第六話 悪夢

 電車から降りると、熱気がむわりと顔にかかった。

 三ツ橋みつはしは池袋駅から出て、まっすぐイスルギの事務所に向かう。午後の陽光が歩道脇の木立の葉を燦々さんさんと照り返している。

 九月になったばかりである。まだまだ残暑は厳しく歩いているだけで汗がにじむほどだった。

 ビルのエントランスは空調が効いていた。乾いた涼しい空気にほっとしながらエレベーターに乗りこむ。四階で降り、同じような事務所の入り口が並ぶ廊下を進み、一番奥のガラスドアの前で足をとめた。珍しく先客がいたのだ。

(……間宮)

 奥の壁際で、間宮とイスルギが立ったまま話をしていた。

 会話の内容は聞こえないが、イスルギがバインダーファイルに視線を落としながら一方的に話をしていて、それを間宮が聞いている――という図である。

(イスルギさん、俺を通さずにあいつに仕事回してんのか?)

 間宮を紹介したのは俺なのに――むっとしたが、なんだか入りづらい雰囲気だった。伏し目がちの間宮の表情が暗かったからだ。

 一方で、イスルギは至極機嫌が良さそうだった。笑顔もなく、一見いつもと変わらぬ陰鬱な雰囲気をかもしているが、付き合いの長い三ツ橋にはそれがよく分かった。

 イスルギは間宮のことが気に入っているようだった。人脈が広いことを買われて今まで何人か知人を紹介してきたが、こんなふうに同じ相手に何回も仕事を依頼するのは初めてだった。

 そもそもイスルギは極端な人間嫌いである。誰に対しても不機嫌が常態で、それを隠そうともしない。間宮と初対面の時だってそうだった。

 なのに。今では間宮に――というか、間宮の提供する記録に傾倒している気すらする。

 そんなに間宮のは金になるのだろうか。

(つうか、おっさん距離近くねえか?)

 イスルギはあの歳――三十代半ばあたりと思われた――まで、おそらくまともな人間関係を築いてこなかったに違いなかった。だから人との距離の取り方がわからないのだろう。

 などと何の根拠もない偏見で留飲を下げているうちに、話に区切りがついたようだった。ふいにイスルギが間宮の肩をぽんと叩いた。間宮がわずかに眉をひそませたのを見て――三ツ橋は思わず重いガラスドアを押した。

「ちわっーす」

 全身に陰気な空気を漂わせたイスルギが振り向いた。

「……予定より随分早いな」

 なんだか邪険な口調だった。

「四コマ目、サボっちゃってぇ」

 へらっと笑ってみせると、イスルギは「学生の本分は勉学だろう」と呆れたように目を細めた。

「悪いが、こっちの話が終わるまで少し待っていてくれないか」

 三ツ橋は「はーい」と子供のような返事を返し、応接ソファーに腰を掛けた。スマートフォンを眺めるそぶりをしながら、そっと間宮に目を馳せる。オッサンの馴れ馴れしい接触を阻止してやったというのに、間宮はこっちを一瞥もしなかった。

「ではこれが今夜ぶんの測定装置だ。よろしく頼むよ」

 わかりました、と間宮は表情ひとつ変えず答えた。

「腹の座った顔だな。もうだいぶ慣れたんじゃないか?」

「僕が慣れたように見えますか? だったらあなたは認知機能がおかしい」

「噛みついてくるなぁ――」

 うっすらと笑ったイスルギを、間宮はきつく見据えた。

「武藤はどうしたんです。夏休みが終わっても大学に来ていないようなんですけど」

(武藤?)

 思わぬ名前が出て、三ツ橋は驚く。

 武藤は自分がイスルギに紹介した、一学年下の後輩だった。前年度単位を落としてしまった一般教養の授業で知り合い、代返要員の一人として近づいたのである。

 ――俺のじいちゃんが住んでる村なんすけど、えー話があるんすよ。

 代返の報酬におごってやった学食の月見そばをすすりながら世間話ついでに武藤が話したのは、怪談話でよくありそうな田舎の伝承だった。その話をなんとなくイスルギにしたところ、いたく興味を持ったのだった。

(……あいつの田舎、間宮も同行したんだっけ)

 そう言えば――あれから武藤を授業で見ていない。

「彼は今、実家で療養中だ。病院の検査では特に問題は見当たらなかったようだが、やはりショックが大きかったようだね。……彼の祖父そふぎみのことは残念だった」

 ぴくり、と間宮が身動ぎしたのがわかった。

「そんな深刻な顔をしなくとも、彼のトラウマは時間が解決してくれるよ。日にち薬というだろう。人間の脳はよくしたもので、どんなに凄惨な記憶でも時間が経てば薄れるようにできている。君のだって、十年という月日が癒やしてくれただろう?」

(トラウマ?)

 ――何の話だ。

 間宮は何も答えない。

「じゃあまた明日、同じ時間に来てくれたまえ」

 イスルギは話を切り上げた。間宮は会釈をして踵を返す。

「あ、間宮――」

 目の前を素通りしかけたところに声を掛けると、間宮は足をとめて振り向いた。その目が暗くすさんでいて、三ツ橋は息を飲む。

「君も小遣い感覚でイスルギあんなひとと関わるのはよしたほうがいいよ。――覚悟もなく」

 間宮は冷ややかに言い捨てると、そのまま事務所を出て行ってしまった。

 三ツ橋は唖然とした。

(関わるって……バイト紹介したのは俺のほうなんだけど)

 夏休み――何かあったのだろうか。

 武藤の言っていた、祖父の村の不気味な化け物の話が脳裏をよぎる。まさかな、と思いつつもぞわぞわとした不安が込み上げてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る