第24話 グラスゴースマイル

 標的が私の髪を思いきり引っ張ると、髪が抜けた。ポニーテイルの根元ではなく、髪全体が頭から外れたのだ。

 今の私の髪は変装用のウィッグだった。

 予想していなかった手ごたえの軽さに、標的の動きが一瞬だけ止まり、バランスが崩れたのが分かった。

 即座に足を上げ、踵で標的の足の小指を思いきり踏みつける。相手が痛みに息を詰まらせたところに、少しだけ後退してスペースを確保し、左手を振って顔のあたりを切りつけた。

 カランビットの鉤爪が標的の右目の下に突き刺さり、瞼を通って額までを一気に引き裂いた。

 目を縦断する傷から一気に血があふれ出し、標的が獣のような声で吠えた。顔をのけぞらせてよろけた拍子に、私の右腕を掴んでいた手が離れる。

 私は即座に身をかがめ、ナイフを標的の左太もも側面――足を動かす神経が走っている場所――に直角に突き立てる。足に走った強烈な刺激に、標的が再び獣のように吠えた。

 瞬時に標的の左下肢から力が抜ける。私はナイフを引き抜きながら、バランスを崩して前のめりに倒れる標的とすれ違うように、その背後へと回った。


 地面に手をついて支えようとしたところを、私は体重をかけて体ごとぶつかりながら、ナイフを標的の右腰に突き刺した。腎臓に黒い刃がめり込み、無数の血管を切断する手ごたえがあった。

 標的の体が、死に至る痛みに反応してエビ反りになる。放っておけば死ぬが、こいつに限っては確実に殺す必要がある。

 ナイフを捻じって引き抜きつつ、左手を相手のあご下に回してカランビットをあごの下に突き刺す。骨に引っ掛け、釣り針のように引き上げて喉をあらわにした。

 同時に標的の首に右手を回し、左あごの角の真下に、ナイフの刃を直角に深々と突き刺した。

 突き刺した刃を右へ、逆側のあごの角へと引き、2本の総頚動脈と気管をまとめて切り裂く。標的の喉は耳まで裂けた口グラスゴースマイルのような有様になって、脳に向かうはずの大量の血液を一気にあふれさせた。

 標的が喉に手をやったが、あふれ出る血を押しとどめることはできない。気管に入った血と最後の吐息が混ざり合い、あぶくが立つ音が聞こえる。

 カランビットとナイフを引き抜き、標的の後頭部を押して顔面を地面にたたきつけた後、私は立ち上がって後退した。


 標的の喉と右腰からあふれた血が作る血だまりが、急速に広がっていく。喉からは飲み物にストローで息を吹き込むのに似た音が出ていたが、ほどなく静かになった。

 ようやく仕事が完了した。標的は喉を掻っ捌かれ、護衛もあの世行きになった。大立ち回りになってしまったのは予定外だったが、少なくとも依頼された内容は達成できた。

 それを認識すると、体から力が抜けそうになってくるのを感じた。強烈な疲労感がスポンジに水が染み込むときのように、体中に浸透してくる。

 殺し合っていた時に湧き出していたアドレナリンが引いていくせいで、それまで感じなかった痛みが体中で声を上げ始めた。


 あまりに疲れたせいで、これから後始末をして逃げる気にもなれず、壁を背にしてへたり込み、しばし休むことにした。使ったのはナイフだけだし、この場所は人気が無い。

 標的たちがここで私を待ち伏せしていたのは、少々誰かが泣きわめこうが聞こえないのを知っていたからだ。向こうは私が喚くことを見越していたが、こっちはそれを利用させてもらった形だ。

 顔はビンタを食らい、鼻に頭突き、あごには肘をぶち込まれた。見るも無残な顔になっていることは間違いない。

 前蹴りを食らった腹にもあざが出来ているだろう。腹筋を締めなければ、胃の中身を全部ぶちまけるところだった。

 腕の関節を極められた際に殴られた右手もひどく痛む。骨にヒビぐらいは入っているかもしれない。ストラップを巻き付けていなければ、間違いなくナイフを取り落としていただろう。

 仕事中にケガを負った経験はあったが、ここまでひどくボコられたのは初めてだ。


 それもこれも、仲介業者の情報で肝心なところが抜けていたのが原因だ。こちらがナイフを使うのは一番よく知っているのだから、標的も同じ得物を使うことぐらい知らせてしかるべきだろう。

 このことにはきっちりとクレームをつける必要がある。

 口の中に異物感を覚えて手に吐き出すと、血の混じった唾液と共に白い欠片が出てきた。肘を食らった時に歯が欠けたようだ。

 仲介業者には歯医者代も請求してやる。

 さすがにいつまでもへたり込んではいられないので、いい加減立ち上がることにした。自分が殺した死体が三つも転がっている場所で、のんびりゆっくりしているわけにはいかない。


 今の有様では表通りに出てホテルに戻ることはできない。両手は血まみれだし、顔には青あざが出来ている上に返り血が跳ねているだろう。コートと手袋は黒色のものを選んでいるので目立たないだろうが、ある程度はふき取っておかないと、道行く人に不自然に思われるかもしれない。

 何よりも問題は顔だ。散々に殴られましたと書いてあるような顔をしている女は、いやでも目立ってしまう。表通りに出る前に、どこかで顔を洗って、ある程度のメイクをしてごまかすことができればいいのだが……。

 そう思ってナイフをしまおうとしたところで、地面に転がっている銃と、突き刺さったダガーを見つけた。すっかり忘れていたが、あれの刃と柄も回収しなくてはいけない。残す痕跡は少ないほうがいい。

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