第1章 エンカウント

第3話 人間界

 西暦二〇三〇年 六月三日

 人間界 日本国

 東京都 戸科下とかげ


 戸科下市西端に位置する黒緑山には登山道が整備されているものの、緑が生い茂ったその道は悪路というほか無く、登山客が訪れることは滅多に無かった。黒緑山はハイキングよりも、どちらかと言えば心霊スポットとして名の知れた山だった。

 山の中腹にある廃神社は元々、稀に訪れる登山客の休憩所として利用されていた。しかし廃業以来放置されたまま荒れ放題の境内には不気味さが漂い、また地元の不良たちがたむろした形跡などもあり、数少ない登山客もすぐに立ち去ってしまう。登山客の少なさは悪路のみならずこの廃神社が原因である側面も大きかった。

 原型を残したまま不気味さだけを増長させ続ける鳥居や社殿は若者や心霊マニアにとって格好の餌でしかない。登山よりも廃神社を目当てに黒緑山を訪れる者の方が圧倒的に多い。しかし実際のところ、具体的な心霊現象の報告は無く、インターネット掲示板に記載されている体験談はどれも作り話だった。特筆するほどの面白味も無いことから、今では登山客を遠ざけた心霊マニアたちですら寄り付かなくなっていた。

 そんな黒緑神社の、神域と俗界を隔てる門である鳥居が、奇しくも“ゲート”の座標に選ばれたのは全くの偶然だった。

 正午を回った頃だった。塗装の剥げた鳥居の中に稲妻が起こり、数十本に枝分かれして両脇の柱に伸びた。稲妻が鳥居の中に広がり、激しく瞬く。稲妻が止むと、鳥居の奥には境内の景色ではなく、暗闇が広がっていた。

 灰色の肌をした少女が暗闇の中から現れた。彼女の白い髪は背中を覆うほど長く、黄色い目の瞳孔は爬虫類のそれのように細く、妖しい光を放っている。彼女が纏う黒いローブの胸元には魔王軍の紋様が刺繍してある。一本の脊椎から無数の髑髏が花のように咲いた、禍々しい紋様だ。

 イービル家第七十九王女にして人間界侵攻先遣隊隊長を務めるレイド・イービルは、人ならざる目で人間界の景色を眺めた。実に百年ぶりの人間界。鳥居へ続く階段は雑草にまみれており、彼女はこの百年の間に滅ぼすべき人類が既に潰えているのではないかと不安に駆られた。

 あちらの世界――魔王軍では便宜上、魔界と呼ぶ――と人間界を繋げる転送ゲートから、続々と先遣隊のメンバーが現れた。レイドを含む七体の魔物が出た後、黒い帽子とローブを身に着けた魔導士のヴェスが最後に鳥居をくぐった。

 ヴェスが背丈より大きな杖で地面を叩く。杖の上部に埋め込まれた水晶が発光すると、ゲートが一瞬にして収縮し、消えた。

「お疲れ、ヴェス。無事に人間界に着いたみたいだ」

 レイドが労うとヴェスはかぶりを振った。

「これくらいお安い御用です」

 ヴェスは魔王軍屈指の実力を持つ魔導士だ。かつては人間の王都で邪教を流行らせ生贄を募り、禁忌魔法の研究を繰り返していた極悪人だった。聖騎士団に捕まり投獄され、処刑を待つ日々を送っていたところを魔王軍がスカウトした。今では名実ともに人間を辞め、魔王軍が誇る闇の魔導士となっていた。

「皆、準備はいい?」

 レイドは七体の魔物をぐるりと見た。彼らは先遣隊千体の中でも先んじて人間界に渡り、安全な転送先と根城を確保する任務を負った精鋭だった。

 レイドの側近でもあるメドゥーサ族のルラウ、魔導士ヴェス、ゴブリン族のジェイ、巨人族のギミル、キュクロープス族のモルコ、エアレー族のマース、オーガ族のクルス。

 巨体のギミルとモルコには、ゲートを渡る前から質量圧縮魔法で体格を小さくさせていた。それでも三メートル以上あるため、人間界に潜むにはもっと縮んでもらわなくてはならない。

「じゃあ行こう。くれぐれも人目につかないよう、慎重にね」

 レイドたちは整備された登山道を避け、獣道から下山した。最初に転送されたのが人気の無い山中だったのは幸いだった。転送先は大まかにしか選べない。ヴェスが最も危惧していたのは街のど真ん中にゲートが開くことだった。その時は即座に姿を隠す魔法を使う手筈になっていたが、どうやら先遣隊は運に恵まれているらしい。幸先の良いスタートだ。

「ここが、レイド様が前世に住んでいた日本てやつなんですかい?」

 先頭で草木を掻き分けて歩きながら、小柄なゴブリン族のジェイがすぐ後ろのレイドに尋ねた。レイドは頷いた。

「うん。さっきゲートがあった所、あれは神社っていう建物だよ。随分前に潰れたみたいだけどね。看板も日本語だったし、間違いなく日本だよ」

「懐かしいですか?」

「どうかな。ここも別に知ってる山じゃないし。だいいち、百年も経ってるからね。景色も何もかも変わってると思うよ」

 先遣隊の活動拠点に人間界の日本という国が選ばれたのは、レイドの前世が日本出身だからだ。レイドが知っている人間界の言語が日本語だけであることや、レイドが把握している民族の方が紛れ込みやすいことなど、あらゆる条件から日本が適当だと判断された。とは言え、百年も経てば言語や文化にも差異が生じる。外国よりはマシという程度で、正直なところ、現代の日本に不自然無く溶け込む自信は無かった。

(って泣き言をルラウ以外の前で吐くわけにいかないし……魔王軍が頼れるのが私だけってのも事実だし。もう着いちゃったもんはしょうがない。アドリブでなんとか……やるだけやるしかないなぁ)

 魔王軍領地の過酷な環境で過ごしたレイドたちにとって、黒緑山を下るのは散歩よりも容易いことだった。麓の道路が見えると、レイドは一同に立ち止まるよう命じた。

「えらく綺麗な道っすな」

 ジェイの呟きにレイドが答えた。

「アスファルトってやつだよ。意外と百年前と変わらないんだな……標識も同じだ。あ、隠れろ!」

 一台の軽トラが道路を走って行った。レイドは目をぱちくりさせた。

(え……軽トラだ……嘘、百年経っても現役なの?)

 ぞわりと寒気がした。

(ありえない……そんなわけない)

 嫌な予感に駆られ、レイドの気が急いた。

「皆ここに居て、ちょっと空から見て来る」

「えっ、一人で行くんですか」

 制止するルラウを、レイドはやんわり拒絶した。

「大丈夫、ちょっと景色を確認するだけだから」

 レイドは道路に車が居ないことを確かめてから、飛行魔法で空に飛んだ。森を抜けた先にある街が一望できる高度まで上がった。

「……嘘。どうして……?」

 街を眺め、レイドは愕然とした。彼女の目に映った街の景色は、彼女の記憶にある百年前の人間界と大きく変わりなかった。

 渡る世界を間違えたわけではない。そんなことなどありえない。時間を遡行したわけでもない。ヴェスが使ったのは、世界を跨ぐ細工を施しただけの単純な転移魔法だ。ここは間違いなく現在の人間界だった。

「百年……こっちでは百年、経ってないの……?」

 故郷を蹂躙することに抵抗が無かったのは、百年も経てば別世界のようなものだと思っていたからだ。百年後の日本なら、前世のレイドの家族も友人も、知っている人は誰も生きていない。赤の他人しか居ない世界なら、壊すことに躊躇いは無い。魔界で星の数ほど人を殺して来たのと同じように。

 全くの誤算だった。魔界と人間界で時の流れる早さが違ったことは、レイドの覚悟に亀裂を走らせる充分過ぎる誤算だった。

 前世のレイドが死んだのは、二〇一〇年の春。人間界は今、二〇三〇年の六月。

 かつての彼女が死んでから、人間界ではまだ二十年しか経っていないのだった。

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