*


 何とか一番の地点にたどり着いた僕は、心身ともに疲労困憊していた。

 ほぼ同じ距離を歩いているはずなのに、一回目よりもずっと時間がかかっている。

 そして、眼前の光景に思わず呆然と立ち尽くしてしまった。そこは高級ホテルのラウンジだった。

 一段高くなった石畳を上がると、指紋ひとつついていないガラスドアが自動で開いた。

 広々としたホールには高そうなスーツをきたビジネスマンばかりで、小汚い格好をした大学生の僕はいかにも場違いだった。

「やあ間宮くん。こっちだよ」

 イスルギが片手を挙げていた。隣にはセミロングの女性が立っている。硬い表情で、何かを訴えるように僕を見据えていた。顔付きが会った時とまったく変わっている。静かな怒りをはらんでいるのに、泣き腫らしたように目と鼻が真っ赤だった。

 僕はおぼつかない足取りで彼女に歩み寄り、バックパックを手渡した。

「……もっとつらいですよ」

 セミロングの女性は真摯な眼差しで僕を見つめ返し、頷いた。

 そんな僕らをイスルギは興味深そうに眺めた。

 箱を背負った彼女がラウンジを出発すると、イスルギは、決死の表情で見送る僕の肩をぽんと叩いた。

「お疲れさま。一番では休憩をとることにしているんだ」

 そう言いながら僕にソファに座るよう促し、「好きなものを頼みたまえ」とメニュー表を手渡してきた。

(コーヒーが一杯千八百円……?)

 ――馬鹿じゃないのか。

 怒りが込み上げ、メニューを持つ手が震えた。セミロングの女性が怒っていたのはこれだと思った。

 ホテルのコーヒーなどこんなものだ。サービス料込みというやつで、そうゆう世界なのだ。

 ――と、普段の僕なら何とも思わないはずなのに。

(これは僕の怒りじゃない)

 思わず、膝の上でこぶしを握りしめた。イスルギはそんな僕をじっと見ながら、ジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出した。

 思わず釘づけになった。――ごくりと唾を飲み込む。

「……これが欲しいのかい」

 僕は我に返って「いえ」と視線を落とした。

「吸いません。吸ったことすらないです」

 むしろ煙草のにおいは苦手だった。

 なのに。異常に煙草それが欲しいのだ。

 イスルギはふうんと目を細める。

「これを見ると皆同じ顔するね。――君は二十歳だったか。一本試してみるかね」

 いいえと口が言う前に、手は勝手に煙草の箱から一本引き抜いていた。

「反対だ。こっちが吸い口だよ」

 イスルギは僕がぎこちなく摘んだ煙草を持ち直させると、ライターで火をつけた。

 懐かしい香りに、全身が震えた。体が喜びで震えるなんてはじめての経験だった。

 早く早くともう一つの意思に急かされるまま、煙をすうっと吸い込む。案の定、僕は激しくむせた。

「初心者にピースは重かったかな」

 僕が涙を滲ませて咳き込むさまをイスルギは面白そうに眺め、煙草の箱をポケットに戻しかけた。思わずその手を掴む。

「コーヒーはいらないのでその煙草全部ください」

 イスルギは驚いたように僕を見ると「まあ構わないが」と煙草の箱をテーブルに置いた。

 その掌サイズのクリーム色の箱を、奪うようにつかんだ。イスルギの気が変わらないうちに。

「……リュックの中身は、何なんですか?」

 それを聞くのかい、とイスルギは意外そうに僕を見た。

「まあ君にだけは教えようか。これからも長い付き合いになるだろうし」

 イスルギは僕の握る煙草の箱から一本引き抜くと、咥えて火をつけた。

「箱の中身は言えないが、目的くらいは明かそうか。をつくっているんだよ。至極強力なね。君たちには、その過程の一つを担ってもらっている」

「呪物……?」

 目を見開いた僕に、イスルギは――そう、と紫煙を吐き出した。

「もう気付いているだろうが、君の中で問答無用に湧き上がる感情はあの箱の中身が原因だ。圧倒されるほどだろう? 強い想いはそれだけでしゅとなる」

 強い――なんて言葉じゃ足りないくらいだ。

 しかもどんどん力は増している。脚の抵抗も、自分の中の誰かの想いも。このままでは、自分の方が箱の中身に抑え込まれてしまいかねないほどに。

 最後には乗っ取られてしまうのではないだろうか——。漠然とした恐怖が込み上げたが、すぐに消えていった。怯える元気すらなかったのだ。

 イスルギは僕の考えを読んだように「一週目より二週目のほうがだろう」と言った。

「二週目より三週目、三週目より四週目と回を増すごとにより強くなってゆくからそのつもりでいてくれたまえ。まあ、あんまり色々知ってしまうと君もただのバイトじゃすまなくなってしまうからな。清濁併呑する覚悟がないなら、余計な詮索をせず、言われたことだけを淡々とこなすことだ」

 僕はぐっと唇を引き結んだ。――イスルギの言うことは正しい。それが僕自身を守ることにもつながるのだ。

 イスルギは一万円札をテーブルに置くと、立ち上がった。

「じゃあ、私は行くから。これは君と早川くんのお茶代だ。ケーキセットでも頼むよう伝えてくれたまえ」

 ――あの男、早川というのか。

 あれほどの連帯感をおぼえているのに、ここで初めて名前を知ったのだった。



 イスルギが去ったあと、僕もすぐにラウンジを出た。

 早川をホテルの門扉の前で待つことにしたのだ。警備員の視線は痛かったが、あの空間にいるよりはましだった。

 背の高いビル群の隙間から強い日差しが射し込んでいた。眩しさに目をすがめる。

 次の目的地は駅だった。方角は北である。だが足は違う方向に向かいたがるだろう。

(……箱はどこに行きたがっているんだろう)

 箱の中身と同調するにつれ、に何があるのか、漠然とわかってきた。

 ——希望。言うなれば救いのようなもの。

 僕は固く目を瞑り、首を振った。

(余計なことを考えるな。次に駅まで運んで、最後にアパートに運んで、仕事は終了する。あとはバイト代をもらって帰るだけだ)

 やがて見慣れたバックパックを背負った男が、道をふらふらと歩いてくるのが見えた。見るからに異様で、周囲から完全に浮いている。

「――早川くん」

 声をかけると、早川は驚いたように顔を上げた。

「どうして、俺の名前」

「イスルギさんが言ってたから」

 早川は両膝に手を置いて屈みこむと、大きく息を吐いた。顔色は悪く、黒ずんでいさえ見えた。疲弊しきっている。

「僕、間宮っていいます。今更だけど、よろしく」

 早川は顔を上げた。やつれた頬にはにかんだ笑みを浮かべ、「……こちらこそ」と言った。すさんだ鋭い表情がたちまち人懐っこくなり、僕は思わず笑みを返す。

 早川を、なんだか共闘した仲間のように感じていた。きっと彼も同じ思いだ——そんな確信めいたものさえいだいていた。

 早川は測定装置を外し、差し出した。受け取った僕を妙に真剣な顔で見つめていたが——ふいにあたりをはばかるように言った。

「あのさ間宮くん。箱、開けてみねえ?」

 僕は一瞬ぽかんとその顔を見返し、慌てて測定装置を腕から遠ざけた。

「この時計みたいの、僕たちの記録撮ってるから」

 早川はぎょっと目を見開くと、「盗聴器?」と口パクで問うた。

「似たようなものだよ。でも外しているときは何も記録しないってイスルギさんは言ってた。彼の言葉を信じるなら、今なら何を喋っても大丈夫だし、さっきの発言も聞かれてないはずだ」

 早川は不審げに測定装置を見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「この……箱さ。最初は自分が自分じゃなくなったみたいで気持ち悪いし、訳わかんなくてひたすら怖かったんだ。体も頭ん中も、もう耐えらんないくらいしんどくて。——でも、今思えば、その辛さも悲しさも悪いものとは思えないんだよ。むしろすごく必死で、かわいそうで」

 早川は目を伏せた。

「それがさ、回を重ねるごとにどんどん重くっていうか……なっていく気がするんだよ……」

 そう言って、彼はぐっと唇を噛む。

 彼は同情しているのだ。この箱の中身に。

(……わかる)

 同じ想いだった。自分自身が感じていたことを、早川が言葉にしてくれたようにすら感じた。

 ――呪物をつくっているんだよ。

  イスルギの言葉が脳裏に浮かぶ。このまま続ければ、この痛切な想いはおぞましいのろいに変えられてしまう。

 この受け渡しのタイミングが、測定装置を外せる唯一のチャンスだ。

(今なら……バレない)

 僕はごくりと生唾を飲むと、うつむいている早川に近寄った。そっと小声で囁く。

「……こんな目立つところじゃまずい。場所、移ろうか」

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