第24話「大舞台」

 ゲンブ国、首都グラジール。中央大広間。

 向き合う藤兵衛とシャーロットから視線を外さず、ガーランドは全く状況が掴めぬ中、内心では混乱しながらも極めて不敵に笑ってみせた。

「なるほど。分かるのは1つ。ここまでは俺の完敗か。それは理解した。だがここからはどうかな?」

 彼の態度は虚勢ではなかった。大広間の衛兵達は直ちに異変を察知して、急ぎこちらに近づきつつあった。そこには闇の力を持つ近衛部も含まれており、彼らを倒すまでは不可能でも、足止めとしては申し分なかった。しかもシャーロットは人間を殺せない。となれば信徒の密集するこの場で、彼女は大規模な術を使えない筈だ。尚更問題ない、彼はそう高を括っていた。

「やはり甘いの。ガーランドや、ここまでで何を学んできたのじゃ? 儂を舐めると痛い目にあう……そう教わらなかったかの?  さあ出でよ皆の衆! 今が決戦の時ぞ!」

 その声を受けて、周囲から男達が一斉に動いた。彼らは巧妙に信徒達に紛れ、この機を伺っていたのだった。彼らは迷うことなく衛兵達に襲いかかり、瞬く間に広場では乱戦が勃発した。逃げ惑う信徒達、沸き起こる戦いの音色、そして怒りに震えるガーランド。

「あれは……! 俺に逆らうクズどもが何故ここに?! 何故藤兵衛と接点がある?」

「知らぬが仏というやつよ。儂は貴様とは違っての。儂1人で出来る事などたかが知れておるわ。儂と貴様では見えておる風景が違う故の」

「……そもそも何故『首輪』が外れている? 何故貴様がここにいる? ……何故だ!!」

「自分の常識だけで物事を図ると足元を掬われるぞい。まあ既に掬われておる訳じゃがの。自分に出来ることが、自分だけが出来ると考えてはならん」

 藤兵衛は胸元に闇力を込めて、右手から『転移』の術を繰り出した。すると握り込んだ拳の中から響き渡る声、音。広場中の音が歪んだ空間から湧き出し、ガーランドの耳に多重奏のように耳に届いてきた。自身の中の違和感がみるみる氷解していくにつれ、彼はぎっと割れんばかりに歯を噛み締めた。

「貴様! まさか転移術で……俺たちの声を飛ばしたのか!」

「貴様の能力と発想は、儂にとって実に良い糸口であったわ。言ったであろう? 儂らは似た者同士である、と」

 藤兵衛はキセルを悠然とふかし、嘲笑するように垂れた目を更に下げた。


 最初から藤兵衛は、転移術をあらゆる方向で応用しようと考えていた。鉱山で敵の能力を詳細に認識してから、首都に着く馬車の中でひたすらに練習し続けた。ガーランドは標的の感じる全ての音を傍受する。ならば標的付近の空気を、彼が傍受する音ごと自分の耳に『転移』すれば帳尻が合う筈だと。

 藤兵衛は最初の会談の時から実験を続けていた。この時点で違和感を感知されたなら即座に中止し、他の策に切り替える。だが彼は何も言ってこなかった。その後、去った後のガーランドとカミラ達の会話も傍受したが、やや危険な局面もあったものの、慎重に行えば全く問題ないと分かった。どうやら敵の術も完璧なものではなく、多少のブレは許容され、その範囲を感覚として理解していった。

 そこから始まる蛇の攻勢。聞いた会話から策を練り、各方に適切な指示を出した。とは言え直接声を発する訳にはいかない。とならば手段は文字しかない。彼は沢山の手紙を書き、その中にシャーロットたちへの指示文を潜ませた。彼女の動向は逐一彼ら自身が報告してくれるので、居場所も含め容易に把握する事が出来た。

 何より肝心なのは手段。全ての行動が監視される中、如何にして伝達するか。藤兵衛は分かりやすく幾つもの騒ぎを起こし、その隙に人を介して運ばせようとした。夜の街には色んな手合いがいる。手紙と金を渡すだけで、全てを察し仕事をしてくれる者もいる。彼は今回、酒場にいたバニーの女性を多用した。彼女らと乱痴気騒ぎを繰り返し、通常では考えられぬ程の多量の札束の中に手紙を挟み込み、大胆かつ大袈裟に胸元にねじ込んで、目つきだけでその意図を伝えた。果たして彼女らは指示通り動き、時に転移術による撹乱も交え、万事は上手く運んでいった。

 だが問題はここから先。整えた舞台で如何にして踊るか、藤兵衛の本領発揮というところだった。


「さて、種明かしは済んだところで、後は貴様に情報を吐いてもらうだけじゃ。貴様がどんなに拒んだ所で、シャルの術さえあればどんな者もペラリと吐きおるわい。覚悟して許しを乞うがよい。グワーッハッハッハ!!」

 ガーランドは考える。この場を切り抜ける策を。生き残る術を。限られた時間で最大限に脳をこじ開ける。

(シャーロットとまともにぶつかってはならない。今宵は満月、月満ちる晩のハイドウォークに勝てる者は存在しない。……ええい! ここにカミラさえいれば話が変わったものを! あいつは一体何を追いかけている?)


 一方、国境へと至る道。

 カミラは馬に跨り、水鏡に映る姿を追いかけていた。徒歩と騎馬の速度差は顕著であり、手元に映し出される風景から判断しても間も無く追い付く手筈だった。いかに賢者の石を所持しているとはいえ、相手は主たる力を失った老人。追従する近衛部隊5名でかかれば造作もない敵の筈だった。

 その時、水鏡に反応があった。歩き疲れたのか、木の根元に寄りかかり足を止めた。ニヤリと笑みを零したカミラは、部隊に向けて檄を飛ばした。

「間も無くだ。各員警戒せよ。罠が仕掛けられている可能性はある」

 口ではそう言いながらも、そうした様子がなかったのは確認済みだった。今の彼に罠など仕掛ける時間も余裕もない。どこか弛緩した空気が流れたその時、水鏡が急速に動き始めた。

「な、なんだ!? 動きが追えん! ……早い! 早すぎる!」

 カミラが異変に気付いた時には、全てが遅かった。閃光のように近づいた白いローブの人物が、風を纏い瞬く間に特務部隊を薙ぎ倒していったのだ。慌てて『降魔』を発動させようとする一同だったが、影はその隙は与えなかった。いや、むしろそうした行動自体が隙となった。5名の近衛部隊は全員、抉り取られんばかりの強烈な一撃を胸部に喰らい、揃ってその場で意識を失った。立っているのは寸前で辛くも攻撃を回避したカミラと、ローブを被った大柄な筋肉質の人物のみだった。

「その動き……藤兵衛ではないな! 一体何者だ!?」

 影はローブを振り払い、大きな目で鋭くカミラを睨みつけた。そこにいたのは他でもない銀髪の闘士、シャーロットの一番の従者レイだった。

「へっ。でけえマヌケが釣れやがったな。クソ商人の言った通りだぜ。さっさとブチ殺してやるからかかってこいや。俺は忙しいんだ!」

「貴様か! まったく意味は分からんが……私の目の前に立った以上、排除するしかない! 偉大なる神の力を思い知れ!」

「へっ。くせえ闇をぷんぷんさせといてよく言いやがるぜ。やれるもんならやってみなクソ女。神とやらが本当にいりゃ、てめえみてえなザコでも俺に勝てんだろうぜ」

「黙れ!!」

 歯噛みするカミラと、にやにやと嘲笑し中指を立てるレイ。雪原の荒野を背景に、2人の女の戦いが始まろうとしていた。


「ああ、悪魔だ! 奴らが悪魔を呼んできた!」

「助けて下さい! アガナ様……どうかお救いを!」

「大司教様、そのお力で悪魔を振り払って下さい!」

 ガーランドは周囲から聞こえる声に全く耳を貸さず、脱兎の如く馬に跨った。そして躊躇うことなく信徒達を踏み越えて逃げようとしたその時、背後から気配……抜き身の刃の様な殺気。長髪を1つに結った長身の男が群衆の中から飛び出し、青い軌跡を描いて狙い澄ました一閃をガーランドの首筋に見舞った。

「もらったでござる! 高堂流『都牟狩閃』!!」

「ぐうっ!!」

 明確な殺意が込められた痛烈極まる斬撃を、ガーランドは馬を犠牲にしてやり過ごすも、衝撃は大きく地面に雪だらけになりながら転がり落ちていった。

「一軍の将が民を見捨てるとは関心せぬな。殿、斯くの通りにござる」

「ッ! この雑魚が!」

 目にも止まらぬ動きで追撃した亜門の体術に全身を組み伏せられ、苦悶の表情を浮かべたガーランド。彼は地面をのたうち回り何とか逃れようとしたが、完全に関節を極められ身動き1つ取れなかった。彼の視界の端では、藤兵衛の合図に合わせてシャーロットが術式を形作る姿が見えた。

(助けは来ない。カミラは完全に嵌められた。このままでは逃げることもできん。シャーロットの術に屈服されるのみだ。『降魔』を行えば蹴散らすのは容易い。だがゴミどもの前で闇力は使えん。ならば……)

 彼は瞬時に闇力を集中させ、『水鏡』の術を解いた。と同時に仕掛けられた『首輪』を通じ、狼狽える広間の信徒達全てに、落ち着いた声で告げた。

「お聞きなさい。敬虔な信徒達よ。目の前にいるのは賊。アガナ神教の敵である闇の魔女一味です。力を合わせて大司教を救いなさい。アガナの名において信徒達に命じます。命を懸けて戦いなさい!」

 まるで神託のように降りてきた声に、信徒達は驚きふためいて互いに顔を見合わせた。彼らはきょろきょろと辺りを見渡し、混乱の中で必死に状況を把握すると、賊に組み伏せられるガーランド目掛けて一斉に突撃した。彼らの怒声は狂気を孕み、極限まで高まった怒号と殺気は闇のうねりへと変わっていった。

「大司教様を放せ! この汚らわしき魔物め!」

「そうだそうだ! 俺達を、アガナ神教をなめるな!」

「魔女など死すべしだ! 闇など光の前では敵ではない!」

「いけません! このままでは……キャアア!!」

「おい魔女! しっかりするでござる……ぬうっ!!」

「くれぐれも手を出すでないぞ! 儂を信じて……グェポ!!」

 敵対する集団を薙ぎ倒し、一目散にシャーロットたちに押し寄せる信徒。詰め掛けられた勢いで術を中断するシャーロット、ガーランドから引き離される亜門、もみくちゃにされ押さえつけられる藤兵衛。彼は僧衣の汚れを手で払いながら、地べたに這う彼らに対して口角を釣り上げてせせら笑った。

「形成逆転だな。金蛇屋藤兵衛。お前を見習って他人の力を借りたよ。地を舐める気分はどうだ?」

「ま、参りました! 儂の命だけはお助け下され! 同じ信徒ではないですか、のう皆様方?」

「その手には乗らん。貴様の言うことは全て聞かん。このまま全員拿捕する。シャーロット。下手なことをしたら“全て”をこの場で潰すぞ」

 冷徹極まり無い表情のまま告げるガーランド。シャーロットと亜門が失意で目を伏せる中、只一人藤兵衛は動じない。この男はどんな時も動じない。

「そうか。ならば仕方ないの。これだけはやりたくなかったのじゃが。貴様の為にもの。……おい! 出てくるがよい!」

 藤兵衛の低いダミ声は、大通りの正門前にまで届いていた。遥か後方から、護衛に囲まれた1人の人物が歩いて来るのが見えた。姿形は確認出来ないが、貴人の装束を纏った男であるようだった。そして、少しずつその姿が明らかになるにつれ、ガーランドの顔が恐怖と焦燥で引き攣っていった。

「き……貴様! 何故だ? どうして貴様がここにいる?!」

「ホッホッホ。無礼であろう、“現”大司教様。膝を付いて出迎えよ。仮にも“前”大司教様のお目見えであるぞ」

 藤兵衛の指し示した先からは、でっぷりと太った白髪の老人がゆっくりと歩み寄って来た。質素な白装束を纏った彼は穏やかな笑みを携えながら、広場にいる人々に静かに手を振った。すると彼の顔に見覚えがある多くの信徒達が、想定外の事態にどよめきの声を上げた。

「え?! だ、大司教様だ! フレドリック様だ!」

「まさか!? フレドリック様は1年前に病死されたはずだ! そんなことがあるわけがない!」

「で、でも間違いなくあの御顔、優しげな表情、間違いなく大司教様だ。信じられん! これも奴らの魔術か!?」

 フレドリックはゆっくりと祝福の姿勢を取り、藤兵衛に一礼してからガーランドの方を向いた。にこにこと微笑みを絶やさぬその顔の中で、細い目の奥だけは一切笑っていなかった。ガーランドは努めて感情を抑えながらも、強く強く血が出る程に拳を握り締めていた。


 物語は数時間前に遡る。集会日午前。グラジール地下水路、レジスタンス秘密基地。

 幾人かの血気盛んな男達が、わいわいと藤兵衛たちと話し込んでいた。中でもリーダーらしき僧兵は、腕組みをして真剣に段取りを確認していた。

「成る程。間違いなさそうですな。たしかに『首輪』は機能してない。今の私たちの声は、ガーランドに届いていない可能性が極めて高そうです」

「儂を信じよ。奴は儂に、正確に言えば儂に仕込んだ『首輪』にのみ集中しておる。少なくとも今日の集会が終わるまでは手出しされん。この耳で聞いた故、間違いないわ」

 藤兵衛は深く大きく頷き、悠然とキセルに火を付けた。そんな彼を見たリーダーは驚いたように、何処か呆れたように首を振って苦笑した。

「しかしまさか『水鏡』を逆手に取るとは。無敵かと思ってたあの術にこんな躱し手があるなんてね。あなた様はこの短期間でどこまで……」

「ホッホッホ。世に謳われる“無敵”など概ね幻想じゃて。必ず隙は存在するし、無ければ隙が出来るまで揺さぶればよい。人はの、己の想定通りに進まねば進まぬほど、いざ嵌った際には盲になるものじゃて。にしても……中々に良き芝居であったじゃろう、亜門や?」

 藤兵衛は邪悪に口角を上げながら、傍に侍る亜門の肩を強く叩いた。彼は快活に笑いながら、実に嬉しそうに返した。

「はっはっは。己もびっくり致しました。まさか喧嘩に紛れて『首輪』を転移するとは。殿の発想もさることながら、レイ殿の演技も見事でござった。真相を知っている己でも思わず息を呑む程でありましたぞ」

「虫はああ見えて意外と演技派なのじゃて。ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ! しかし今も奴めが馬小屋で糞に塗れておると思うと笑いが止まらんわい。同じ糞尿に等しき存在故、お似合いにも程があろうて」

「そ、そんなことになっているのでござるか!? そういう事でしたら己が引き受けたものを……」

「痴れ者が! お主の馬鹿正直な演技では5秒で台無しじゃわ! お主にはしかと役割がある故、そちらで期待に応えるようにの」

「は! 殿のご期待に添えるよう、この亜門全力で魂を振り絞りますぞ!」

「あ、藤さあん! 若い姿もステキね。ところでこの凛々しい方はどなた?」

 バニー姿の極めて高い露出を誇る女性が、甘ったるい声で藤兵衛の肩にもたれかかりながら、亜門に蕩けるような眼差しを送った。即座に赤を通り越してどす黒く染まる彼の顔を見て、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

「あら、もしかして免疫ないのかしら? ふふ、可愛いわあ」

「そ、そ、そ、そんな訳がなかろう! 誇り高き侍を揶揄うとは言語道断にござる! それより……な、な、な、何だその格好は! 女子たるもの節度と恥じらいを忘れずにだな……!!!!!」

 遮るように頬に唇を当てられ、みるみる意識が遠ざかる亜門。藤兵衛は楽しそうにキセルをふかしながら、彼から引き離すように彼女を抱き寄せた。

「ホッホッホ。その辺に致せ。この男は武一本で生きてきた者故な、斯様な事は儂が請け負おうぞ」

「やあだ、藤さんったら。部下思いなところもステキ!」

 その時、藤兵衛はまだ気付いていなかった。背後から猛烈な殺意が彼に降り注がれていることに。昏倒する亜門が気付いた時には、既に時は遅しであった。鬼神の表情をしたシャーロットによる、天地焦がす術式の嵐が今まさに藤兵衛を飲み込まんとしていたのだ……。

 数分後。全身黒焦げになりながら、平伏しきりの藤兵衛の姿があった。その隣には未だ怒り冷めやらぬシャーロットと、巻き添いになってぴくりとも動かぬ亜門。そしてそれを穏やかに見守る、高貴な僧衣を纏った老人の姿があった。

「……じゃからな、シャルや。何度も申すがこれは全くの誤解なのじゃ。情報収集の為に止むを得ずじゃな……」

「もうその話は結構です。間も無く訪れる事案に目を向けましょう。ですが……私は今日という日を未来永劫決して忘れることはありませんので」

「ほほほ。愉快なお話ですなあ。この私めも混ぜて頂けませんか?」

 老人は贅肉で膨れ上がった顔から穏やかな笑みを絶やすことなく、彼らの間にどかりと座り込んだ。藤兵衛は心底不快そうにふんと鼻を鳴らすと、銃を構えて老人の眉間に向けた。

「大丈夫か、シャル? 妙な真似はされんかったか? この男は油断ならぬ狸ぞ」

「何を仰いますか。私めの様なか弱き仔羊を捕まえておいて。アガナ様は仰いましたぞ。『弱き者に慈悲を与える心こそが真の宝である』と。貴方にはもう少し人生経験が必要なようですな」

「よく言うわ。貴様のような屑が、“元”とはいえ大司教を名乗るとはの。もし一芥でも疑念あらば、儂が即座に撃ち抜いてくれようぞ……フレドリック!」

 剣呑な気配が急速に場に漂う中、シャーロットは美しく微笑んで、そっと彼の銃に手を当てた。

「私のことを心配してくれたのですね、藤兵衛。……嬉しいです。過去に貴方と何があったかは存じませんが、フレドリック様はとても暖かい御方です。何も心配要りません」

 その言葉を聞いて一層の芝居じみた笑みを貼り付け、フレドリックは目の奥で藤兵衛を突き刺すように見つめていた。藤兵衛は大きく聞こえるように舌打ちをすると、銃を懐に仕舞って忌々しそうにキセルに火を付けた。

「ふん。取り敢えず停戦じゃ、フレドリック。じゃが儂は謀れんぞ。此度の騒乱は全て貴様に起因すると儂は見ておる。相違ないな?」

 敵意を隠しもせず剥き出しにして藤兵衛は言った。周囲が僅かにどよめいたが、フレドリックは大きく手を突き出して、穏やかな口調の中に意識的に緊張を込めた。

「そう言われても仕方ありませんね。アガナ神教が東大陸で暴走したのは、あくまで結果的とは言え、私めの研究によるものですから」

「調べはついておる。アガナの教えを破り闇に手を染め、破門された後もここ東大陸で禁忌の研究を繰り返し、暴走の末にガーランドに取って代わられた張本人との。よくもあのフリーダめを敵に回し、今も平気で生きておるわい」

「幸いなことに私には、アレを黙らせる“特効薬”の持ち合わせがありましてね。表立って私めを誅する事は不可能なのですよ。まあ幾度となく暗殺されかけましたがね」

「じゃろうな。奴は生半可ではない。儂も大いに苦労させられたわ。で、そろそろ本題じゃ。貴様の知り得る情報、全て儂らに吐けい。何がどうなって今の状況に至ったのじゃ?」

 呆れたような藤兵衛の口調とは対照的に、フレドリックはその目の奥の闇を深く暗くさせ、ぞっとするほどの狂気の笑みを顔いっぱいに浮かべた。

「私めの研究は生命科学です。人の力で人を産み出すこと、無から有を作り出すこと、それこそが至高の命題でした。その為に『賢者の石』を使い、闇力を使い、この世ならざる者を使役してきました。それは認めます。ただ、これはアガナ神教の教義の根幹に関わる部分なのです。もちろん公には出来ませんが、教皇猊下の絶対的な指針の元、私めは身を粉にして働いただけなのですよ。ちとやり過ぎた感は否めませんがね」

「はいそうですかと涙を流すほど、儂はお人好しではないわ。事の善悪など儂にはどうでもよい。繰り返すが、貴様の持つ情報を全て話せい」

「ええ、勿論です。これは取り引きですからね。シャーロット様を研究させて頂いた恩は忘れませんよ。実はガーランドと私は……」


 時は戻り、現在。

 大広間でフレドリックと対峙するガーランドは、眉をヒクつかせながら話を切り出した。

「お元気そうで何よりです。“元”大司教様」

「久しいですねガーランド。私めから力尽くで奪った大司教の椅子、その座り心地はどうですか?」

 ざわ、と混乱の色を見せる広場。ギリとほぞを噛んだガーランドは、何とかその場を収めんと努めて冷静に告げた。

「誤解を招く言い方ですな。研究と称しアガナの教えに反する背信者を排除しただけのこと。何ら後ろ暗いところはありません」

「それこそ都合のよい言い方ですねえ。卑劣にも私めの寝込みを襲い、人々に嘘を吐き続けていた身で。この1年間、お前に付けられた傷が痛んで痛んで、まともに眠れない日々が続いていましたよ」

「水掛論ですね。意味がない。この騒動の首謀者はあなたですね。一体何がお望みですか?」

「なに、目的はお前と一緒ですよ。返して欲しい物があるだけです。この国を、愛する信徒たちを、アガナの名の下にお返しなさい」

「断ります。貴方には本国へ戻って頂くとしましょう。誰かお連れしろ」

「そんな言い方をしていいのですか? 仮にもお前の“父”に向かって……!!!」

 言い終わる前に、フレドリックの心臓は貫かれていた。ガーランドの右手から爛れた塊が突き出し、喰らい付くように彼に襲いかかったのだった。完全に即死したかに見えたが、彼は呻き声を上げてのたうちまわるだけだった。

「なるほど。これでも死なぬか。道理であの時も死なななかった訳だ。伊達に『賢者の石』の“元”所有者ではないな」

 突然訪れた惨劇に、悲鳴を上げる群衆。混乱の色を深める広間。藤兵衛たちを取り囲んでいた信徒も、恐れ慄き蜘蛛の子を散らすように四散していった。そんな彼らをちらりと興味なさそうに一瞥すると、ガーランドは静かに、吐き捨てるように藤兵衛に告げた。

「万策尽きた。貴様に関わったのが私の運の尽きだった。もう大司教もアガナも関係ない。お前の力を果てさせ『賢者の石』を奪うとしよう」

「何度も言うが、儂にとってタダより嫌いなものはなくてのう。この東大陸は儂の支配地ぞ。そこを切り取らんとする貴様には、多大なる利子を支払って貰わねばなるまいて」

「ハハハ! 話す迄もなかったか。俺が愚かだった。ならば……戦うのみだ! 集まれ、闇の顎よ!」

 ガーランドを中心にして、強力な闇力が集まっていった。信徒達から、住民から、レジスタンスから、人種や性別を超えてあらゆるグラジールの人々に植え付けられた『首輪』が解かれ、彼の体躯に集まっていった。膨大な闇力が渦となり虚空のの中に吸い込まれていき、ガーランドもその中に姿を消した。

 消え失せた彼に一瞬拍子抜けしながらも、藤兵衛は確信する。必ずすぐにまた現れると。周囲に留まる絶望的な闇力がそれを物語っていた。同じ様に気付き術を構えるシャーロットに、呼吸を整えながら刀を構える亜門。だがそんな2人を制したのは金蛇屋藤兵衛だった。

「お主らは先に行けい、シャルに亜門よ。ここは儂が引き受けたわ」

「どういうことですか? あれは只の人間ではありません。恐らくは高位の『降魔』を身に宿した眷属です。貴方を疑ってはおりませんが、1人で太刀打ち出来る相手では……」

 その時、藤兵衛はぐいとシャーロットを力一杯抱き締めた。驚きのあまり口を開け放心し、すぐに彼女は惚けきったたようにだらんと力を抜いた。彼は皮肉に口角を曲げて、彼女の小さな顎を軽く掴んだ。

「よいかシャルや。彼奴だけは儂が倒さねばならん。奴には儂に支払わねばならん物が残っているのじゃ。お主にはやるべきことがあるのじゃろう? 万が一儂が奴にやられたら……その時は頼むわい」

「……ええ、分かりました。私は貴方を信じます、藤兵衛。貴方ほどの男が負ける訳がありません。そうでしょう? 負けた時のことを述べるなど貴方らしくありませんよ」

「グワッハッハッハ! 流石は儂の“師匠”よ。無論じゃて。大船に乗ってつもりでおるがよい」

 2人は抱き合ったまま目を合わせて微笑んだ。亜門はやや顔を赤黒く染めながらも、こほんと小さく控え目に咳払いをした。

「と、殿。今は戦いに集中された方がよろしいかと。己も殿の援護を致しまするゆえ」

「お主はシャルの援護を頼むぞ、亜門。情報によれば『楔』には、詳細不詳の怪異が潜んでおる模様じゃ。シャルに何かあれば儂らは共倒れじゃぞ。虫が不在の今、頼れるのは貴様しか居らぬ」

「……御意。甚だ不本意ではありますが、そんな予感もあり申した。御命令とあらば謹んでお受け致しまする。おい、魔女。すぐに行くぞ。いつまでも殿にベタベタするでない!」

「ふふ。ありがとう、亜門。ではまた会いましょう、藤兵衛。私も必ず成し遂げてみせます」

 藤兵衛が軽く手を振る中、亜門はシャーロットの手を引いて走り出した。彼はのんびりとキセルに火を付け悠然と煙を吐き出すと、背後の虚空に向かって一声大きく叫んだ。

「……待たせたのう、ガーランドよ」

 その声を合図にしたかのように、空間が闇の波動によってこじ開けられた。そこから這い出して来たのは、彼が今まで見てきた異形の中でも一際異彩を放つ、とても人とは呼べぬ姿と化した宿敵の姿だった。彼は全身から腐臭を漂わせ、巨大な4枚の羽を轟音を立てて羽ばたかせる、瞳のない複眼で虚空を見つめる巨大な蟲のような存在と化していた。

「おお、臭い臭い。まるで糞蝿じゃな。随分と男振りが上がったではないか」

「何とでも言え。この姿を見せた以上俺に敗北はない。覚悟しろ。貴様を闇に帰してくれる!」

「そんな剣呑な話は止めにせい。……のう、1つ話があるのじゃが」

「貴様の話は聞かん。全ては虚構だ」

「そう言うでない。話くらい聞かぬか。ガーランドよ……全て忘れて儂と組まぬか?」

 すぐには言葉の意味を理解出来ずに、空中でぴたりと静止するガーランド。しかし藤兵衛は大真面目に、眼差しを真っ直ぐに彼へと向けた。

「……理解できんな。今更どうした? 自分が何を言っているか分かっているのか?」

「勿論じゃて。考えてもみよ。貴様のその能力さえあれば、世界の商売ががらりと変わるわい。伝達や連絡に時間が要らぬ故、何処よりも早くあらゆる物事に対応出来よう。しかも儂の術と組み合わせれば更に効果は大じゃ。客の欲しいものを、欲しいと思った時に、欲しいだけ届けることができる。こんな事は1000年経っても有り得ぬわ。正に夢のような話じゃて。そうは思わぬか?」

「貴様……まさかそれを言うために? シャーロットを行かせて1人ここに残ったのか? そもそも俺は貴様の敵だぞ。何を今更……」

「敵など味方などは、乱雑かつ稚拙な分類に過ぎぬ。この世にそんな区分は存在せん。利ある時は味方になり、損が生じれば敵になる。全てはそれだけの話よ。全ての手配は済んでおる。大陸一の名医もここに駆けつけておるわ。何も心配することはない。儂と一緒に富と栄華を極めようではないか、ガーランドよ。全てはこの金蛇屋藤兵衛に任せい! グワーッハッハッハ!」

 狂ったように高笑いをする藤兵衛を見て、ガーランドは異形の顔を僅かに歪ませた。彼は感じ取っていた。目の前の男は本気でそう話していると。完全に、間違いなく、自分の力を欲していると。しかも奪うでもなく、殺すでもなく、味方に引き入れる事で達成しようとしていると。

 その時彼は、自分の中で何かが動くのを感じた。かつて、子供の頃に感じた、不安定かつ中心に聳える思い。あの時の……そう、全てが終わる前の……。

「下らんな!」

 突如として藤兵衛の足元に、闇の爆風が幾重にも生じた。からくもそれを回避した彼は悲しそうにキセルを仕舞うと、代わりに懐から銃を取り出してガーランドに照準を合わせた。

「仕方ないのう。生意気な“社員”を教育するも主の務め。ちと教え込んでやるわい。世界の富を喰らい尽くす者は只一人、この金蛇屋藤兵衛であるとの!」

「……狂人め。俺と貴様は違う。排除する。必ず。……『降魔・ベルゼビュート』発動。世の不遜の全てを正せ!」

 空中で激しくぶつかり合う闇と闇。不可思議な石が齎した運命は、今ここに終焉を迎えようとしていた。人も眷属すらも眼を見張る、超常の戦いが幕を開けた。


 一方、大聖堂地下。

 藤兵衛の情報を元に、ひたすらに地下へと駆け下りるシャーロットと亜門。混乱の最中とは言え、施設を守る衛兵はどういう理由か存在しなかった。

「なんという幸運でしょう! 私たちはついていますよ、亜門」

 振り返り嬉しそうに話すシャーロットに、亜門は顎をさすりながら呆れた表情で返した。

「何とも呑気なものよ。恐らくは罠でござろう。くれぐれも気を引きしめ……お、おい! 勝手に進むな! 単独行動はいかんでござる!」

 いつの間にか勝手に何処かへ走り去るシャーロットを、亜門は必死で追いかけた。やがて地下に進む階段、そこに彼女たちは立ち止まった。シャーロットは覚悟を決めたようにゆっくりと一歩踏み出し、亜門も少し遅れてそれに続いた。

 階段は長く暗かったが、シャーロットの炎の術により2人は難なく最下層へと到達しようとしていた。亜門は余りも順調過ぎる道程に不安を覚えながらも、灯り越しにちらりと彼女の方を眺めた。

「……」

 シャーロットの表情には微かな憂いが浮かんでいた。考え込むような、何か思いつめたような、そんな。亜門はこほんと小さく咳払いをすると、彼女と目を合わせぬまま、自身に言い聞かせるように言った。

「……おい魔女よ。殿は己らの為に犠牲になろうというお考えだ。あの殿が私利私欲を捨て、其方の目的の為にな。こんな魔女のどこに命を賭ける価値があるかは知らんが、家臣として殿のお気持ちは汲まねばならん。今日に限っては己が必ず貴様を守る。だから安心して事にあたれ。いいな」

「……ええ。分かっております。ただ……どうしても私は心配なのです」

「そんな顔は止めろ! 殿が負ける筈がない! 己が主と認めた男は、真まで染まった化け物になど決して敗れぬ! 其方も顔を上げて、自分にしか出来ぬことをしろ! 不快ながら其方は己らの将。『臨戦の将陰ずれば刃もまた曇る』。秋津の格言にござる。無理な状況の時こそ顔を上げて笑うのだ!」

「ふふ。そうですね。……私が間違っておりました。ありがとう、亜門。貴方は口では色々言いながらも、いつも私を元気付けてくれますね。心から感謝していますよ」

 シャーロットは太陽のように明るく、そして一際美しく微笑んだ。無理をして強く振舞っているのは彼でも容易に分かったが、その暖かい笑顔に彼の頬の温度は急上昇した。

「ふ、ふん! 礼を言われる筋合いなどない。無駄口を話す暇があったら足を動かすことだな」

「ふふ。わかりました、師匠。私は頑張ります!」

 そこから2人は口を閉じて、ただひたすらに歩き続けた。セイリュウ国の『楔』の時とは違い、一本道の長い長い階段だった。亜門は闇雲に歩いているように見えても、実際は壁や地面をつぶさに観察していた。

(紛れも無く人の通った跡にござるな。数からして複数人で、頻度も高いと。松明の煤の具合から鑑みるに、今日も何者かがここを通っているでござる。『楔』とやらは無い筈であろうに、その行動に如何なる道理が?)

「……気配がします」

 階段の先、奈落を思わせる地の底には、簡素な木の扉が岩壁に括り付けられていた。鍵がかかっている先に悍ましい気配を感じ、亜門は刀を構えてシャーロットの前へ歩み出ると、呼吸を整えて刃を抜いた。

「ここは己に任せよ。……疾ッ!!」

 亜門の居合の一撃で、扉はバターのように容易に切断された。呼吸を整える彼のすぐ後ろには、来るべき時に備え神経を集中させるシャーロット。そこに、闇の中から轟く声。

「おおい。誰かおんのかねえ? おいらメシはさっき食ったよお」

 間の抜けた声。反射的に刀を構える亜門だったが、シャーロットはぱっと明るい顔になって一気に緊張を解き、嬉しそうに駆け出した。亜門は戸惑いながらもその後を急ぎ追った。

「ま、待つでござる! 迂闊に近づいてはならぬ! おい!」

「心配要りません。この声は……間違いありません!」

 闇の中にいたのは、でっぷりと肥えた大男だった。ぐしゃぐしゃに髪を伸ばし、ぼんやりとした瞳で宙を眺めている、いかにも鈍そうな男。彼は2人の姿を見ても暫くは反応せずに呆けていたが、やがて思い出したように奇声を上げてその場で飛び跳ねた。

「お、お、お、お嬢様でねか! やっと来てくれたんだな!」

「久しぶりですね、ドニ。貴方はここで何をしているのですか?」

 シャーロットが優しく微笑みかけると、ドニと呼ばれた肥満体の男は彼女の手を握って振り切れんばかりに上下させた。

「本当にお嬢様だ! 嬉しいなあ! ほら、なんもないところだけど座ってゆっくりしておくれ」

 ドニは心底嬉しそうに、にこにこと小汚い地面を指差した。だが微笑んで座ろうとしたシャーロットを、亜門が刀を構えて押し留めた。

「待つでござる! こいつは貴様の知り合いか? 見たところ怪しい事この上ないが……」

「なんだ、おめえもお嬢様の友達か?」

「友達ではござらぬ! 己は高堂亜門。この魔女は単なる旅の連れに過ぎぬゆえ……」

「そっか! お嬢様の友達なら、おいらの友達でもあるな。おいらはドニ。ハイドウォーク家の小間使いだ。よろしくな亜門!」

 あっさりと話を流され頭を抱える亜門、楽しそうにその場で小躍りするドニ、くすくすと微笑むシャーロット。

「何も問題ありませんよ、亜門。ドニは私の初めての友達なのです。幼い頃から私は一人ぼっちだったのですが、御祖父様とドニだけが遊んでくれたのです。本当に嬉しくて楽しかったのですよ」

「へへ。おいらも楽しかったよ。おいらのことをさ、物じゃなく扱ってくれたの、後にも先にもお嬢様だけだったからな。ほれ、いつものやつ作ったから持ってきなよ」

 ガサゴソと胸元から大量の何かを取り出したドニ。2人が覗き込むと、それは綺麗な石の装飾品の数々だった。様々な動物を形どり、まるで生きているような精彩を放つ、芸術品と呼び得る逸品だった。

「これは……実に美事な。今にも動き出しそうでござる。ドニ殿、そなたが作ったのでござるか?」

「そうだよ。あまりにもヒマだったんで、ここの地下にある『精霊銀』を削って作ったんだ。おいらは手先だけしか能がなくてさ。亜門も気に入ってくれたなら持っていきなよ。お嬢様の友達なら遠慮なんていらないからさ」

「し、しかし見たところ貴重な物ではありませぬか? さすがに無料で頂くわけには……」

「ふふ。私はドニのアクセサリーが大好きなのです。いつもありがとう、ドニ」

 優しく微笑みながら、精巧な蝶が掲げられた髪留めを髪に付けるシャーロット。それを見て嬉しそうに鼻の下を擦るドニ。

「相変わらずお嬢様は蝶が好きだなあ。作ったかいがあったよ。で、亜門はどうすんだ?」

「で、では己はこの龍の描かれた腕輪を頂くでござる。誠にかたじけない」

「いいよいいよ。おいら本当に暇だったんだ。3年もこんな何もないところにいたからさ」

「……お待ちなさい、ドニ。そもそもなぜ貴方はここにいるのですか?」

 シャーロットは不意に真顔になって彼に問い掛けた。だが彼はぼけっとした顔のまま、極めて当然のように答えた。

「え? ミカエル様に言われたんだよ。ここでお嬢様を待てって」

「はて、ミカエル? 一体何者でござるか?」

「……」

 亜門が不思議そうに首を傾げた一方で、シャーロットは何も言わず表情に影を落とした。ドニはぼんやりとした表情で、2人の様子を交互に眺めていた。

「亜門は知らないのかい? ミカエル様はお嬢様の兄ちゃんだよ。んでもって、おいらのご主人様だ」

「ほう、貴様に兄が居たのでござるか。話し振りからして天涯孤独と思っていたが」

「お兄様は……他に何か言っておられましたか?」

「うーん。実はさ……なにか言ってたような気はすんだけど、昔のこと過ぎて……ごめん! おいらすっかり忘れちまったよ!」

 ドニは巨体を折り畳んで、心底すまなそうに頭を下げた。亜門がため息をついて苦笑する中、シャーロットは微笑みの中に真剣な色を潜ませて、覚悟を決めたようにふっと上を向いた。

「わかりました、ドニ。私たちはこの奥に用があるのです。通してくれますか?」

「うん。もちろんだよ。好きにしてくれ。おいらごろごろしてっからさ」

「まずは『楔』とやらの確認だ。油を売らずにさっさと行くでござる」

「ええ、そうしましょう。後でゆっくりお話をしましょう、ドニ。終わったら私の手料理を振舞ってあげますからね」

「……え? あ、ああ。 そ、それは別の機会に……お、おいらお腹がいっぱいだからさ」

 今までの態度が嘘のように脂汗を流して怯えるドニ。再びため息をついた亜門。心から嬉しそうに美しく微笑むシャーロット。こうして2人は、部屋の奥から伸びる細い道を進もうと再び歩き出した。指を咥えて彼らの後姿を眺めるドニは、両手で頭を叩きながら、脳の奥に仕舞い込んだものを必死で引っ張り出そうとしていた。

「(なんか忘れてるんだよなあ。確かにミカエル様に言われてたんだけど。また怒られるのは嫌だあ。……そうだ、おいらの服! たしか首のところに……あった! ええと……『シャーロットを見かけたら、次の言葉を小声で唱えろ。我が妹の真の幸福のために、ゆめゆめ忘れるな』。こ、こりゃ大変だ! すぐにやらなきゃ!)……『リベラール・デッド』!!」

 次の瞬間、ドニの体内から闇力の奔流が迸った。彼の大きな腹が真一文字に裂け、血飛沫とともに体内から闇の眷属が現れた。全身青色の液体形の眷属 

は、背後から一気にシャーロットを包み込んだ。完全に無警戒で食らってしまった彼女は、何とか意識は保ってはいたが、すぐに闇力を封じられてしまった事実に気付いた。眷属の頭部らしき部分が彼女の肩の辺りで不気味に盛り上がり、慌てて刀を抜いた亜門に向けて言い放った。

「『降魔・ショゴス』自動発動、っと。兄ちゃん、そこまでだ。シャーロットは頂いたぜ。その刀で切ったところで死ぬのはこいつだけだ」

 眷属は青白く発光しながら、ニヤニヤと蔑んだ笑みを浮かべた。亜門は歯を食いしばりそれに耐え、キッと鋭い視線を向けた。

「おのれ! 何奴か!」

「ペイン! なぜ貴方が?」

「ヘッヘッヘ。こりゃ大金星だ。あのグズのお陰で、何なくシャーロットを捉えられたぜ。やっと俺もミカエル様に認められる時が来たな」

 ペインと呼ばれた眷属は、ドロドロの体を小刻みに蠢かせ、歓喜で声を震わせた。

「貴様……ドニ殿を利用したでござるか! まさかその為にだけに彼を……」

「は? ったりめえだろ? あんなグズ生きてても仕方ねえからな。俺達が有効利用してやってんだ。感謝して欲しいくらいだぜ。ケッヘッヘ!」

 飛沫を飛ばしながら醜く笑うペイン。怒りに震える亜門の背後から、ドニは血塗れになりながらも震える声を出した、

「お、お嬢様。お……いらのせいで……本当にごめん……」

「ドニ! とにかくお静かに! 今手当てをしてあげますから!」

 ペインの体内で必死にもがくシャーロット。しかし流体が肌にピタリと密着し何も出来ない。悔恨の表情を顔中に浮かべる彼女に、ペインは心底嬉しそうに嘲笑った。

「むーだむだむだ。一旦こうなったら負けよ。俺の能力知ってんだろ? ほれ!」

 ペインがふっと力を込めると、シャーロットの腕が自分の意思に反して操り人形のように不恰好に釣り上げられ、そのまま勢いを付けて自分の腹部目掛けて振り下ろされた。

「あッ! ……くッ!」

 痛烈に腹を打ち、膝から崩れ落ちたシャーロット。慌てて駆け寄る亜門に向けて、今度は左手の一撃。何とか寸前で受け止めた亜門に、ペインは心から可笑そうに嘲笑した。

「お、よく出来ました侍くん。お前さんに余計な真似をされちゃたまらん。じゃドニくん、死ぬ前にもうちょい頑張ってみますか……『強制降魔・ダゴン』!!」

「や、やめてくれ! おいらそんなことしたく……ぐあああああ!!」

 ペインがへらへらと術式を発動すると、同時にドニの心臓からを闇力が溢れ出た。膨大な力の発動により大地は振動し、地下全体に無数のヒビが入った。そこに現れたのは巨大な触手に覆われた、軟体生物の如き怪物であった。かつてドニであったそれは、ぬるりと粘液を放ちながら、四方八方に触手を振り回した。

「ッ! ドニ殿! どうなされた? 目を覚まして下され!」

「いけません、亜門! 今のドニは……」

 即座に標的を亜門に定める怪物。強力な触手が襲い掛かるが、亜門はすんでのところで回避し刀を構えた。

「いけません、亜門! ドニを傷つけてはなりません!」

「分かっている! だが……一体どうすればよいのだ?!」

「ゲッハッハッハッハ! こいつは傑作だ。自分を殺そうとするバケモンに『傷つけるな』だとよ! これだから誰1人テメエに付いてかねえんだ。さて、俺も巻き添え食らっちゃたまらん。一緒に夜旅と行きますか、シャーロットお嬢様。じゃあな、侍くん。言われた通り傷付けないよう頑張りなよ」

 軽やかに地上に走り去るシャーロット、いやペイン。亜門は慌てて追いかけようとするも、ドニの触手に阻まれ動きを封じられた。

(外道め! 決して許さぬ! だが今は目下の敵を……ドニ殿をなんとかせねば!)

 亜門は静かに刀を構えて化物に向き合った。彼は狂ったように咆哮を上げ、本能と衝動のままに触手を振り回した。


 神代歴1278年12月末日。

 この日、シャーロットと亜門の運命を分かつ戦いが始まろうとしていた。

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