「じゃあこの子」


 そう言って鈴歌さんが指差したのは、和奏さんの腹。まさかと思い和奏さんを見ると「伝えるの忘れてた」と苦笑いする。


「ちなみに、女の子です」


「くっ。女の子じゃけっこんできない……」


「鈴歌ちゃんが大人になる頃には出来るかも」


「出来るの?」


「海外だと出来るところもあるからね。日本もきっと、そのうち」


 優しい声で、だけどどこか複雑そうに和奏さんは言う。


『病院に行きましょう』


『海、お前は女だろ。女を好きになるなんて、じゃないよ』


 僕が同性愛者であることを知った時の両親の言葉が蘇る。この子達には同じ言葉を誰かにかけるような大人になってほしくはないし、誰かからそのような言葉をかけられることもあってほしくはない。和奏さんや兄のような優しい人間だけに囲まれて生きてほしい。安藤家の孫として生まれてしまった以上、それは既に叶わないのだが。


『良かった。貴女もやっと、になれたのね』


 夫を選んだのも、子供を産んだのも、普通なんて多数派が勝手に決めたくだらない概念のためなんかじゃない。そんなもののために裏切られる辛さも、結果的に多数派の方に行くことになっただけで裏切り者だと罵られる辛さも、この子達は一生知らないままで良い。

 あぁ、そうか。母が普通にこだわった理由が少しだけ分かった気がした。だけど、変わらなければいけないのは多数派になれない子達ではなく、少数派を除け者にする社会の方だと、僕は思う。僕は母とは違うやり方でこの子達を守りたい。母と同じやり方は出来ない。


『私、もう疲れたのよ。死にたい。けど、黙って死にたくない。死ぬならせめて、この世に呪いながら死にたい。誰かの罪悪感を煽るような死に方したい。差別に殺された証拠を残して死にたい』


 あんな悲劇はもう二度と繰り返してはいけないから。


「……海」


 夫が僕を呼ぶ。その声で現実に引き戻され、自分が泣いていたことに気づく。夫は涙の理由は聞かず、黙って隣に座ってハンカチを差し出して僕の手を握った。子供達も心配そうに僕を見ていたが、兄と和奏さんが「大丈夫だよ」と声をかけて僕らを二人きりにする。


「……ちょっと、外の空気吸いに行こうか」


「……うん」


「空さん、和奏さん、ちょっと湊のことをお願いします。お散歩行ってきます。


 兄に湊を託して、夫は僕を連れ出す。彼と手を繋いで歩きながら、涙のわけを話す。


「……そっか。……あれからもうすぐ、五年が経つんだね」


 夫はそう言って空を見上げる。釣られて見上げるが、同然そこに二人の姿は見えない。手を伸ばしたところで、届くわけがない。そもそも、本当に見上げた先に二人がいるのかも分からない。それでも夫は空に向かって呟く。「世界は相変わらずだけど、俺達の子は絶対に二人を追い込んだ人達のようにはさせないし、例え君達みたいに普通じゃないことに苦しむ日が来ても、俺達より先に二人のところに行かせたりしないからね」と。そして俯き、独り言のように言う。「だから海も、俺を置いて行ったりしないでね」と。彼は泣いている僕を慰める体で連れ出してくれたが、実際は急に泣き出した僕を見て彼の方が不安になってしまったのだろう。


「……行くわけないだろ。僕にはやるべきことがあるんだから。君は最期までそれに付き合ってくれるんだろ?」


「……うん」


「大丈夫。置いていかないよ。だから、これからも僕から離れないでいて」


「……うん。絶対離れない。俺はずっと君の側に居るよ」


「ありがとう。戻ろう。あまり遅くなると湊が心配しちゃう」


「……待って、海」


 呼び止められて足を止め振り返ると、彼の腕が僕の頭を引き寄せるようとする。払い除け、逆にこっちから引き寄せて唇を奪ってやると、彼は驚くようにびくりと飛び跳ねた。

 離してやると、真っ赤な顔で僕を睨んだが「お手」と手を差し出すと、僕を睨んだまま手を乗せる。「賢いねえ」と頭を撫でてやると、彼はハッとして「俺、完全に躾けられてるじゃん」と頭を抱えた。

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