夏の陽炎

帆尊歩

1話目  五日間だけの片思い

「じゃあ、今日で斎藤君は終わりです。短い間ででしたが、ご苦労様でした」施設長が終礼の時に言う。

すると長身の北斗君は神妙に話しはじめた。

「短い間でしたが、ありがとうございました。ここでの経験は、必ず役立てるようにいたします」そして、そこにいるスタッフが拍手をした。

私も拍手をした。


それぞれに、その場から離れてゆくスタッフの中で、私は斎藤北斗君に近づいた。

「北斗君。ありがとう」

「何が」

「えっ」

「あかりじゃない。ありがとうと言うのは,僕の方だよ。あかり、本当にありがとう」北斗君はこういう人だ、ちょっと人をエッって言う感じにさせる。でも、すぐに人を良い気持ちにさせる。

「うん」私は泣きそうになるのを必死で抑えた。

だってここで泣いたら、いったいなぜ私が泣いているんだと思われる。

(北斗君、駅まで一緒に)その言葉が言えない。


もう会えないのに。

会えない。

本当に会えないと思う。

北斗君はたった5日しかいなかった。

私もまだ五日目だけれど、私はまだこれからも、ここでバイトをする。

でも北斗君はもう来ない。


北斗君に出会ったのは、たった五日前のこと、夏休みに入った私はバイトを始めた。

医療系のコンサルタントをする会社だった。

さまざまな病院に派遣されて、患者さんの相談に乗る。

ある時はセカンドオピニオン、入院相談、そして抗がん剤治療と相談内容は多岐にわたる。

でもそれなりにスキルが必要なので、まだ私達はサポートのバイトでしかない。そういう意味では、私たちは同期だった。

そんな中、五日間の限定で来たのが斎藤北斗君だった。

彼はカナダの医大に通っている。

海外は九月からが新学年なので、日本での夏は、学年の間になり長い休みがもらえるらしい。

でも海外の大学は、研修のようなボランティアや職業体験が必要らしく、日本に帰って来たタイミングで、ここで五日間の研修をした。

そしてその最後の日が今日だった。

北斗君はカナダのトロント郊外が実家で、今はロンドンというところで、大学の寮で暮らしている。

「ロンドンって、イギリス?」

「違うよ、トロントはオンタリオ湖の辺りにあるんだ。ロンドンは同じオンタリオ湖からちょっと入った所」

「そうなんだ、ごめんなさい、なんかトンチンカンなこと言った」

「いや別に」

北斗君とはバイト同士だから、そんなに多くは話せなかったけど、私にとってカナダの医大生というのは珍しいを通り越して尊敬の域に達していた。


「あかり、駅まで一緒に帰ろう」

「えっ」逆に誘われた。

「うん」

北斗くんとは同い年だったけれど、私とは何もかも違う。

私は何とか中堅私大に受かって、在学しているけれど、学校と家を往復しているだけだった。

明確な目標もなく、ただ高校の成績で、当たり前のようにうちの大学を受験し、受かった。

別ににやりたいことがあった訳でも、うちの大学に取り立てて入りたかった訳でもない。

やっと学校にも慣れて来たので、夏休みからバイトでも始めようと思ったところだった。

そして、ここで北斗くんと出会った。

ただの医大生でもすごいのに、カナダの医大生。


「北斗くんって、英語ペラペラなの」と仕事の合間に私は北斗君に訪ねた。

「ええー、なにそれ」

「ごめん、なんか変なこと聞いた?」

「いや別に、あかりは日本語ペラペラでしょう」

「うん」

「それって、凄いと思っている?」

「いえ別に、当たり前のことだから」

「そうだよね。僕にとって英語を話すことは、そう言うことだから」

「そうか、ごめんね、なんか変なこと聞いたね」

「いや別に」

北斗君の口癖は、「いや別に」私はそんな言葉大嫌いだけれど、でも北斗君が言うと大好きな言葉になった。

だから私も無意識のうちに、真似するようになっていた。


私は、自分で言うのも何だけれど、本当に地味だった。

彼氏も出来た事はないし、どこかに遊びにいくのだって昼間だし、門限もあったし、私は本当にいい子を演じ続けていた。

それを窮屈と感じたことはなかったけれど、大学生になったら薔薇色の人生が始まると思っていた。

ということは、いつしかいい子を演じることに、窮屈を感じていたのかも知れない。

大学生になれば彼氏も出来て、様々なところに遊びに行けて、大学生活を満喫できると思った。

でもいざなってみれば、高校の時となに一つ変わらない。

相変わらず私は地味だし、せっかく大学一年、始めての夏休みなのに、何も起こりそうにない。

だから、私はバイトをすることにした。

何かが変わるかもしれない。

この地味でなんの希望も、将来の展望も、やりたいこともない私が、何かを掴めるかもしれないと思いバイトを始めた。

そんな私の前に北斗くんが現れた。

でもそれも今日で終わる。

もう駅だ。

なにか言わなきゃ、じゃないと、もう北斗君に会えないかもしれない。

「北斗君、家どっちだっけ」

「うん、今はふなか市」

「今って?」

「茨城が母親の実家で、そこだとバイトが遠いいんだよね。だから今は父の実家のふなか市」

「そうなんだ。ふなか市って、多摩の方だよね」

「うん」

言葉が途切れた。だめだここから言葉がつながらない。

(ねえ北斗くん、最後だからお茶でもしようよ)そんなことが言えたらどんなにいいだろう。

いや、そんなことが言えていたら、こんな地味な私はいない。

北斗君、私をお茶に誘って。

お願い。

心の中の思いは、決して北斗君に伝わることはない。

「じゃあ、あかり、元気で。またいつか、どこかで会えたらいいね」

「うん」北斗君の清々しいい言葉に、私はこんな返事しか出来なかった。


そして私は、北斗君と別れた。

もう会うこともないかもしれない。

結局ふなか市のどことも聞けなかった。

夏が終わったら、北斗君はカナダに帰ってしまう。

そしてそれがいつなのかも私は知らない。



次の日から北斗君はバイトに来なくなった。

私の中に何か大きな穴が空いたような気がした。

別に北斗くんの事が好きだとかそういうわけではないのに、この喪失感は何だろうと思う。

そういえば初めて会った時、斎藤君と呼んで北斗君は言った。

「カナダは夫婦別姓なんだ。だから僕はカナダでは田中で、母の苗字ね。でも日本では斎藤、父の苗字、だから斎藤って言われてもピンと来ない。だから北斗って呼んで」

「そうなんだ。じゃあ私もあかりって呼んで」

「わかった、あかり」


そういう理由でファーストネームで呼び合っているだけで、取り立てて私と北斗くんが近い関係ということではない。

でも心の中で北斗と唱えると、なんだかとでも切ない感じがするのはなぜだろう。

でもだからと言って私には何も出来ない。

だって北斗君はカナダの人だ。

今はふなか市って言っていたけれど、別にそこに住んでいるわけではない。

ここでバイトするために居ただけだ。

まだ茨城のお家の方が長くいるようなことを言っていたけれど、それだって夏の間だけ。


北斗君は謎の人だ。

スマホは持って居たけれど、カナダのスマホだから電話が出来ないらしい。代わりに、北斗君は空港で借りたWi-Fiを持っていた。

SNSも日本で一般的なSNSはやっていなくて、スマホのメッセージくらいしか連絡のとりようがないらしい。もっともそうでなくても、私にアドレスを聞く勇気もなかった。だからさらに北斗君は私の中でミステリアスな存在になって行った。そしてそれが故に、私の中で斎藤北斗君は大きくなってきた。


「あかり、バイトどうだ」

夕食の時、父がい言う。

うちは余程のことがない限り、食事は家族三人でする。

でも父は仕事が忙しく、こちらから何かを言わない限り、話さない。

大抵は母が話題を振って、それに私が答え、そのあと母が父に振るという流れが出来上がっている。

父が取り立てて家族に興味がないとかではない。

ただ単純に疲れているだけだ。

なのに、その日は珍しく父の方から話しかけてきた。

「なんでそんなこと聞くの?」私は驚いたように言う。

「いや別に」

「お父さんね、あかりがアルバイト始めたって、聞いてずっと心配していたのよ」と母が言う。

「そんなに私、信用がないの?」

「いやそういうわけじゃないけれど、あかり人見知りだし、そういう社会に出たことないし」

「信用ないじゃない」

「信用はしているさ」

「ムキにならないでよお父さん。心配してくれるのは嬉しいよ、でも大丈夫だよ。うまくやっているつもり、みんな良い人だし、社会に出るということで勉強にもなるし、バイト始めて本当に良かったと思っているよ」

「そうか」という父の顔は満足そうだった。

「なんかあったら、なんでもいいから話すんだぞ」

「うん」


自分の部屋に戻って、少し反省する。

またやってしまった。

素直でいい娘を演じてしまった。

父はきっと満足している。

自分の娘はきちんと育っていると。

まあその通りなんだけれど、だってそのレールを逸脱したいとも思わないから。

何の問題はない。

でも北斗君に出会って、今までの自分の周辺とは違うものに触れて、私はこのままでいいのかなと思う。

別にそれが、北斗君と恋に落ちるとかそういうことではない。

カナダと、日本を行き来しながら医学を学ぶ。

そして言葉は、英語も日本語もネイティブのように話せる。

まるで別次元の人に出逢ってしまった。

そして、その人とはもう会うこともない。

この気持ちは一体なんだろう。

夏の五日間だけ出逢った北斗君、そんな短い間に何かが生まれるわけもない。



その日、私はバイトが休みだったので、吸い寄せられるようにふなか市に行ってみた。

決して私は、北斗君を好きになった訳ではない。

それを証明するためにも、吸い寄せられるように出かけてしまった。

私は、自分の記憶を今までにないくらい総動員する。

駅は、東ふなか、ここは競馬場で有名なところだ。

競馬場の前の通りのちょっと入ったところ。

「こんな家」と言うと、北斗君は、今住んでいる家の写真を見て見せてくれた。

「何でこんな写真があるの」と私は驚いて北斗君に訪ねた。

「カナダに帰った時。日本ではどんな家で暮らしていたんだ、と聞かれた時のために写真を撮ったんだ」

「へー」と私は感心した。

少し古い、なんてこともない一軒家だった。

後ろの方に綺麗なマンションが見えた。


駅を降りると、夏の日差しが私を突き刺した。

日傘を持ってくればよかったと後悔した。


駅の外に出て、携帯を取りだして競馬場ってどこなんだろうと調べる。

電車の進行方向に向って左の方だ。

「住宅街をちょこちょこ歩くんだよな。最後、坂を下って大きな通りの交差するところの二軒ばかり入ったところ」北斗君の声が、私の中で蘇る。

駅の横にコンビニがあり、その前が広い歩道になっている。

街路樹に並ぶように、周辺の住宅地図が出ている。

わたしは、スマホの地図と、住宅の周辺図を見比べながら、北斗君の家はどこだろうと考える。

その日はこの夏一番の暑い日だった。

直射日光は容赦なく私に振りそそぐ。

日傘とはいかなくても、せめて帽子でもかぶってくればよかった。

ちょうどお気に入りの麦わら帽子があった。

もし北斗君に出逢ってしまったら、あのお気に入りの麦藁帽子を被った私を北斗君に見てもらいたかった。

でも急いで来てしまったから、仕方がない。


「最後の坂を下ると、大きな道路が交差するんだ、そこから二軒くらい入ったところ」

私は、北斗君の言葉を思い出す。

私は駅前の道を競馬場に向かって進む、すると道は大きくカーブをして大きな坂となって降ってゆく、そして競馬場に突き当たる。

ここじゃないのかなと思うと、そこは大きな競馬場の駐車場がある所で、家は見えない。仕方なく私は引き返す。

そして再び駅まで戻ると、今度は住宅街に入る、でもそこは深い迷宮の入り口だった。

真夏の昼下がり、一番暑い時間なのか誰一人歩いていない。

静まり返った住宅地は、人の気配もしない。

暑い日差しが照りつけて、街はひどく明るいのに人の気配がないというのは異様な光景だった。

まるでこの世界から人が消え失せて、私一人がここに取り残されたように感じる。

夏の暑さが陽炎のように空気さえも揺らし、まるで砂漠に取り残されたような錯覚に陥る。

こんなところで私は、北斗君の家を探している。

いや違う、私は北斗君の家を探しているんじゃない。

北斗君を探しているんだ。

まるで砂漠のように熱いこの世界に、私はたった一人で取り残され、北斗君を求めて彷徨っている。

北斗君に出会えなければ、私はこの砂漠のような荒地に倒れ、朽ち果てていくのではないかという錯覚に陥る。


彷徨い歩くと、小さな児童公園があった。

百メートル四方くらいの児童公園で、ブランコ、滑り台、鉄棒、そして藤棚が上にある砂場。

そして盆踊りがあるのか、鉄パイプで作られた櫓が、中央にある。

決して常設ではないことは一目瞭然だったけれど、ここにも誰もいない。

提灯が付けられている。

真夏の昼下がり、これでもかという明るさなの中の提灯は、その明るさゆえ、むしろ寂しさを感じた。

私は、そのこ公園の片隅のベンチに座る。

汗を拭ってひと息つく。

目の前の鉄パイプの櫓からは、まるで湯気が出ているような錯覚に陥る。

「ああ、あの櫓は暑いんだなろうな」と思う。

でも次の瞬間、夜のこの公園が目に浮かぶ。

それは私の想像だ。

出店なんか出せないくらいの小さな児童公園。

町内会のテントくらいが関の山。

でも暗い公園に灯る提灯は、怪しく私の顔と北斗君の顔を照らす。

二人とも浴衣を着ている。

「あかり、提灯にあかりが灯ったよ」

「やだ、あかりとあかりをかけてるの?」

「そうだよ、あかり」

「北斗君」

「あかり。あかり。あかり」北斗くんが私を呼ぶ、ああなんて、ドキドキするの。

ただ私の名前を呼んでくれているだけなのに。

「北斗君」そこで目を開ける。

そこは暑い夏の日差しに照らされた、誰もいない児童公園。

太陽に照らされた、鉄パイプの櫓が陽炎のようにゆらめく、汗をかいた私はその汗を拭う。いつの間にかちょっとだけ寝てしまった。

炎天下を歩いていて、ちょっと疲れたのだろうか?

そして考える。

自分は何て無謀なことをしているんだろうと。

住所もわからず、一軒の家を見つけようなんて、家の写真は見せてもらっているから、家の前を通れば絶対にわかる。

でもこの町に家は何軒あるんだ。

住宅街の小さな公園のベンチに座っている私はふと考える。今自分は、北斗君の住んでいた家を探しているが、あの五日間北斗くんは、この道を歩いて家に帰っていたかもしかしたら、この公園の前の道を歩いていたかもしれない。

私は不思議な感覚に落ちいていた。

みも知らない街を、北斗く君の痕跡を探して彷徨っている。

なんか冒険をしているようだ。

夏という抵抗感を感じながら、まさに冒険だ。

私は今大冒険をしている。

真夏の大冒険だ。


そして私は立ちあがった。

さあ冒険の続きをしよう。



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