第30話「ボーイ・ミーツ・ガール」

 某所。正午間近。

 木々が生い茂り先の見通せぬ深い森の中から、突如として一対の細く垂れた眼がぎょろりと現れた。彼は四方を見渡し、道がしかと繋がっていることを何度も確認すると、大声で歓喜の雄叫びを上げた。

「や、やったぞ! やっと人里に降りてこれたわ! おい、者共! 遂に忌まわしき山脈を抜けたぞ!」

 その声に反応し、ガサゴソと森の奥から複数の人影が飛び出してきた。中でも極めて大柄で屈強な銀髪の女は涙を目一杯に溜め、唸り声を轟かせ天に腕を突き上げた。

「マ、マジか?! こないだみてえな蜃気楼じゃねえだろうな? ほんとにほんとだろうな!」

「間違いないでござる! 確かな人里の気配にて。己らは遂に……かの苦境を超え申したぞ! これで長かった野宿生活ともおさらばにござる!」

 顔全体に無精髭を生やした亜門も、憔悴した顔をふっと綻ばせて目に涙を浮かべていた。その奥からよたよたとした足取りで、シャーロットが美しく微笑みながら現れた。

「やっと……ここまで辿り着きましたね。本当に皆様ありがとうございます」

「お、お嬢様! 休んでてください。用がありゃアホどもにやらせますから」

「ふふ。そうはいきませんよ。ただ……ちょっとだけ足が疲れました。少し休ませて貰ってもいいですか?」

 安心したのか珍しく消え入りそうに呟くと、シャーロットは足を押さえてその場にしゃがみ込んだ。レイは一礼してから彼女を背におぶり、意気揚々と歩き始めた。

「しかし……本当に長かったわい。一体儂らはどれだけ彷徨っていたというのじゃ? 季節が変わってしまうかと思うたわ」

「いやはや、大変な道程でござった。まさかあんなことになってしまうとは。襲い来る自然の脅威、幾度となく襲来する眷属の群れ……正直言いまして、何度死を覚悟したか分かりませぬ」

「へへ。あんな大冒険、しようと思ってもふつうできねえぞ。俺に感謝するんだな……ギャアアアアアア!! そんなのダメ! 折れちゃうううう!!」

 一様に向けられる冷たい視線、背の上から放たれる痛烈な術式を受け悲鳴を上げるレイ。暫しの被虐の後、周囲を見渡してシャーロットは首を傾げた。

「しかし……一体ここはどこなのでしょう? 何かわかりませんか、藤兵衛?」

「儂の見立てでは、ここは既にビャッコ国内じゃな。儂らが越えてきた大山脈、あれこそ国家間の標に相違なかろう。どうやら図らずして、儂らは不法入国者というわけじゃ。やれやれ、儂も落ちるところまで堕ちたわい」

「はっはっは。まあそう気を落とさずに。おかげで連中に察知されずに活動できるではありませんか」

 呑気に快活極まる様子で笑う亜門を見て、藤兵衛は苦笑いを浮かべながらぽんと彼の肩を叩いた。

「まったく……お主の楽天具合には呆れるわい。まあ今日のところはそう考えておくかの。おい、シャルや。具合はどうじゃ?」

「私はばっちりです! このシャルちゃんは元気だけが取り柄なのです。このまま首都まで直行……ううっ!!」

 強気な言葉とは裏腹に、シャーロットは顔を青白くさせて、ぐたりとレイにもたれかかった。足を押さえて苦悶に顔を染める彼女を見て、同時に首を横に振った藤兵衛とレイ。

「無理もねえ。もうお嬢様は限界だ。おい、クソ商人。とにかく宿だ。落ち着ける場所で結界を張るぞ。旅は一旦休止だ」

「不本意ながら同感じゃな。これ以上は無理と無駄しかなかろう。あちらに畑が見える故、誰かに道を聞けるはずじゃ。ここは任せたぞ」

 そう言って走り去る藤兵衛。床にそっと降ろされたシャーロットを見て、ふんと鼻を鳴らす亜門。

「げに厄介にござる。未だ敵地に関わらず力尽きるとは。少しは恥を知れい!」

「申し訳……ありません。どうにも身体が本調子ではなくて。つくづく自分の弱さを恥じ入るばかりです」

「おい! くだらねえこと言ってんじゃねえ! お嬢様はギリギリのところで旅をしてんだ。そこも含めて俺らがやらねえとよ」

「……御意」

 亜門の中には、先日出会した呪術師バラムの言葉が渦巻いていた。お前らの中に、裏切り者がいる。今迄の疑念を形にするかのように、敵の大幹部たる男がそう言った。亜門とて歴戦の強者、それが撹乱の意を込めているだろうことは十分に認識していた。しかし、それでも敵はこのタイミングで、彼の心の蓋をこじ開けてきたのだ。亜門は、ある意味では限界に近付きつつあった。暴走しそうになる感情を何とか抑え込み、努めて冷静に刀に手を当てて目を閉じた。

「おいおい、てめえもだいぶ疲れてるみえてだな。ま、今はあのクソの帰りを待とうぜ。てんで使えねえクソゴミ人間だが、こういうことだきゃあ任せといて損はねえ」

 彼女らの遥か彼方には、農民らしき男と談笑する藤兵衛の姿が見えた。確かに、その辺のことは彼に任せておけば何も問題はない。そう思った亜門は迷いを振り払うようにレイの方に向かい、以前より胸に秘めていた事柄を口に出した。

「レイ殿。次の街でもし時間があるならば、己は鍛冶屋を探したく存じます。国父たる秋津典膳公の愛刀を復活させるという、大龍フィキラ殿との約束を果たさねばなりませぬ。ゲンブ国では探している暇がありませんでしたが、殿の話ではビャッコ国は芸術と職人の都とのこと。必ずやこの古刀を蘇らせる術があろうかと」

「ああ、そりゃかまわねえぜ。どうせお嬢様は1週間は身動きとれねえだろうしな。ついでに力車の手配も頼むわ」

「は! 必ずや! 己の命に代えましても!」

「へっ。んな固くなくてもいいよ。どんなんでも丈夫ならそれで……お! クソが帰ってきやがったな。なに笑ってやがんだあいつ。ついにヘドが脳まで回っちまったか?」

 向こうから薄気味悪い笑顔でこちらに駆け寄る藤兵衛を、ぼんやりと見つめる一行。彼は到着するや否や、息を切らせながら嬉しそうに彼らに話しかけた。

「おい、僥倖じゃ! 儂らは良きところにおるぞ! まさかこんな所に出るとはのう」

「んだてめえ。1人だけのたくりやがって。さっさと要点だけを言いやがれ!」

「ふん! 貴様に言うたたころで意味などなかろう。どうせ余計なことをして再び迷うのがおちじゃて」

「うるせえ!!」

「グェポ!!」

 こうして一行の足は再び動き始めた。東大陸最西の国、自由と芸術の国と呼ばれるビャッコ国での冒険が、今幕を開けようとしていた。


 夜も更けて。歩き疲れた一行の前に見えてきた風景は、街中に灯がともる大都会だった。ロンシャンの都ほどではないにせよ、煉瓦造りの洒落た建物が立ち並び、夜だというのに人が行き来する、久方ぶりに目にする大きな大きな街。ぽかんと口を開ける一行を前に、実に得意げに藤兵衛は言い放った

「ホッホッホ。たまげたかの? 中々の都会じゃろうて。ここはビャッコ国第2の都市ハルエッタじゃ。西大陸との交易も盛んな、東大陸屈指の大都市じゃて」

「いや……実に大きな街でござる。ここならば鍛冶屋も見つかりそうですな」

「あちらを見てみい、亜門や。あの巨大な建物は国営の賭博場じゃ。昔は随分と稼がせて貰ったものよ。用が済んだら一緒に行ってみようぞ」

「おいてめえら! まずは宿だろうが! クソ商人、さっさとどっか交渉してこいや。てめえの得意分野だろうが」

「ガッハッハ! 分かっておるではないか。儂に全て任せるとよいぞ。貴様ら田舎者には想像も付かんほどの宿を見つけてやるわ!」

「普通でいいんだ、普通で! んじゃ俺らはこの辺で待ってっかんな。10分で見つけてこいよ」

「ふん! 5分で充分じゃわ。すぐに“連絡”する故、各々アクセサリーを外すでないぞ」

 捨て台詞を残し勢いよく街に突撃する藤兵衛。それを見ながら大きくため息をつぬレイ。

「ったく、クソがアホみてえにはしゃいでやがる。さて、俺もちっと用足ししてくるわ。おい、亜門。すぐ戻っから少しだけお嬢様見ててくれや」

「……承知致しました」

 やや表情を曇らせて、亜門は刀を強く握りしめた。そんな事は微塵も気にする様子もなく、レイは鼻歌を歌いながら雑踏の中へと消えていった。

(……迷うな。迷いは弱さに繋がるでござる。一度信じると決めたからには、最後まで従わねば。だが……やはりレイ殿は耳飾りを付けておられぬ。後を追うべきか? いや、流石にそれは……)

 打ち立てた決心とは裏腹に、彼は未だ迷い続けていた。彼の背の上で苦しそうにのたうつシャーロット、必死で声を押し殺す彼女を見ると彼の心は抉られんばかりに痛んだ。もし彼の不安が現実であるならば、その事実を知った時の彼女の思いを考えると、臓腑が引き裂かれそうになった。

 そのまま、暫しの時が流れた。街の中から現れたのは、神妙な顔をした金蛇屋藤兵衛だった。その不自然な様子を怪訝に思いながらも、亜門は何処か安心した表情で声をかけた。

「殿、どうされましたか? まさか宿が見つからなかったでござるか?」

「ふん。儂を舐めるでないわ。すぐに見つかったがの……妙なこともあるものじゃな。ついでにちと散策してみたのじゃが、かつて儂の息のかかった宿や店がそっくりなくなっておっての。いかに競争の激しい街とて、そんな馬鹿な話があろうか。……何やらちときな臭いの」

「ふむ。偶然と言うにはいささか剣呑にござるな。しかし一体誰がそんなことを?」

「心当たりが多すぎて特定できんわ。まあ儂ほど敵の多い人間はこの東大陸におるまいて。ところで……虫がおらんの? こんな状態のシャルを置いて、あの低能はどこで油を売っておるのじゃ?!」

「うるせえ! 誰が低能だ! 用足しだ用足し」

「グェポ!!」

 突如として背後からレイが現れ、藤兵衛の頭を思い切り小突いた。彼はレイを恨みがましく睨み付けると、キセルに火を付けて鼻息荒く捲し立てた。

「ふん! 何じゃ大便か。随分と遅かったのう。さぞ野太いのが出たのじゃろうて」

「ああ!? そういうところが気に入らねえってんだ! 場所がよくわかんなかったんだよ」

「……」

 亜門は2人のやりとりに完全に沈黙したまま、くるりと振り返りシャーロットを背に街へと足を運んだ。それに気付いた藤兵衛は、慌ててその後を追いかけた。

「おい亜門! 何を黙りこくっておるか! ほれ、案内する故付いて来るがよい」

「……ったく、どいつもこいつもクソ野郎だぜ!」

 3人はそれぞれの思いを胸に、その足を何とか前へと踏み出していった。それが未来へと進んでいるかは誰にも分からなかった。光と影が交差する街の片隅で、人々の喧騒が妙にやかましく耳に刺さっていた。


 夜深く。宿。

 部屋の入り口付近にどかりと座り込む藤兵衛と亜門。実に和やかに楽しそうに会話を交わしているが、亜門はどこか落ち着かない様子であった。

「で、そこで儂は言ったわけじゃ。『それは金蛇屋の名が廃るわい! どんなに圧をかけられようが金利は負からぬ!』との。……おい、亜門よ。お主ちゃんと聞いておるか?」

「も、申し訳ありませぬ。少々考え事をしてしまいまして」

 怪訝そうな藤兵衛の問い掛けにはっと我に帰った亜門は、頭を深々と下げて必死で詫びをした。彼は無言のまま手でそれを制すと、ゆっくりとキセルに火を付けて、煙と共にため息を小さく1つ吐き出した。

「亜門……儂の目を見よ。直ぐに、真っ直ぐにじゃ」

「と、殿! 己は別に……」

「黙って見るのじゃ。……で、一体何を隠しておる?」

「い、いえ。まったく……その……ありませぬ! 決してやましいことなど!」

 沈黙し目を逸らす亜門を、藤兵衛は逃すことなくまじまじと覗き込んだ。彼はその目ではなく、目の奥にあるものを凝視していた。蛇の如き独特の油断なき狩人の視線は、歴戦の武人の肝すらもぞわりと冷やし、場に一気に緊張を生んだ。暫しの時間が流れ、牢獄の如き空気に耐えきれず、亜門が口を開こうとしたその時、奥の扉が勢いよく開いた。

「おい、てめえら。今終わったぞ。お嬢様の結界は無事張れた。とりあえずは一段落だな」

 レイがほっと息を吐きながら嬉しそうに言った。藤兵衛も亜門から向きを変え、満足そうにキセルを吐いた。

「……そうか。何よりじゃて。で、今夜の番はどうするのじゃ? 誰か見張らねばなるまい」

「へっ。わかってんよ。こないだの借りもあるしな。今日のところは俺が受け持ってやらあ。てめえら好きにしていいぜ」

「よし! その言葉を待っておったぞ! 亜門、出陣じゃ! 一杯飲みに行くぞ」

 嬉しそうに立ち上がる藤兵衛。だが、彼とは裏腹に躊躇いを見せる亜門。

「……レイ殿だけに負担をかけるのは、いかがなものかと。差し支えなければ、己も残って警護を致します」

「あ? 俺に気い使ってくれてんのか? んなの気にしねえでいいよ。ほれ、さっさとゴミ同士出かけてこいや」

「そうじゃぞ。虫の寛容なぞ天雷にも匹敵する奇跡じゃて。阿呆の気が変わる前に行くぞ。暫く酒が飲めなくてうずうずしてたのじゃ。それとも何か? 儂と飲むは気が乗らんのか?」

「ま、まさか! そう言う訳では決してありませぬ! ただ……」

「ゴチャゴチャ抜かすんじゃねえ! もう行け! さもねえとぶん殴るぞ!」

 イラついたレイの罵声が部屋中に響いた。亜門は目を伏せ、仕方なくといった風体で立ち上がった。その様子を藤兵衛はとても静かに、極めて冷静に見つめていた。

「……まあよい。近場に良さそうな店がある故、そこに行こうぞ。おい虫、何かあったら術具で呼ぶがよい」

 返事の代わりに中指を突き立てるレイ。無言のまま外に出る藤兵衛と亜門。そこに漂う不吉な雰囲気は、彼らが店に入ってからも拭えなかった。


 1時間後。

 小洒落た食堂にて卓を囲む2人。宿の本当にすぐ目と鼻の先に位置し、客もまばらで静かで落ち着いた雰囲気を醸し出していた。だが、ぶどう酒と肉料理がどっさりと机の上に並べられても、彼らの間に一切の会話はなかった。

 藤兵衛は2杯目のぶどう酒を一息で空にし、キセルに火を付けて煙をふわりと漂わせると、意を決した厳かな口調で亜門に尋ねた。

「で、そろそろ話してもいいじゃろう? 儂が察するに……お主の懸念は虫のことじゃな。お主は何を見た? 何を聞いた? 何を思い、斯様にも迷うのじゃ?」

 驚きのあまりばっと顔を上げた亜門に、藤兵衛は苦笑気味に微笑むと、静かに追加のグラスを傾けた。

「な、なぜ……そのことだと分かるのですか? 殿は一体何をご存知なのですか?」

「儂を甘く見るでない。目の奥を見れば全て分かるわ。と言うより……普段の態度を見ていれば明らかじゃて。お主の馬鹿正直さには逆に感心するわい。で、一体どうしたのじゃ? ここまで来たら儂に残らず話すがよい。初めに言っておくが、主観に基づく不確かな読みは不要じゃ。戦場ならいざ知らず、こういう件でのお主は素人以下じゃからのう。事実だけを、見聞きした物事をそのまま伝えい。天下の大商人たるこの儂がしかと判断してくれるわ」

「……は! 御意にて」

 亜門は話した。今まであったこと。あの日見てしまったこと。夜更けにレイが何者かと会っていたこと。そこで出たミカエルの名。目に付いてしまう不審な行動、信じたくても疑惑が膨らんでしまう、そんな自分が嫌になること。何とか振り払いかけたところに投げ掛けられた、敵幹部の衝撃的な言葉。それらすべて、すべてを一気に。

 気付けば亜門は涙を流していた。何の涙かは自分でも分からなかったが、どうしても止められなかった。藤兵衛はその間中ずっと、ただ静かに頷いているだけだった。

 そして、全てが語り終えられた後、彼は懐からキセルを取り出して、火をつけて深く大きく吸い込んだ。わずかな沈黙の中で亜門の喉が鳴り、やがて藤兵衛は悠然と煙を吐き出すと、極めて冷静に、かつ断定的に所見を述べた。

「……成る程。概ね理解出来たわい。では儂の結論から言おうぞ。確かに儂らの情報は、虫を通じて敵に漏れておる」

 ガン、と頭を強く殴られたような衝撃が亜門を襲った。信じたくはなかった。何と馬鹿な話と笑い飛ばして欲しかった。しかし、そんな彼に慮る事なく、藤兵衛は尚も続けた。

「元々気にはなっておった。儂らの行程や情報なぞ、どうやっても伝わり様もないとの。しかし儂らの敵は妖の者、きっと何らかの未知なる術で調べておるのだと思っておった。しかし……間尺に合わぬことも多々あった。セイリュウ国でシャルが殺されかけた時もそう、ゲンブ国でガーランドが殺された時もそう、最近の一連の襲撃もそう。有り得ぬことが数度続けば、それは即ち作為じゃ。そしてそれを可能とする者は……どう考えても虫しかおらぬな」

「では……やはりレイ殿が裏切っているでごさるか! だとすれば己は許せはしませぬ!」

 声に怒気を込めて勢いよく立ち上がる亜門。その音に店中の注目が集まった。顔を真っ赤にして今にも乗り込まんとする彼を前にしても、藤兵衛は全く冷静さを崩さずに手で彼を制した。そう、藤兵衛は動じない。この男はいつ如何なる時も動じない。

「先ずは落ち着けい、亜門や。それでは敵の思う壺ぞ。確かにじゃ、かなりの高確率で虫から敵に情報は流れておる。それは紛れも無い事実じゃろうて」

「では……やはり斬るしかないのでは……」

「だから落ち着けと言うておろう! これだから秋津の侍は困るのじゃ! 儂はの、亜門。奴が自らの意思でシャルを売っておるとはどうしても思えん。あの虫は、粗暴で単細胞で脳味噌の容量は小さじ並みじゃが、だからこそ器用な真似が出来る者では決してないわ。奴のシャルに対する忠義は本物じゃ。そもそも奴が本気で裏切らんとすれば、とっくの昔に儂らは壊滅しておる。そうは思わぬか?」

「た、確かに仰る通りにて。新月の日にでもレイ殿が牙を向けば、止められる者は誰もおりませぬ」

「ならば考えられる可能性は一つ。奴は敵に何らかの術をかけられ、一定の条件下でのみ行動を操られている。そう考える他にあるまい」

 はっと驚き口に手を当てる亜門に、藤兵衛はキセルをふかしながら真正面から目を合わせた。

「な、成る程。そう考えれば腑に落ちまする。そうなると全ては……最初から仕組まれていたと?」

「恐らくは限定的な術じゃろう。極めて限定された時宜でしか発動出来ぬ、催眠のような類と推測するがの。そうでなくばここまで旅を出来た事自体が成立せぬわ。じゃが、肝心の効果は斯くの如しよ。状況から鑑みるに、例のバラムとかいう術士が噛んでおるじゃろうな。奴は只者ではない。お主も感じたであろう?」

「確かに彼奴は並ではありませぬな。仮そめの姿であれだけの力、まともに相対すればどうなることか。しかし……己は許せませぬ! レイ殿の忠義を利用し、謀に利用するとは! 如何にいたしましょうか?」

 声を荒げる亜門にそっと目配せをし、藤兵衛は声を潜めて口だけを動かすように告げた。

「対処法は幾つかあろう。先ず思い付くのは、虫を何らかの方法で無力化する。1番手っ取り早く、即効性も高いの。じゃがシャルがまともに動けぬ今、現時点では成功の可能性は非常に薄かろうて」

「確かにそうでござるな。己らが懇切に説明したところで、聞いて頂けるかは疑問でござる。レイ殿に限っては力尽くでは難しきゆえ」

「次、敵に与える情報を逆に操作する。積極的に裏を付いていけば、襲い来る危機を好機に変えられようて。じゃが、これも現時点では困難じゃな。儂らはここを動けぬ。場所も割れておる以上、操作もへったくれもないわ」

「むう……八方塞がりでありますか。しかしこのまま手をこまねていていてはいずれ……」

「そこで、最後の手法じゃ。要は虫を単独行動させねばよい。儂らが交代で見張り続け、怪しき動きを潰していく。原始的じゃが、今取れる最良の手法じゃと考えられようぞ。そしてシャルが目覚めた暁には、より具体的な方策も取れようて。先ずはそこから取り組もうぞ。何か意見はあるか、亜門よ?」

「……仰る通りにござる。現状、それしか取れる手法はないかと。秋津の格言にも『孤刀の切先は水面しか断てぬ』とあり申す。1人ならさておき、2人で協力すれば事も成し遂げられましょうぞ。……流石は殿にござる。もっと早くご相談しておればよかったと猛省しております」

「いや、斯様な事態にもっと早く気付き、効果的な手を打たなんだ儂の責じゃて。思えば何処か目を瞑っておったのやもしれぬな。そんな筈がないと。虫に限って有り得る訳がないと。儂の悪い癖なのじゃ。一度何かを信じると、最後まで信じ抜こうとしてしもうての。……1人でよく頑張ったのう、亜門や。ここからは儂が付いておる故、安心するがよい」

「うう……殿……己は素晴らしき主に恵まれ申した……」

 熱くなる目頭を押さえ蹲る亜門に、藤兵衛はキセルを深く吸い込みながら、努めて陽気に笑い掛けた。

「まったく……いつもお主は単純で大袈裟よの。よし、そうと決まれば善は急げじゃ。一旦儂は戻り見張りに当たる故、お主は少しここで休んでいけい」

「そ、そうはいきませぬ! 殿にだけご負担をかける訳には……」

「一度に雁首を引っ提げれば虫に警戒されようて。それに……今まで心労をかけたからの。今晩は儂が引き受ける故、ゆるりと飯を食い旅の疲れを癒すとよかろう。まあ明日からは暫くお主に頑張ってもらうがの」

「殿……ありがとうございまする。御心が誠に染みたでござる。ではお言葉に甘えて少し休ませて頂きます。鍛冶屋の情報も集めたいゆえ。ただ何かあらばすぐに己の腕輪にお話し下され」

「ガッハッハ! 儂を誰と心得るか。この東大陸の王、金蛇屋藤兵衛その人ぞ。何も心配せず羽根を伸ばしておけい」

 そう言って金を机に置くと、颯爽と宿に帰っていく藤兵衛。その後ろ姿を見て再び涙ぐむ亜門。

(やはり……己の考えは間違っておらなんだ。素晴らしきは聡明なる主でありまする。よし、気持ちを切り替えて明日から励むでござる。卑劣な敵の好きにはさせぬぞ!)

 そう強く自らに言い聞かせていたからだろうか、亜門は自分に向けられる声にしばらく気がつかなかった。

「ねぇ、そこのかっこいいお兄さぁん。よかったら一緒に飲みませんかぁ?」

 亜門が驚いて振り返ると、そこには金色の髪を左右の中央で二つ結いにまとめ、腰まで掛かる長さまで垂らした幼女と見まごう女が、とろんとした上目遣いで彼を見上げていた。

「こ、これ! ここは酒場ぞ。其方の様な年端もいかぬ女子がいる場所ではないでござるよ」

「ええー。わたしこう見えても大人なんですよぅ。……ほら」

 彼女は亜門の手を優しく掴み取ると、幼い顔に似つかわしくない巨大な乳房にそっと押し付けた。即座に赤を超えてどす黒く顔色を変え、亜門は慌てふためき叫び回った。

「な、な、な、なにをしておるのか!? そんな破廉恥な真似を何処で覚えたでござるか! そもそも女というのはだな……貞淑で、その、ほれ、あの……」

「そんなのいいじゃないですかあ。さ、せっかくだから飲みましょうよお。今日のステキな出会いに、乾杯!」

 そう言って彼女は亜門に盃を近付けた。彼が錯乱しながら固まっていると、そのとき女が急に立ち上がり、そのままおもむろに亜門の唇を奪った。あまりの出来事を頭で理解することが出来ず、彼は呆然とその場で瞳孔を開き切るのみだった。そして、やがて彼の頭の中には、ぐらぐらとモヤの如き感覚が広がっていった。

「な、なんでござる!? 己は……いった………」

「なにも心配しなくてもいいわ。いっぱい可愛がってあげるから。……ふふ」

 次の瞬間、意識を失いその場に倒れ込んだ亜門。周囲の人間が何事かと振り返るが、全く動じることなく彼女は頬を染めながら言った。

「あら、やだぁ。わたしの彼が申し訳ありませんでしたぁ。すぐにおうちに連れて行くのでご心配なさらず。彼ったらこう見えて回復力だけは凄いんですよ。うふふ」

 そう言い残し、彼女はその体に似つかわしくない力で軽々と亜門を担ぐと、代金を机に置いて店の外へ出ていった。そのまま路地を人目につかぬよう歩き続け、やがて人通りが消えると彼女は表情をがらりと変え、唾を地面に履いて冷徹な顔を見せた。

「ったく……ほんとヌルい奴で助かったわ。ま、顔も悪くないしね。あの金蛇屋藤兵衛ではこうはいかなかったろうけど。それじゃ仕上げといきましょ」

 彼女の歩みに迷いはなかった。ただ、自らの信じる道を進むのみ、最初からそう決めていた。足跡に残る光の轍だけが、彼女の固い意思を示しているようだった。


 明くる日。朝を告げる鶏の声が能天気に町中に響いた。それを合図に跳ね起きる亜門。実に爽やかな朝だ。昨日の喧騒が嘘のように静かで平和な朝。彼は思い切り伸びをして、ふかふかの羽布団を跳ね除けた。露わになった傷だらけの上半身に暖かな光が差し込めていた。

……羽布団? ………裸?!

 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。彼はぱっと跳ね起きて、キョロキョロと周りを見渡した。明らかに一行の泊まっていた簡素な宿ではない、一目で高級と分かる内装のホテルの一室。布団の中ではもぞもぞと人が動く音がする。亜門はそれを凝視する。不吉な気配に喉が砂丘のように乾く。やがて、そこから顔を出したのは……。

「あ、おはようございますぅ、ダーリン。よく眠れましたかぁ?」

 言葉を失いその場で固まる亜門。その顔色は赤を通り越して鈍い漆黒へと変化していった。彼女はくすくすと笑いながら布団から出ると、露わになった裸の上半身を彼に押し付けた。

「な、な、な、な、な!!??」

「忘れないでくださぁい。昨日、ちゃんと約束したじゃないですかぁ。わたしを、リースのことを……亜門くんのお嫁さんにしてくれるって。わたし、本当に嬉しかったんですぅ」

 彼女の言葉に目の前が暗くなる中、必死で記憶の糸を辿る亜門。だがその行為はリースの“攻撃”によって強制的に中断された。急所狙いの致命の一撃に彼は全ての思考を断たれ、鍛え抜いた強靭なる鋼の精神力すらも霧のように蒸発していった。

「や、や、や、やめよ!! そ、そ、そ、そんなはしたない事は……」

「ふふ。忘れないでくださぁい。わたしはもうあなたの許嫁なんですからあ。責任……とってくれますよね?」


 神代歴1279年3月。

 亜門の運命は急速に回転と直滑降を繰り返していた。それがどのようにして一行と交わるのか、現時点では誰にも分からなかった。ただ、虫の鳴く涼しげな声だけが、風の奥から彼の耳へとそっと流れていった。

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