第3部 運命を切り裂く刃〜ビャッコ国編〜

第27話「ストレイト・ストーリー」

 冬も終わりを告げ、春の息吹が旅人の心を撫ぜる良き日。

 シャーロット一行は暖かな風に身を委ねながら、一歩ずつ西へと進んでいった。ゲンブ国の端、西のビャッコ国との国境は間も無く。追いやる影も未だ見えず、夜の闇に一片の曇りなき清々しき日々。彼らは現状の安心を確認するとともに、近い未来への一抹の不安を抱えながらも、それでも一歩ずつ確実に先へ先へと進んでいった。

「いやあ、実に暖かな良き日でござるな」

 偵察から戻ってきた秋津国の侍高堂亜門は、額にほんのりと滲む汗を拭きながら、長身痩躯を屈めて実に快活に笑った。金蛇屋藤兵衛は垂れた目を細めて彼を迎え入れると、力車を引く手を休めて悠然とキセルに火を付けた。

「確かにの。こんな陽気が続けばよいのじゃがな。ところで首尾はどうじゃ? 敵の姿はあるか?」

「いえ。感じられませぬ。すれ違う人々も事情を知らぬ旅人ばかり。完全に撒いたと考えてよろしいかと」

「けっ。どうだかな。この国じゃ俺らがお尋ね者ってことにゃ変わりねえ。甘く考えんじゃねえぞ」

 荷台の上で寝転がる大柄の闘士レイは皮肉な表情を見せ、太い中指を突き立てた。それを聞いた藤兵衛は心底不機嫌そうにふんと鼻息を吐いたが、亜門は快活な笑顔でそれに応えた。

「はっはっは。確かにレイ殿の仰る通りでござるな。『鬼は居ずとも三度振り返る者が勝者也』。秋津の格言にござる。如何に警戒しても足りぬいうことはありませぬ。己は再び歩哨をば……」

「よいではないですか、レイ。もう昼も過ぎました。この辺で一度休憩をとってはどうでしょう?」

 力車からシャーロットがひょこりと顔を出して、美しく微笑んだ。藤兵衛は嬉しそうに笑うと、道の外れの方を指差して言った。

「ゲッヒャッヒャッ! 流石はシャルじゃ。話が分かるのう。こんな陽気がよい日に、馬鹿の一つ覚えの如く進んでも仕方ないわ。亜門や、あそこに梅の花が咲いておるぞ。いっそ花見と洒落込もうではないか」

「は! 殿の御命令とあらば。しかし花見とは懐かしいですな。殿にも秋津の美しい桜を見せとうござる」

「ホッホッホ。実に愉快じゃのう。これ、虫や。儂の取っておきの酒を振舞う故、貴様は馳走を作って参れ」

 そう言って力車を放置し、レイが止める暇も無く一目散に丘の上へ駆け上がる藤兵衛と亜門。呆れ返り苛つくレイに、シャーロットが優しく肩に手を当てた。

「あ、待ちやがれ! ……ったくお嬢様は甘いんだから。これだからあのクソがつけあがるんですよ」

「ふふ。これが噂に聞くお花見ですね。私も楽しみです!」

「あ! お嬢様お待ち下さい! ……ああ、マジめんどくせえ!」

 彼らに続いて力車から走り去るシャーロット。レイの深いため息が幾重にもこだまし、だがそれは彼らの歓声に飲み込まれていった。


 一方、グラジール都心部。

 1人の女性が、大聖堂付近の信徒たちと親しげに話していた。年のほどはまだうら若き10代であろうか、長い金色の髪を左右の中央で二つ結いにまとめ、腰まで掛かる長さまで垂らしたその外見は、まるで幼女と称しても差し支えなかった。彼女はサイズオーバーの純白に輝く信徒服をすっぽりと着込み、にこにこと親しみやすい笑顔で人々と話をしていた。

「ええー。ここでそんなことがあったんですかぁ。うう、わたし怖いですぅ」

 彼女は小さな体を小動物のように震わせて、涙目で人々の肩にもたれかかった。

「おやおや。泣かないでお嬢さん。たしかに今の大司教様は何者かに殺されてしまったけど、実はあいつは悪者だったのさ。前大司教フレドリック様が悪い奴をみんな倒してくれたから安心するといいよ」

 信徒の1人が言い聞かせるように言った。すると彼女は両手で涙を拭き、不安を吹き飛ばすように力強く返した。

「ふええん。でも皆で協力すればきっと上手くいきますねぇ。こんな時こそアガナの団結力を見せましょうよ」

「そうだな。幸い今は協力してくれる方も多いしね。……おっと、噂をしてたら来たぞ。お嬢さんも一緒においで」

 その時、大広間にガラガラと音を立てて何かが近づいてきた。信徒たちは彼女の手を引いて音のする方に進んだ。そこにあったのは、トナカイに引かれた黒い荷車だった。帆に巨大な金色の蛇の印が記された荷車はゆっくりと止まると、そこから初老の男がにこやかに出てきた。

「信徒の皆さん、お待ちどうさま。月に一度の金蛇屋物流がお邪魔しますよ。帝都の美味しいお菓子もあるからね。ささ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」

 よく見ると荷車は、老人の背後にも10台近くいた。信徒たちは我先にとそこに群がり、幼女の周囲の信徒たちもそれに続いた。彼女は驚きふためき、何事かと彼らに尋ねた。

「こ、これって……一体何なんですかぁ?」

「はは。驚くのも無理はないか。これはね、大司教様の御友人である金蛇屋藤兵衛さんが、格安で物資を運んでくださるんだ。見たこともない珍しいものや、美味しいものもたらふく買えるよ。ほれ、ぼうっとしていたらなくなっちゃうぞ」

 人々は嬌声を上げて品物に群がっていた。彼女はそれを横目で見ながら小さくため息をつき、雑踏の中に掻き消えるようにそっと姿を隠した。信徒の1人が彼女の不在に気づいたが、すぐに自分の買い物に必死になり、やがてそんな人物が存在したことさえ忘れていった。

「……金蛇屋藤兵衛。噂通り、いやそれよりも斜め上の男ね。必ず尻尾を掴んでみせるわ。アガナ神教本国アガナパレス、教皇フリーダ様の名にかけて!」

 独白のような小さな声が、グラジールの裏路地を風の如く流れていった。


 山道近くの丘の上。宴。

 シャーロット一行は一旦その足を止め、梅の花舞い散る木々の中で優雅に花見を行なっていた。特に藤兵衛は酒を浴びるように飲み耽り、一同を巻き込み率先して大騒ぎをしていた。

「ゲッヒャッヒャッ! 昼から飲む酒は気持ちよいのう。ほれ、虫よ。しかと飲んでおるか?」

「おいクソ商人! てめえちっと飲み過ぎだぞ! ほんとにこのあと大丈夫なんだろうな?」

「ふん! 儂を誰と心得るか。この金蛇屋藤兵衛、仮にも蛇の名を冠する男ぞ。この程度の酒で不覚になる訳がなかろう」

 定まらぬ視線をレイに向ける藤兵衛。その横には頬を赤く染め、彼の肩にもたれかかる美しき魔女シャーロットの姿があった。

「ふふ。私はとても気持ちがよいです。お花見とはこんなに素晴らしいものだったのですね」

「おお! シャルも飲んでおるようじゃのう。どれ、もう少し近う寄って酌をせい」

「ああ? チョーシのんじゃねえ!!」

「グェポ!!」

「ふふ。行かせませんよ。……『ビエント』」

 レイに彼方へと蹴り飛ばされる藤兵衛を、風の術式でふわりと受け止めたシャーロット。彼はその頭を彼女の膝に乗せ、実に気持ちよさそうに目を閉じた。

「て、てめえなにしてやがる! さっさとお嬢様から離れろ!」

「嫌じゃ。儂はここに居るのじゃ。離れはせんぞ。……のう、シャルや」

「……ええ。ずっと一緒ですよ」

 藤兵衛に鋭い殺意の視線を向けるレイに対し、輪をかけて強烈に鋭く突き刺さる視線。はっと顔を上げたレイに対し、シャーロットはその大きく見開かれた目を以って、明確に“邪魔をするな”と告げていた。レイは深く大きくため息をつき、のそりと立ち上がってその場を後にした。

「ったく……おい、亜門。なんか芸でもやれや。気分悪くてしゃあねえ」

「は! 御命令とあらば。では……秋津国に伝わる秘伝の芸『般若滅殺の舞』をご覧あれ!」

 亜門はその場で全裸になり、狂ったように珍妙極まる舞いを踊り始めた。それを見て大笑いし、一気に酒を飲み干すレイ。心底気持ちよさそうに目を閉じる藤兵衛。そんな彼を慈愛に満ちた表情で見つめるシャーロット。

「……こうして梅の匂いを嗅いでいるとのう、昔のことを思い出すわい」

 ぼそり、と語り始めた藤兵衛。この旅が始まって以来初めて、自ら過去の事を話し始める彼に、シャーロットは静かに美しく微笑んで耳を傾けた。

「この前見た通り、儂の家は貧しくての。親父は廃人寸前の飲んだくれ、お袋はそんな奴に逆らうこともできん。儂ら兄弟はいつも親父に暴力を振るわれての、びくびく怯えながら毎日を過ごしておった」

「そう……だったのですね。とても意外でした。藤兵衛は生まれた時からずっと、商人として修行を積んでいたのかと思っていましたから」

「あの頃の儂など、最下層以下の存在じゃて。ほんにどうしようもない家での。儂らにとっての救いは……姉のみじゃった。年は10ばかり離れていての、いつも優しくて、いつだって儂らを庇ってくれてのう。どんな時も儂らの味方じゃった」

「藤兵衛は……お姉さんのことを大好きだったのですね?」

「……そうじゃな。相違ないわ。儂は今迄、受けた恨みも恩も等しく10倍にして返してきた。それが儂の主義でもあるし、誇りでもある。じゃが……ただ一人、自分の姉にだけは何も返せておらぬ。姉はある日……人買いに売られてしもうた。今日のように梅の花が満開の日じゃった。全てはあの糞親父の借金のカタにの。この匂いを嗅ぐといつも思い出すわ」

 シャーロットは衝撃的な話に返す言葉を失い、ただ静かに藤兵衛の肩に手を置いた。彼は更に深く目を瞑り、口を僅かに曲げて皮肉に笑った。

「すまんすまん。ちとどうかしているようじゃ。珍しく酒が効いたかの。先程のことは忘れてくれい」

「私は……忘れませんよ。貴方とが話してくれたこと、貴方が掛けてくれた言葉、貴方がくれた思い……私は何1つ忘れることはありません」

「……そうか。儂は……よき連れを持ったようじゃな。じゃがの、シャルや。儂はタダだけは大嫌いじゃ。儂に話させるだけではなく、そろそろお主の話をせい。この旅の目的、お主の思い、そろそろその辺をはっきりさせてもらおうかの」

 藤兵衛は口元に笑みを浮かべたまま、一気に垂れた目を見開いた。急激鋭い光を纏った彼の眼を真っ直ぐに捉えて、シャーロットは引き締まった表情で小さくも確かに頷いた。

「ええ。分かりました。今夜にでも全てをお話ししましょう。不快な気分にさせるかもしれませんが、どうか聞いていただけますか?」

「勿論……じゃて。シャルのことは全て……儂は………」

「藤兵衛? ……眠ってしまいましたか。ふふ。珍しいこともあるものですね」

 優しい表情で彼の頭をさすり続けるシャーロット。その姿をやや離れた場所から見つめる亜門とレイ。

「確かに珍しいですな。殿が斯様に酔潰れるなど考えられませぬ」

「ま、あいつなりにこたえてんだろ。こないだのグラジールでの一件がな。クソはクソなりによ」

「そうなのですか? 己はその場におりませんでしたゆえ。いつもの殿とお見受けしましたが」

「あいつは……ガーランドの野郎を救おうとした。でもそいつはムリだった。あんな感じで隠しちゃいるが、あいつは深く傷付いてる。そろそろ付き合いも長えからな。俺にもなんとなくわかるよ」

「……そうでござったか。この亜門、まだまだ未熟者にござる。しかし、あの巨悪をも味方にせんとするとは、殿の度量は流石にござるな」

 無邪気に嬉しそうにする亜門に、レイは皮肉に笑いながらごろりと横になった。

「さあてね。アレがなに考えてどうすんのかなんざ、俺にゃとても想像もつかねえ。はっきり言って……ありゃバケモンだよ。主に悪い意味で、だけどな」

「はっはっは。世に名を轟かす大人物とは、得てしてそういうものにござるよ。秋津の格言にも『善悪分つは其れ全て巨大なる刃』とあり申す。偉大なる力を秘めた御方とは、常人の理解を遥かに越えてくるものかと存じまする」

「へっ。んなモンかね。ただよ……あいつは性格は尋常じゃなくひねくれてやがるし、頭はたっぷりとイカれてやがる。おまけに顔も悪いし体力もねえ、クソを腐らせたみてえにねちっこくて、病的な守銭奴ときてる。そんなおおよそ生きてる価値のねえ、どうしようもねえクソ野郎だけどよ……どこからどう見ても並みの男じゃねえな。ダテに大商人だなんだとほざいちゃいねえ。そこだけは認めてやるぜ」

「は。ほぼ全面的に同意にて。殿は紛れもなく並ぶ者のない大人物にござるが……困った部分はちと深うござるな」

「ハッ! てめえも言うようになったな! ったく笑わしてくれんぜ」

 亜門の言葉に思わず吹き出したレイは、楽しそうに酒を飲みながらも、ふと何かに気付いて彼の顔を繁々と覗き込んだ

「ところでよ、てめえいっつも酒飲んでねえよな? あんま得意じゃねえのか?」

「い、い、い、いや! な、な、な、何を仰いますか! 己は勇敢な秋津の侍にござるぞ! 酒なぞいくら飲んだところで酔いはしませぬ! お、お、お、己はただ皆の安全のために……そう! 皆様の為に敢えて損な役を買って出ているだけのことにて!」

「……ははあん。さてはてめえ下戸か。つくづく見かけによらねえ野郎だな。まったくよ、こんなうめえモンを飲めねえとか、そうとう人生損してるぜ」

 レイはヘラヘラと笑いながらグラスを飲み干した。亜門はその言葉に顔を上気させると、酒瓶を片手に勢いよく立ち上がった。

「レ、レイ殿! いくら何でもあんまりでござる! 己は秋津でも指折りの酒豪と呼ばれた男でありますぞ! 大陸の小便臭い酒では顔色1つ変りませぬ!」

「いいっていいって。べつに無理強いしてるわけじゃねえからよ。しかし……あれだけ気合だ根性だとかホザいてるやつが、まさか酒の一つも飲めねえとはなあ。正直ガッカリだぜ」

「うぬぬ……ならばこの己の力、秋津国の侍の力を、しかとその目に焼き付けよ! 大殿、奥方様、国父典膳公よ! 己に力を! ……南無三!!」

 気合一閃、突如として浴びんばかり酒瓶を飲み始めた亜門。みるみるうちに瓶は空になり、げふうと大きく息を吐いた亜門に、レイは唖然としながら話しかけた。

「な、なんだ。やりゃできんじゃねえか。し、しかしよ、いきなりそんなに飲んで平気なのか? 顔がその……赤を通り越して紫色になってっけどよ」

「もちろんで……ござるよ。大殿……己は秋津の誇りを………オェェェェエ!!」

 大地に思い切り自らの胸の内をぶち撒けた亜門は、やがてゆっくりとその上に顔面から垂直に落ちていった。

「お、おい! だから言ったんだ! ……ダメだ。意識がねえ! お、お嬢様、亜門の手当てを……」

「ZZZ……」

 こくりこくりと静かに寝息を立てるシャーロット。

「グオオオオオ!」

 激しいいびきを立てて彼女の膝の上で寝込む藤兵衛。

「ったく……もうなんだってんだ! クソったれ! ああ、もうどうしょもねえ!」

 レイの絶叫が響いた。季節は初春、天気は穏やかな晴れ模様。シャーロット一行の旅は新しい幕を切ったのだった。


 一方、グラジール市街地の外れ。未だ雪の溶け残る森林の中。

 幼女の如き姿の金髪の少女は深く目を閉じて、静かにその意識を集中させた。するとそれを合図にしたかのように、背後からスッと数名の影が忍び寄ってきた。

「諜報完了。やはり隊長の読み通り、ハイドウォーク家が一枚噛んでいる模様です」

「ね、あたしの言った通りでしょ? あのうさん臭い一族が全ての元凶だって」

 先程までの幼い表情を一気に脱ぎ去って、彼女はその本性を露わにした。その可憐な身なりに似つかわしくない、訓練された立ち居振る舞いからは、一種の威厳すらも感じられた。影は直立不動で彼女の言葉を聞くと、小さく頷いて控え目に言葉を挟んだ。

「はは。我らが慈愛の女神の家系にその言いよう。とても敬虔な信者とは思えませんな」

「いいのよべつに。あんなお伽話どうでもさ。そんなのより今生きてる人を優先しないとね。祈りだけじゃメシ食えないんだし」

「しかし流石は隊長です。あれだけの情報から状況を読んでいらっしゃったとは。東大陸へ向かえと命を受けた時は、正直どうなることかと思いましたが」

「例の『首輪』が剥がれたからね。まあこんなことだとは思ったわ。本国のお偉いさんは今頃胸を撫で下ろしてるんじゃないの?」

 そう言って彼女は懐から取り出した紙巻き煙草に火を付けた。その堂に入った姿には迷いや憂いはなく、油断なき光が目の奥に宿っていた。

「それにしても……まさかガーランドが討たれるとは。いかにハイドウォーク家とはいえ、あの男が持つ『賢者の石』と真紅の降魔石を前に、こうも簡単に勝利するとは思えませんでした」

「……そうね。なんでも余計なことをした男がいるらしいわ。しかもそいつの名は、皆もよく知るあの……金蛇屋藤兵衛だそうよ」

 ざわざわと色めき立つ一同。彼らの中で藤兵衛の名と悪口が激しく飛び交った。

「あの強欲な男がここにも!? 本国にちょっかいを出すだけでは飽き足らなかったのか!」

「例の不浄極まる男が……リース隊長、放っておいてよいのですか?」

「アガナの誇りにかけてこの機会に奴を捉えねば! 教皇猊下もそれをお望みの筈です」

「はいはい。皆の気持ちは分かるけど、そんなんじゃあの狸の思う壺よ。とりあえずあたしの指示通り動いて……ん? ちょっと待って」

 僅かな音、同時に這い寄る闇の気配。気付いた時には周囲に獰猛な獣人の如き姿、サスカッチの群れが牙を剥いてこちらを伺っていた。その数は5匹。

 しかし、一見普通の人間にしか見えない彼らは、そんな超常の事態にも一切動じることはなかった。まるで当然のことのように各々戦闘の構えを取ると、懐から何やら紙切れを取り出した。

 その時、リースと呼ばれた幼い姿の女性が彼らを押し留めると、目にも留まらぬ速度で、頭の両脇に垂らしたおさげをふっと風に靡かせて、懐の符を敵陣目掛けて嵐のように投げ付けた。

「……やれやれ。闇に堕ちし者、いや堕とされた者ね。気分はよくないけど、闇を祓うは神教の責任。ここはあたしがやるわ。あんたたち下がってなさい」

「は。お任せします、リース隊長」

 舞い散る符を掻き分け、サスカッチの牙は今にもリースに突き刺さらんとしていた。しかし、彼らの身体は見えない力に握られたように、その場所から微動だにも出来なかった。彼女は忌々しそうにタバコを吐き捨てると、僅かに眼を細めて呟いた。

「安心して。きっと“そっち”は善き所よ。聖母アガナ様も迎えてくれるわ。……アガナ神教第一教典『プララヤ』!!」

 彼女の目の前の空間に、符から生み出された無数の光の縄がサスカッチを覆い尽くしていった。彼らは声を上がる間も無く、まるで蒸発するように微かな音を立てて消滅していった。余りにも見事なその手腕に、1人の若い隊員が思わず小さな歓声を上げた。

「へっ。隊長にかかれば下等な眷属などこんなものだ。アガナの力を思い知るがいい」

「……おい。よく見ろ」

 年配の隊員が興奮する彼に向けて、顎でサスカッチの方を指し示した。その骸からは既に闇の気配が一切消え失せており、只の人間の死体が転がっているのみだった。唖然とする彼を一瞥し、リースは新たな符で彼らを包み込んだ。

「こいつらは……例の“実験”の犠牲者よ。元はあたしらと変わらない、ただの信徒なのにね。フレドリックのやつ……ほんとふざけてるわ」

「も、申し訳ありませんでした。余計な口を叩いてしまいまして!」

「いいのよべつに。どんな理由があれ、“闇”は必ず“光”の前に打倒されなければならない。あたしら特務はその為に本国から来てる。絶対にそれだけは忘れないでね」

「は! 無論です! 偉大なる聖母アガナ様の名にかけて!」

 規律ある動きで敬礼の姿勢をとった隊員たち。それを満足そうに見つめ、リースは満足そうに新しいタバコに火を付けた。

「いいわ。なら今後の動きを命令するわね。サニーは東大陸全体の状況把握、イアンはグラジールに残って情報収集とクソゲス野郎の諜報、マルメスは本国へ今までの報告、以上よ。質問は?」

「は! 恐れながら、隊長はどうなさるおつもりでしょうか?」

「予定通りビャッコ国へ向かうつもり。ミカエルの動きが気になるし、何より今は“お姫様”の方ね。連中の目的をはっきりさせないと、命令完遂の前に足元を掬われかねないわ。虎穴に入らずんば、って感じだけど、まあやるだけやってみないとね。異論はある?」

「は! ありません。隊長のお力は我々が一番存じております。それでは無事をお祈りしております」

「あんた達こそ無事でね。それじゃ、お互い頑張りましょう」

 影は四散し、リースはふっと肩から力を抜いた。先程までの熟練の姿はとうに消え失せ、あどけない幼女の如き表情が戻っていた。彼女は森から気配を伺い、一台の馬車が通りかかるのを見定めて、ふわりとその近くに駆け寄った。

「(……家紋からしてビャッコ国の貴族ね。おおかた女漁りの帰りってとこかしら。こんなところまでご苦労なこと)ふえぇん。おじさま、わたしを助けて下さあい。実はわたしぃ、どうしてもビャッコ国まで行きたくてぇ……大好きなお父さんの病気に効く薬を手に入れたいんですぅ。……ええ?! いいんですかあ? うっうっうっ、このご恩は一生忘れません。おじさま大好き! わたし何でもしますぅ!」

 彼女は一体何者なのだろうか? そして、彼女の目的とは? シャーロットたちとどのように関わるのか、全てはまだ闇の中、ただ風吹く夜の中にあった。ゆっくりと陽が差し込めたグラジールの大聖堂が、キラキラと七色に光りを放っていた。


 一方、花見の丘。夕刻近く。

 気持ちよさそうに眠りこくる一行を尻目に、ぶつくさと文句を言いながら片付けをするレイの姿があった。

「ったく、このクソどもが! どいつもこいつも好き放題騒ぎやがってよ。ケツふく俺の身にもなれってんだ」

「ふふ。よいではありませんか。たまには骨休めも肝要ですよ、レイ」

「ったく……お嬢様はあめえんだから。ま、やることやってりゃぶん殴りはしませんがね」

「駄目ですよ、レイ。すぐ暴力に頼っては。私を見習って慎ましく生きなくては」

「ハッ! あんな大技使っといてよく言いますぜ。俺のほうがずいぶん優しいってモンだ」

「ふふ。いつも皆に助けられてばかりですからね。いざという時に動けねば私のいる意味がありませんから」

 少し前に目を覚ましたシャーロットが、美しく微笑みながらレイを手伝っていた。2人は談笑しながら艶やかに束の間の休息を楽しんでいた。時間がゆっくりと流れ、闇が辺りを支配しつつあっても、2人の時間は揺るぐことはなかった。片付けが終わっても、一向に目覚めようとしない彼らを尻目に、シャーロットとレイの親密な時は密度を増していった。

 だが、全ての始まりは、正にその時のことだった。

「ギャハハハ! そりゃケッサクだ! あのクソの言いそうなこったぜ」

「それでですね、藤兵衛が言うのです。『金がなくば貴様の……」

「え? お、お嬢様?!」

 会話の途中でシャーロットは不意に蹲り、顔を歪めて両足を抱え込んだ。その剣呑な様子に思わず立ち上がり駆け寄ろうとするレイに、彼女はすぐに笑顔に戻って制した。

「……何でもありませんよ、レイ。少し足が痛んだだけです。恐らくは旅の疲れが出たのでしょう」

「そ、そうなんですか? ちっと心配しましたよ。このところ強行軍でしたからね。少しお休みになった方がよいのでは?」

「そうですね。申し訳ありませんが、少し休ませて頂きます。……あら。もしやあの影は……」

 シャーロットが指差した先、丘から見える道の先に、巨大な男の影が手を振っているのが見えた。何事かと目を凝らすレイに、大男は嬉しそうに手足をバタつかせながら大声で叫んだ。

「おおい! お嬢様にレイ! 元気だったかあ?」

「ドニ! こんな所までどうやって? そもそもどうしてこの場所が?」

「ケッヒョッヒョ! 先ずは実験成功といった所かのう。実に愉快千万じゃて」

 いつの間にか目を覚ましていた藤兵衛が、邪悪な笑みを浮かべて彼女らの背後に立っていた。驚く2人を意に介さず、彼は悠然とキセルに火を付けると、息を切らせて駆け上がって来たドニに対し尊大に言い放った。

「うむ。時間通りじゃのう、ドニよ。ラドグスク鉱山からは長旅であったろう。褒めて遣わすぞ」

「へへ。指示が完璧だったからね。それにお嬢様の命令っていうなら、おいらいつでもいくらでもなんでもするよ」

 その言葉から伝わる不穏な気配に、シャーロットは目を丸くしレイは嫌悪感で顔を染めた。だが藤兵衛はまるで動じることなくぽんとシャーロットの肩を叩くと、そのままドニに向き合って強引に話を進めた。

「うむ、うむ。助かるわい。儂とて病み上がりのお主にこんな事を頼むのは気が引けるのじゃが、何分シャルたっての頼みでのう。お主も思う所はあるかもしれぬが、ここは一つ可愛い我儘と水に流してくれい」

「へへ。おいらなーんも気にしてねえよ。じゃあ約束の品を渡すかんな。ちゃんと人数分出来てるからさ」

 そう言ってドニは懐の包みから何かを取り出した。一同が注目する中、出て来たのは銀色に輝く金属片だった。藤兵衛は目を輝かせてそれを手に取ると、細い目を蛇のように鋭く光らせ、繁々とあらゆる方向から油断なく観察し、やがて満足げに深く頷いた。

「完璧じゃ。儂の見込んだ通りじゃの。約束の金子はアツオに渡してある故、今後の生活に使うがよい」

「おいら金なんていらないよ。お嬢様が喜んでくれればそれでいいだ」

 気持ちの良い笑顔を向けるドニに、藤兵衛に急かされたシャーロットは意味も分からぬまま美しく微笑んだ。

「けっ。なにたくらんでるかしらねえが、お嬢様をクソみてえな話のダシにしようってんなら容赦しねえぞ」

「放っておけい、ドニよ。知恵と想像力の欠如した原始人の戯言じゃ。其方に住まいと仕事を提供した儂を信じよ」

「そうだよレイ! 旦那様はこんなバケモノのおいらに生きがいをくれた、本当に優しい人なんだよ! 金蛇屋のみんなもみーんないい人ばっかりさ。おいら心の底から感謝してるんだよ!」

(だ、旦那様だあ?! いつの間にここまでたらし込みやがった? そんな時間なんてなかったハズだぞ!)

「ふふ、ドニったらはしゃいじゃって。しかし彼を受け入れてくれたようで何よりです。……ありがとう、藤兵衛」

 頬を赤らめてうっとりと見つめるシャーロット。鼻から煙を吐き出しながら高らかに笑う藤兵衛。

「何も感謝など要らぬわ。儂の前で人種や性別、種族などは何の意味も持たぬ。使える者は人であれ何であれ馬車馬のように使う、それが儂の流儀ぞ。金蛇屋の社員となった今、一切遠慮はせぬ。お主のその“力”、儂の為に存分に振るうと良いわ」

「もちろんだよ旦那様! 既に指輪はいーっぱい作ってんだ。それに例のアレも……」

「おっと、そこまでじゃ! アレの話はまた後での。なあに、いつでも儂らは“繋がって”おるのじゃからな」

「いっけね! うっかりしてたよ。そうだよね、絶対にレイにだけは言うなって……モゴモゴ!!」

(あやしい……まーたなんかたくらんでやがんのか)

 死んだように動かぬ亜門を尻目に、親密な輪は更に温かみを増していった。やがて夜の帳が彼らをすっぽりと包み込んでも、尽きる事のない笑い声がこだまし続けていた。

「さて、そろそろおいらは行くよ。みんな遅くまでありがとうね」

「え!? まだよいではないですか。ねえ、藤兵衛?」

「そうじゃそうじゃ。まだ酒は無くなっておらぬぞ。このままでは飲み足りんで干からびてしまうわ」

「へっ。だ、そうだぜ。クソ社長の命令だろ?」

「……みんなあんがとな。でも次の仕事でヘマしちゃってもいけないから。じゃあねみんな、おいらほんとに楽しかったよ! ラドグスクに来たら寄ってくれよな! 亜門にもよろしくね」

 そう言ってドニは何度も手を振りながら走り去っていった。嬉しそうにキセルをふかす藤兵衛、微かに微笑んで手を上げるレイ、死んだように眠る亜門、途中まで見送ろうと歩き出したシャーロット。

 だがその時。

「ううっ!!」

 くぐもった声を僅かに発し、その場に崩れ落ちるシャーロット。駆け寄る一同の頭上で、不穏に流れ始める黒い雲。


 神代歴1269年2月。

 世界は歪んでいた。誰のせいでも無く、ただひとりでに。

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