第18話「分岐」②

 夜の旅は危険が多い。危険な動物や、地形、そして藤兵衛一行にとって一番危険なのは、彼らに牙を剥く闇の眷属の存在だった。藤兵衛と亜門は、その危険な旅を必死の形相で乗り越えていった。

「殿! 前方から飛来する敵にござる! 一旦停止して迎撃願えませぬか?」

「無論じゃ! 即座に向かうわい!」

 彼らの目の前には、鳥のような羽を纏った姿の巨大な闇の生物が、10匹程の群れで押し寄せてきた。藤兵衛は急ぎ力車の引き手から屋根に飛び上がると、飛び交う敵に一撃ずつ狙いを定めた。

「ふん。鳴りを潜めておったと思えば、とんだ茶番じゃのう。今の儂の前に誰も立つでない! 『ノヅチ』!!」

 唸りを上げて放出される螺旋に、数体の眷属が纏めて地に落ちた。だが敵の数は想像以上に多く、次から次へと押し寄せる敵に押し込まれ、撃ち漏らした1体が藤兵衛に狙いを定め凶悪な鉤爪を振りかざした。だが即座に横から煌めく刃が降り注ぎ、一瞬で敵の頭部から心臓にかけてを両断した。

「高堂流『地擦り燕』!! 殿、御無事にござるか? いささか敵が多過ぎますな」

「ふう、助かったわい。確かに数が多すぎるの。……ええい、こんな時に虫はまだ起きぬのか!」

「残念ながら。全く起きる気配すらありませぬ」

「げに使えぬ虫じゃ! こうなれば仕方あるまい。全て儂らで……グォッ!!」

 死角から鳥妖の突撃をくらい、肩を抉られ屋根から転がり落ちた藤兵衛。だが彼は雪道を転がりながらも視界の奥で敵を捉え、確かな一撃を食らわせた。絶叫とともに消滅する鳥妖を見ながら、藤兵衛は必死に思考を働かせ続けていた。

(帳尻が合わぬ。確かに気配は無かった筈じゃ。虫もそう言いおったからの。それをいきなり……しかもこの数は異常過ぎるわ!)

 藤兵衛が考える間にも、亜門は凶刃を存分に振るい、最後の鳥妖を真っ二つに切り裂いた。疲労で肩で息をする2人だったが、一呼吸置こうとする彼らの背後から微かな音が響いてきた。

「……聞こえたか、亜門よ?」

 藤兵衛が耳元で微かに呟くと、彼は静かに刀を鞘に収め、目を細めて後方を見やった。

「微かな殺気があり申す。かなりの使い手かと。新手と見て間違いないでござるな」

「お主も言うのなら間違いないの。僅かながら闇の気配もするわい。……要注意じゃな」

「恐らくは10名程度、足音からして人間かと。紛れも無く追っ手でありましょうな。……斬りますか?」

「前にも申したが、儂は人の命を奪うのは好かん。闇の気配こそあれ、無為に切り捨てるは却下じゃ。お主は隠れて様子を伺えい。儂が奴らと話をしようぞ。状況次第では自在に動けい」

「……御意」

 さっと手をかざして命を送ると、亜門はコクリと僅かに頷き、足音一つ立てずに雪山に入り気配を殺して闇の中に紛れた。藤兵衛は悠然と力車を引きながら、敢えて歩幅や速度を変えずに、少しずつ相手に間合いを詰めさせていった。

 やがて、力車との距離が20メートルを切ったその時、突如として敵の足が急速に早まった。一団は力車を追い抜かし、隙のない動きで藤兵衛達をぐるりと包囲した。人数は10名。全員、アガナ神教の女神印が刻まれた白い僧衣を身に付け、訓練された動きで彼を伺っていた。じりじりと睨み合いが続く中、藤兵衛はまるで動じることなくキセルを取り出して火を付けた。美味そうに悠然と煙を吐き出す彼を見て、指揮官らしき坊主頭の大男がのそりと彼らの方に一歩近付いてきた。

「貴殿が金蛇屋藤兵衛だな。こちらは新生アガナ公国、大司教近衛軍第3部隊長のザザである」

「ほう。儂を知っているとは中々に出来る男じゃの。褒めてつかわすぞ」

 なおも藤兵衛はキセルを吹かし、不動のまま言い放った。兵の間に微かな緊張が走る中、ザザは努めて平静を保とうとした。

「貴殿の噂は聞いている。金の力で自ら闇に身を染めた外道にして、アガナ神教の大敵であると。間違いないな?」

「ふん。果たして貴様にそんな事が言えるのかの? 同じ闇に身を浸す“同類”ではないか。貴様からは臭いが伝わってくるわい。『闇を払うアガナの光』とやらが聞いて呆れるのう」

「……問答する気はない。貴殿らの身柄を拘束する。大人しくして貰おうか」

「やはり狙いはシャルか。何を抜かすかと思えば、儂の所有物をタダで奪おうとは100年早いのう。欲しいなら釣り合うだけの対価を払えい。必要なのは新生アガナ公国とかいう、聞き慣れない国家の情報じゃ。シュライン王国の中枢にアガナ神教が入り込んでおるのは周知の事実じゃが、儂の及び知らぬ内に珍妙な国を作りおって。この東大陸において、儂の手の届かぬ物などあってはならぬ。行く行くはアガナ神教の狂人共も残らず金蛇屋の傘下に加えてやろうぞ! グワッハッハッハ!」

「なるほど、情報通りだ。ガーランド様が警戒する理由もよく分かった。ならば強制的に連行させてもらう。引っ立てろ!」

 怒気と苛立ち、そして内なる闇の力を剥き出しにしてザザは叫んだ。周囲の草木が彼の放つ威にあてられ、突風のように舞い上がった。しかし藤兵衛は動じない。この男は動じない。

「ふん。出来もせんことを語るでないわ。貴様如き木っ端軍人が触れられるほど、儂は甘うないぞ。ほれ、今にも背後から儂の私兵が貴様らを襲おうとしとるわい」

「ハッタリも程々にするのだな。もう1人男がいるのは把握している。アガナの秘儀を舐めるなよ。それにあの睡眠薬を飲んだならば、大抵のことでは朝までは起きん。観念することだな」

 その言葉に亜門は敏感に反応した。彼の元へと集いつつある刃の輝き。刺客は完全に彼を捉えていたのだった。焦りを感じ刀を握る手に汗をかきながら、亜門はギリと強く歯を噛み締めた。

「(……ッ!! 何という屈辱か! 己の未熟のせいで殿が危機に……かくなる上は刺し違えてでも道を切り開かん)」

「どうか……どうかお許し下され!」

 だが、次の瞬間に亜門が目にしたのは、額を大地に擦り付け、惨めに涙を流す藤兵衛の姿だった。ぽかんとあっけに取られる一堂、そして亜門。そんな彼らを置き去りにするように、彼は情け無い姿を晒し続けた。

「これは……出来心で御座いますじゃ! あの魔女めに唆されて、ついぞの助兵衛心でして。不老不死などという飴玉に唆されここまで来ましたが、アガナ神教を敵に回す気など毛頭ありはしませんですじゃ。金でも女でも何でもお渡しします故、どうかご自由になさって下され。ただ、どうかお慈悲を! この儂の命だけは助けて下され! お願いですじゃ!」

 一瞬の間を置いて、弾けるように笑うザザ達。あまりにもみじめで情けなく、みっともない負け犬の姿。涙と鼻水で顔中をくしゃくしゃにし、嗚咽を漏らしながら頭を擦り付ける藤兵衛の姿に、先ほどまでの威勢はまるで感じられなかった。

「なんだよこいつ。隊長、こんな奴のために俺たち派遣されたんですか?」

「なっさけねえなあ。そこらのガキでもこんな顔見せねえぜ」

「帝都一の商人が聞いて呆れるな。しょせんオウリュウ人なんてこんなもんだな」

「へい、へい。左様で御座います。儂は只の豚の如き汚らしき存在で御座います。ですので……どうか儂の命だけはお助けあれ! 残りの屑どもはお好きにしても構いませんので!」

 足を舐めんばかりに擦り寄る藤兵衛を忌々しそうに蹴り飛ばし、ザザと僧兵達は腹を抱えて笑った。亜門は屈辱と絶望の中、怒りに震える手で刀を握り締めていた。

(な、なんと情けないお姿! こんな方のために己は……殿、見損なったでござる!!)

「寄るな。情け無さすぎて反吐が出そうだ。お前の様な下衆など捕らえても仕方ない。きっと情報の間違いだろう。さっさとどこへでも行くといい。“例の物”はシャーロットが保管している筈。ガーランド様もさぞお喜びになるだろう」

 ザザは靴先で思い切り藤兵衛を蹴り飛ばし、彼は悲鳴を上げて仰向けに倒れ込んだ。屈辱の笑い、血反吐と鼻水に塗れる藤兵衛。ああ、この男はこんな所で屈してしまうのか! 彼らの旅はここで終焉を迎えてしまうのか!

 蛙のように横たわり痙攣する藤兵衛に唾を吐きかけると、ザザは顎で力車を指し示した。すると僧兵達が3人、弛緩しきった様子で車内に乱雑に押し入った。闇の気配はない。赤子の手をひねるより楽な仕事だ。だが最初に入った兵士が目にしたのは……。

「ようこそゴミ野郎ども。まんまとあのクソに付き合ってくれたみてえだな」

 3人の僧兵がまるで紙切れのように千切れ飛び、それとほぼ同時に螺旋の波動が放たれ、亜門を取り囲む兵をまとめて吹き飛ばした。

「と、殿! やはり……殿は!!」

「ふん。お主が飛び出して来たら全て台無しじゃったわ。よくぞ耐えたの。褒めて遣わすぞ」

 急変した状況を察知し身構えるザザ部隊。しかしその時にはもう遅すぎた。風を纏い暴れまわるレイの体躯に加え、鋼鉄をも断ち切る亜門の一閃が彼らに降り注いだのだ。

「オラァ!!」

「疾ッ!!」

 彼ら極限の戦士2名に立ち向かう事は死を意味していた。レイの拳が先頭の兵達を一瞬で粉砕し、亜門の刀が残る敵陣を容易に切り裂いた。気付けば敵は既にザザ1人。10名の手練れの僧兵は、抵抗一つ出来ずに次々と地に伏せるのみだった。

「おい、殺すなと言ったじゃろうが! これだから野蛮人は嫌なのじゃ」

「うるせえ! たぶん死んじゃいねえよ。たぶんだけどな。それよりてめえ……寝てる俺に妙な“毒”を転移しやがったな! 呼吸が止まって死ぬかと思ったぜ! あとで覚えてやがれ!」

「(流石はシャルの手作りクッキー。よう効くわい)さて、ザザとやら。気分はどうじゃ? 勝ちを確信したところから一気に逆転される、実に貴重な経験じゃろう? 貴様には聞きたいことが山積みじゃ。洗いざらい吐けば許してやらんこともないぞ」

 状況は一変した。10対2が、1対3。どう考えてもザザに勝ち目はない。しかし彼は腕組みをして不敵に笑った。あまりにも余裕ぶった、内に邪悪のこもった笑みだった。

「なるほどなるほど。これが金蛇屋藤兵衛か。これがシャーロットの一味か。……笑わせてくれる。ガーランド様にしかと報告せねば。あのゴミどもは、小賢しさだけは一人前の雑魚でした、とな。さあ、テメエら起きろ! ……『降魔・イオマンテ』!!」

 ザザの心臓の奥深くから、鈍い赤に光る闇の渦が汲み上げられた。そう、これは紛れもなくレイの使う“降魔”の術であった。だが異形に変化していったのはザザだけではなく、彼の発する渦に触れた僧兵達は、見る見る異形の姿に変わっていった。それは藤兵衛たちにとっては実に見慣れた姿……道中で何度も遭遇した闇の眷属サスカッチへと!

「な、なんという悪夢でござるか!? まさか今迄の敵は……」

 闇の中心にいるザザの姿も、徐々に異形に染まっていった。只でさえ巨大な身体は膨れ上がる筋肉で何倍にもなり、内側からはち切れるように僧衣を吹き飛ばしていった。更に全身には漆黒の毛皮が纏わり付き、さながらヒグマの如き様相へと変わっていった。

「あ? こんなど田舎のハゲが『降魔』だと? ありえねえぜ!」

「ふん! 怖気付いたなら引っ込んでおれ。敵が闇であれ光であれ、儂らのやることは1つよ!」

「てめえ……おミソの分際でチョーシこいてんじゃねえぞ!」

「失礼をば。レイ殿、敵は己が斬りまする。ここはお任せあれ!」

 先ほどの失点を挽回すべく、亜門は勢いよく敵に飛びかかり、上段から一気に袈裟斬りにした。しかしザザなそれを避けようともせず、刃は鈍い音を立てて肩口に突き刺さり、皮が裂け血が迸った。しかし!

「……弱い。しょせんは人間だな。俺たちは神に選ばれた戦士、お前とは質が違う! 『金剛腕』!!」

 だが亜門の刃は途中で止まり、骨どころか肉もまともに断てず、筋肉の層に埋もれてしまった。ザザは無表情で刀を掴むと、身動き取れぬ彼の腹部に力任せの拳を突き立てた。暴威の拳はまるで豆腐を砕くが如く容易く潰さんとしたが、亜門は態勢を崩しながらも必死に体全体で受け流した。

「ぐ、ぐおおお!!」

 それでも衝撃を殺しきれず、呻き声を上げて吹き飛ぶ亜門の体。すんでのところでレイは彼を受け止めると、面倒臭そうに彼を力車内に押し込んだ。

「へっ。んな焦ってちゃヘチマも切れねえぜ。あんとき俺を貫いた感覚……もう一回しっかり思い出せや。貧弱野郎は下がってろ。ここは俺がやるぜ」

「誰が来ようと、何を考えようと、聖母アガナの前では全て平伏すのみ。そして偉大なる我が主ガーランド様の名の下に、邪魔な貴様らを消し去ってくれる! さあ動き出せ、信仰の礎となり散った偉大なる魂よ!」

 ザザの怒声を合図に、倒れた筈の僧兵達ものそりと立ち上がった。彼らは意思なき操り人形と化し、醜悪に牙を剥いてレイと藤兵衛に歩み寄っていった。

「おい、虫。ちと……厄介じゃの」

 ちらりと目を合わせる藤兵衛、微かに頷くレイ。

「んだな。……参ったぜ」

 そして一斉に襲いかかるサスカッチ。機械的に繰り出される人の限界を超えた強烈な一撃を、閃光のようにかわしながら迎撃していくレイ。その背後からは藤兵衛の銃撃が彼らの四肢を吹き飛ばしていった。

「無駄だ。こいつらは特別製。死ぬその瞬間まで女神に支える信仰の結晶。アガナ様の御前では全てが無力と思い知れ。『金剛腕』!!」

 だが彼らが倒れ落ちることはない。正確に言えば、肉体の損傷と生命の存続とが完全に乖離していたのだった。藤兵衛とレイがどんなに肉体を吹き飛ばしても、そのまま何事もなかったのように突進してくる、意思なき肉の塊。更にその隙をついて、大地が割れるほどの攻撃を繰り出すザザ。辛うじて回避し続けるレイは、風を纏いながら周囲を舞った。駆け抜けた。一気に雪が舞い上がり、彼らの視界を白く染め尽くした。

「参ったのう……虫よ」

「参ったぜ……クソ商人」

 暴風により雪は数秒間、完全に戦場の風景を奪っていた。不意の事態に防御を固めるザザだったが、やがて彼は異変に気付いた。そう、雪が晴れたその時、藤兵衛は力車を引き連れ、既に遠く彼方へ走り去っていた。

「……おのれ逃げるか! 追え、追うのだ!」

「おいおい。フラフラしてるだけのゾンビ野郎じゃ、うちのパシリにも追いつけねえぜ。ほれ、てめえが行くしかねえんじゃねえの? お嬢様が目的なんだろ? できるなら……だけどよ。『蓮花』!!」

 言い終わる前に火を吹くレイの三段突き。分厚い毛皮が大部分の衝撃を吸収するも、急所を的確に貫かれたザザは、思わずぐらりと体を揺らした。

「ぐ、ぐうう! 貴様! シャーロットの奴隷の分際で……」

「へっ。そういう軽口はな、ぜんぶうまくいってからやれや。ほら、もう見えなくなっちまうぞ。追わなくていいのか? 指揮官ザザ様よ」

 みるみるうちに視界の外に消えて行く力車。降りしきる雪に塗れ、すぐに追わねば捕捉が極めて困難であることは明白だった。

「ええい、どけ!」

 怒りと共に振り上げられたザザの両拳。しかしレイはひょいと軽くいなし、顎に渾身の掌底を叩き込んだ。頭蓋内で激しく脳が揺れ、彼はたまらず片膝を付いた。その隙にレイは、周囲の兵士達をぎろりと睨みつけ、両手を地に着き今まで見たこともない低い構えを取った。

「しゃあねえな。あんま気はのらねえが……やるか。『草薙』!!」

 レイは狙ったのは敵の脚部。とにかく移動さえ封じれば何もできないと踏んだ。そして、その目論見はまんまと成功した。レイの高速の回し蹴りにより、大気ごと切り裂かれる兵士達の下半身。足をもぎ取られ哀れに蠢く姿を見て、心底気分悪そうに唾を吐き捨てるレイ。気付けば立っているのは2人。レイとザザは目を合わせ、5メートルほどの距離で睨み合っていた、

「ほう、想像以上だな。だが捨て駒が壊れただけだ。アガナ神教の名に於いて、このまま好きにやらせる訳にはいかん」

「……なにが“慈愛の女神”だかよ。やってるこたあそこらの野盗と変わりねえぜ」

「我らは高き理想の為に禁忌に手を染めた。高き理想の為ならば多少の犠牲は仕方ない。矮小な貴様の如き存在には生涯理解できんだろう」

「ハッ! 笑えんな。てめえの声はもう聞きあきたぜ。……こいよ」

 2人は同時に闇力を溜めた。全身から組み上げた闇力が闘気へと昇華され、互いの右拳が同時に振り抜かれた。拳に込められた力と力がマグマのように炸裂し、小爆発を起こして吹き飛ぶ両者。

「まだだ! 『滅閃』!!」

「滅びろ! 『雪割草』!!」

 またしても同時に動く両者。レイの闘気は飛翔する波動となり、ザザの心臓部を確実に捉えた。一方彼は大地に全力で拳を打ち込み、地盤ごとレイを空中へと吹き飛ばした。

「クソが!!」

「グムッ!!」

 レイの攻撃で甚大な損傷を負い、ザザは血飛沫を上げながら膝を付いた。胸を抉られ降魔すら解除させられながらも、彼は怯むことなく空中に飛ばしたレイを鋭く見つめ、胸元から紙切れのようなものを数枚投げ付けた。紙はまるで意思を持つかのように一直線にレイの方に向かって飛び、地面に張り付いて鈍い光を放った。

(な、なんだこりゃ?! ワケわかんねえが……たぶんヤベえ!)

 圧倒的な悪寒が全身を走った時、既にレイの全身は光に包まれていた。全く味わったことのない衝撃、光の縄が檻の如き空間を形成し、完全にレイを捕縛していたのだった。

「……アガナ神教符術『プララヤ』!! 貴様のような闇の眷属を捕縛し、誅する為の神秘の術よ。とは言えこちらも手は出せん。連中を捕縛した後でゆっくり殺してやる」

「マ、マジか! ……ちきしょう! 外れねえ!」

 必死に縄を引きちぎろうとするレイだったが、未経験の光の術技を前に苦戦を強いられていた。ザザは周囲を見渡し他に敵が居ない事を確認すると、すぐに力車の進んだ方向へ走り出した。

「ちっ。余計な時間を食ったな。だがあの調子なら十分に時間は稼げそうだ。あの奴隷さえいなければ後はザコのみ。すぐに蹂躙してやる!」

 血の匂いを滴らせながら獣のように吠えるザザ。彼の声が遠ざかるのを耳にしながら、レイは雪中でぼそりと呟いた。

「クソが! ふざけんじゃねえ! だがま……時間はかせいだかんな。あとはなんとかしやがれ……クソ商人!」


 雪原の森の中を走り続けるザザ。目の前に立ち塞がる木を力任せに薙ぎ倒し、轍の跡を追い続ける。途中で踏みしめた雪の感覚に違和感を覚え、彼は咄嗟に道端へと飛び移った。次の瞬間、大きな音を立て崩れる雪の塊。彼はちっと舌打ちすると、すかさず追跡を開始していった。

「……落とし穴とはずいぶん古典的だな。そんな暇があるなら少しでも逃げた方がよかったものを」

 ふっと小さく嗤うザザ。実際に力車は目と鼻の先にあった。彼はその気配を感じ、大幅に足取りを早めた。

 力車は、ある一点で停止していた。道から外れ森林の奥に突っ込み、雪に埋もれている状態だった。ザザはやや離れた地点で足を止め、冷静に考え込んだ。

(……考えるまでもなく罠だ。あの蛇こと、きっと力車の周辺には周到な仕掛けがあろう。まともに付き合ってはならん。即ち……元を断つ。……符術『ナルシス』!!)

 ザザは目を閉じて集中し、握り締めた符に神秘の力を込めた。すると彼の目の前に光の力が湧き上がり、紙面のように広がり周囲の地形を示すと、闇力の反応を明確に指し示していった。敵の反応は森を抜けた平地。500メートルほど離れた地点一帯で、尋常ならざる強力な反応が見て取れた。

(……蛇め、相当に闇力を溜めているな。うかつに力車に近付いていたら、確実に背後から撃ち抜かれていたな。あれだけの闇力を、降魔無しで食らえば俺でも死は免れん。だがやはり素人だな。我らがアガナ神教の闇力探知を舐めてもらっては困る。あの化け物のせいで降魔はしばらく不可能だが、奴一人なら潰すのは容易い。たかが猿知恵、本物の力の前に屈するがよい!)

 ザザは駆けた。まるで野を進む熊のように、がっちりと大地を踏み分け、獲物をめがけて一目散に駆け抜けた。木をかき分け森を矢のように抜け、平野に足を踏み入れると、藤兵衛は策の失敗に気付いたのか絶望に顔を歪めた。だが、またとない絶好の機会を前にして、何かが彼の足を止めた。それは直感であり、本能であり、経験でもあった。それらが入り混じった複雑な何かにより、彼はすんでのところで立ち止まった。藤兵衛はそんな彼に気付くと、皮肉に口元を歪めた。

「流石は良い勘じゃの。禿猿の分際で大したものじゃ。もう一歩というところじゃったがのう」

「……湖か。さすがは地元民、よく知ってるな」

 そう、今彼らが立っているのは凍り付いた湖の上だった。よく見れば藤兵衛のすぐ前、積もった雪の下には円形の切れ込みが入っていた。ザザが何も考えず進んでいれば、湖への転落は免れなかっただろう。

「厄介な男だ。まさか自分を囮にするとはな。だがそれも終わりだ。言い残すことはあるか?」

「儂に勝ったとでも言いたいのか? この金蛇屋藤兵衛に知恵比べで勝ったと? 貴様のような闇も光も中途半端な唐変木がかの?」

「ハッタリはよせ。もう勝ち目はない。ここまでやれたのを誇りに死んでいけ。……!!」

 再び違和感。またしてもザザを襲うざらりとした感覚。しかし疑問はすぐに氷解する。藤兵衛の銃を構える手元、そこには何故か闇力が込められていなかった。ではあの闇力どこから反応したのか? ……答えは左手手元、着物の袖に隠れた、見たこともない複雑な術式からだった。

(な、なんだあの術は?! いつの間にあんな超高等術式を? あり得ない!)

「気付いたかの? 要は儂を相手にした時点で貴様は詰みなのじゃ。……『転移』!!」

 とっさに逃げようとするザザだったが、次の瞬間には藤兵衛を中心とした30メートル半径に術式が広がり、湖の上の雪も氷も一切合切が消え失せた。彼は逃れ切れず、背を向けたまま湖に落ちた。心臓が止まりそうなほど冷たい水で、重傷を負った心臓の鼓動が急速に弱まるのを感じ、彼は慌てて岸に上がろうともがいた。だが、今度は全身に糸のようなものが纏わり付き、全身の自由を奪っていった。

(こ、こいつは魚網? いつの間に? こんなものどこにもなかったぞ!?)

 水中のぼやけた視界に映るは、邪悪な藤兵衛の微笑み。そして、深い湖の底から鮫のように猛烈に近付く一本の牙。それはザザ目掛け一目散に飛びついてきた。

(そうか! 道理で闇力の反応が……こいつは既に……)

 水中から現れたのは、鋭い眼光を向ける高堂亜門だった。溜めに溜めた闘気が刀の先に集中しており、彼は長い髪をなびかせ呼吸を止めたまま、突き刺さるほどの感覚を十二分に込め、相手の呼吸を全て察知しながら心中で叫んだ。

(先ほどの屈辱……のしを付けて返してもらうでござる! 高堂流奥義『天龍地尾』!!)

 水中をものともせずに、下方から凄まじい角度の切り上げを行う亜門。前回とは打って変わり、するりと紙のように切断されるザザの右腕。水中が真紅に染まる中、彼は必死に思考を続けた。

(ぐうっ! まずい! だ、だが陸に上がりさえすれば……)

 しかしそれは叶わぬ思い。亜門は最上段に振り上げたままの刃を、全身のバネによって隙なく鋭角に振り下ろし、再度の凶刃はザザの左腕を切断した。激しく血を撒き散らしながら水中に沈まんとするザザを抱え、亜門は決死の形相で水面に上がっていった。そこには既に陸へと上がり、下卑た笑顔で炎の術を構築する藤兵衛の姿があった。

「何とか上手くいったわい。しかしよく息がもったのう。流石は亜門じゃわい」

「す、すべては殿のお膳立てのおかげでござる。ただ、少しばかり話が……その、長かったかとは存じますが……」

「喧しい! あれは必要なことなのじゃ! さっさと陸に上がれい。このままでは寒すぎて昇天してしまうわい。どうにかして此奴から情報を聞き出し、今後の作戦を決めねばのう」

 無言でコクリと頷いた亜門。遠くからレイの呼ぶ声が響き、2人は顔を見合わせて笑った。一つの戦いは終わった。だが彼らの窮地はまだ終わらない。


「お? んだてめえら、池に落ちたんか? まったくどうしょうもねえアホどもだなあ」

 やっと辿り着いたレイが、指を刺して彼らをせせら笑った。いつもなら躍起に反論する藤兵衛だったが、激戦の疲労と寒さで声が出なかった。亜門も身震いして火に当たりながら、無言のまま荒縄でザザを縛り付けていた。

「しっかしまあ……『降魔』とはな。ありゃ普通の眷属じゃ持てねえモンだぜ。間違いなくこいつらにゃ、俺らの“敵”が関わってやがるな。それに……なんかヘンテコな紙切れの術まで使いやがってよ」

 湖から掬いとった小魚を生のまま齧りながら、レイが忌々しそうに符を投げ捨てた。それを見た瞬間、凍えて蹲っていた藤兵衛の顔色が変わった。彼はそそくさと符を拾い上げると、鋭い視線でそれを眺め始めた。

「あ? てめえそいつを知ってんのかよ。なんか光の縄みてえので、俺をがんじがらめにしやがったんだ。力じゃどうにもなんなくてよ、弱まるまで待つしかなかったんだ。全身ヤケドみてえになっちまったぜ」

「……成る程の。そういう事じゃったか。確かに儂は……かつてこれを見ておるの。偶然ではない、という事か」

「んだてめえ! もったいぶってねえでさっさと言いやがれ!!」

「グェポ!!」

 レイの拳が藤兵衛の腹を抉り、胃液と符が空に巻き上げられた。亜門はふっと飛び上がり紙の両面を確認すると、控え目に言葉を発した。

「恐れながら、殿にレイ殿。己もこの類のものを見たことがあるでござる。故郷の秋津国に、似たような妖術を使う怪しき集団が居りました。幾度か刃を交わした経験があり申すが、面妖かつ厄介な連中でござった」

「……これはアガナ神教の符術じゃ。とは言え使い熟せる者はほんの一握り、教団の幹部連中や上級僧兵のみの筈よ。何故こんな辺境に使い手がおるのか……どうも今一つ理解出来ぬな。それに『降魔』とは貴様が使っておる、例の野蛮極まる変身術のことじゃろう? アガナの連中が皆同類とは思えぬな。間違いなく裏がありそうじゃわい」

「俺にはサッパリわかんねえ。お嬢様が起きたら聞いてみねえとな。……てか、こいつどうすんだ? 拷問にでもかけんのか?」

 レイは半死半生のザザをぶっきらぼうに指差した。闇力こそ微かに残っており、辛うじて命は繋ぎ止めているが、両腕切断による出血多量で完全に意識を失っていた。亜門によって丹念に止血され岩に括り付けられているが、いつ死んでもおかしくはない状態だった。

「馬鹿を申せ! こんな状態で拷問などしたら5秒で死ぬわ! これだから野蛮人は嫌なんじゃ。それに簡単に口を割る男には思えぬ。シャルを起こして術でどうにかするしかあるまいて」

「まったく……己らが命を懸けている時に呑気に寝るとは言語道断。とんだ恩知らずな魔女でござるな!」

「ま、そう言うんじゃねえよ。あんな薬盛られたら誰だって……!? そういやてめえ……思い出したぞ! なんか俺に毒を食わせやがったな!」

「ち、違うわ! あれはシャルの作ったクッキーで……」

「うるせえ!! やっぱり毒じゃねえか!」

「グェポ!!」

「はっはっは。いつもながら仲のよろしいことで」

 いつもの応酬を見て、亜門は快活に笑った。2人もそれに釣られるようにふっと口元を緩ませた。

「しっかし参ったぜ。お嬢様は一回寝たらなかなか起きねえからな。いちおう起こしてみっけどよ、あんま期待すんなよ」

「その必要はありません」

 シャーロットの凜とした声。一堂が振り返ると、真剣な眼差しでザザを見つめる彼女の姿があった。

「おお、シャルや。起きたのか? 体調はどうなのじゃ?」

「私の悪口が聞こえてきたので目が覚めました。……終わったら来なさい、レイ」

 一転して絶望的な眼をしたレイを見て、藤兵衛は腹を抱えてせせら笑った。シャーロットはにっこりと藤兵衛と亜門に微笑みかけると、再びザザの様子を見遣った。

「人間が『降魔』……ですか。かなり強力に、かつ理論的に行使しているようですね。降魔石の定着痕に一切の無駄がありません。これだけ見ても、一朝一夕では不可能な領域です。恐らくは眷属から得た“知識”というより、長年に渡り研究された“成果”と考えるのが妥当でしょう」

「し、しかしじゃな。アガナ神教は“闇”を嫌悪する集団じゃぞ。そんな連中が闇術を、しかも相当な秘術を使っておるとは……一体何がどうなっておるのじゃ?」

 藤兵衛がキセルをふかしながら首を捻るも、シャーロットは真剣な表情を崩さずに、不動の姿勢でザザの方を向いて術式を構えた。

「心当たりはあります。後で文献を当たってみましょう。ですが、今は彼に聞くのが手っ取り早そうですね。あまり好みの術ではありませんが、この際仕方ないでしょう。少しだけお時間を頂けますか?」

「その必要はない」

 その時、ザザの身体から抑揚のない声がした。驚いて武器を構えて振り返る一堂。しかし、彼からは依然として生気は感じられない。皆で必死に周囲を伺うが、生物の気配は全く無かった。

「初めましてだな。俺の名はガーランド。新生アガナ公国の者だ。今この役立たずの体を借りて話をしている」

 まるで工具で捻じ曲げられたようにザザの口が不自然に動き、喉の奥から無機質な響きの言葉を作った。あまりの事態に言葉を失う一堂。しかしシャーロットだけが前に進み出て、怯むことなく向き合った。

「私はシャーロット=ハイドウォークです。以後お見知り置きを、ガーランド様」

「お気遣い感謝する。“あの男”の言う通りだな。美しく。聡明で。才気に富む。そして……甘い」

 周囲の温度が変化したように感じられるほどの、極めて冷ややかな声だった。酷薄かつ威圧的で、他人の事は何とも思わない独善的な気配が容易に感じ取れた。しかしシャーロットは怯むことなく前に一歩進み、美しい顔の上部に深い皺を一本寄せた。

「確かに私は甘いのかもしれません。ですが、私には心強い仲間がおります。そんな私たちに敗れて、死にかけているのは貴方のお仲間の方では?」

「仲間? ……これのことか。惜しいな。実に惜しい。降魔の素質は滅多に発現しない。だが現実は敗れた。その結果として情報漏洩の寸前。俺の手の内をも晒す羽目になった。貴殿らが殺してくれた方が楽だった」

 ビクン、とザザの身体が抵抗するように激しく揺れた。その目の狼狽の色からは、彼の人格は内側で覚醒し、全ての会話が聞こえている事実が見て取れた。そして、紛れも無く、彼は全霊で絶望していた。

「私は……貴方を許しません。貴方の為に命を張ってくれた方に対して、その傲慢な物言い。私は絶対に許すことはできません」

「貴殿とは話が噛み合わん。可能なら貢としたいが不可能と判断した。間尺に合わない。故に対話の意味はない。貴殿に情報を与える。その代わり敵対を解除して貰おう。現在のグラジールに『楔』は存在しない。既に破壊されている。来るだけ無駄だ。他の国を探せ。以上だ」

 彼の言葉に一同はどよめき、混乱し、錯綜していた。だがそんな考え込む時間も惜しむように、先陣を切ってレイが叫んだ。

「どういうことだてめえ! 話によっちゃぶち殺すぞ!」

「貴殿には一番用がない。退がれ」

「て、てめえ!!」

 今にもザザの身体に殴りかからんとするレイを、亜門が身体で必死に止めた。無言で思考を巡らす藤兵衛をちらりと見てから、再びシャーロットが言葉を発した。

「……例え貴方の言葉が真実だとして、なぜそれを私たちに? そんなことをしても何の得も意味もないでしょう?」

「先も言ったが取引だ。貴殿とは敵対も対話もするつもりはない。伝えるべき話も告げた。退がれ。私が話したいのは……金蛇屋藤兵衛だけだ」

 驚き振り返る一同。青ざめるシャーロットの肩を優しく抱き、藤兵衛は一切動じることなく、悠然とキセルに火を付けて立ち上がった。

「意味不明じゃの。儂は貴様に興味なぞないわ。どうしても話したいのなら対価を払えい。儂は損だけは大嫌いなのじゃ」

「なるほど。こちらも情報通りだ。一部始終見させてもらった。戦い方。思考の厚みと幅。そして時空感を操る複雑怪奇な術。『賢者の石』は貴様の胸の中のようだな。俺は貴様だけに用がある」

「全く話が合わぬようじゃな。支払う財が無いならさっさと失せよ。儂は忙しいのじゃ」

「対価ならある。一つだけな。俺は貴様が欲しがる“富“を持っている。それは情報だ。貴様の……妻子の仇に関する情報をな」

「!!」

 藤兵衛の目に、見たこともないような鈍色の光が灯った。憎悪、そう言い表すのが一番適切なのかもしれない。そして今まで誰も聞いたことのない、怒気を孕んだ声で藤兵衛は叫んだ。

「奴は死んだ! この目でしかと確認したわ! 何も知らぬ若造が戯言を抜かすでない!!」

「ほう。“不死”たる者をどうやって殺す? 逆に教えて欲しいものだ」

 しん、と静まり返る藤兵衛。努めて冷静なままでいようとするも、その手はガクガクと小刻みに震えていた。その光景をザザを通して観察し、ガーランドは満足そうに話を打ち切った。

「金蛇屋藤兵衛よ。俺はグラジールで貴様を待つ。賢者の石を持って1人で来い。他の者と来た時点で取引終了と見做す。話は以上だ」

「待て! 話は終わっとらん! 戯言をぬかしおって! ガーランドとか言ったの。その名前……この儂の脳髄にしかと焼き付けたわい!」

「そうか。それは愉快だな。……1つ言い忘れていた。ザザからは情報は何も引き出せん。この場で処分する。ではまた会おう」

 不意に途切れる会話。と同時に、ザザの身体に異変が起こった。何も力の加えられていない状況にも関わらず、彼の首は少しずつぐるりとねじれていき、はち切れんばかりに明後日の方向を向いていた。

「お、おい! ヤベエぞ!」

 レイの言葉に反応し一行が警戒の姿勢を取る中、苦しみの中でザザが最後の言葉を振り絞った。

「た……助け……ガーランド様………」

「おい! 奴は何者じゃ! 奴は何を知っている? 貴様……悔しくないのか! ゴミ同然に扱われ、使い捨てにされ、あろう事か口封じに殺されるのじゃぞ! 最後に全て吐けい! 奴の情報を吐くのじゃ!」

 だがその声は届かない。亜門が咄嗟に藤兵衛を抱え込んで後方に飛んだ瞬間、ブチブチブチと嫌な音を立てちぎれ飛ぶザザの首。凄まじい鮮血が雪原に赤い水溜りを作り、皆一様に言葉を失った。風の吹く音だけが辺りをいつまでも流れ続けていた。


 時間が流れた。時間だけが流れていった。だが彼らの間に生まれた深刻な沈黙は、決して流れてはいかなかった。

 藤兵衛とレイは焚き火を囲んで対角線に座り、何一つ言葉を交わすことなくただそこにいた。シャーロットは車内で調べ物を続けており、やがて道の先から亜門が帰って来た。

「あの男を埋葬したでござる」

 誰も口を開かなかった。特に藤兵衛が、いつも軽口と減らず口を叩くこの男が、何一つ言葉を発せず静かに考え込んでいた。その空気に耐えられなかったのは、やはりレイだった。

「……つうかよ、こうしててもしゃあねえだろ。今後どうすっかさっさと決めねえとな」

 わざと明るい声で言ったレイ。しんとしたままの空気の中、快活に微笑みそれに続く亜門。

「殿、レイ殿のおっしゃる通りでござるぞ。こういう困難な時こそ皆で知恵を出し合ってですな……」

「分かっておるわ。すまんの、ちと感情的になってしもうたわ。どうか許してくれい」

 藤兵衛は、いつもの彼からは有り得ぬ程に低姿勢で、しかもレイに向かって素直に頭を下げた。驚き顔を見合わせるレイと亜門に対し、彼は頭を掻きながら目を細めた。

「何を呆けておるか。仕方のない奴らじゃのう。儂らを惑わす為の虚言に決まっておるわ。好きに言わせておけばよかろうて」

「お、おう。そうだな。そうかもしんねえ。な、亜門?」

「え、ええ。そうでござるな! 流石は殿、いつも冷静でありまする!」

「無論じゃて。儂は冷静なのが一番の取り柄じゃからのう。さて、シャルの意見を聞くとするかの」

 藤兵衛は穏やかに微笑んで、静かに力車内へと向かっていった。ほっと胸を撫で下ろす亜門とは対照的に、レイは確実に存在する違和感に深く眉を顰めた。

 やがて、シャーロットが車内から降り立った。凛とした雰囲気を放つ彼女は、難しい顔で眉間に皺を寄せ、それに付き従う藤兵衛は、無言のまま口に微かな微笑を貼り付けていた。

「やっと文献を見つけました。あの降魔の術は“本物”です。ずっとアガナという名に引っかかっておりました。一般の歴史では秘匿されておりますが、彼らの教義で言うところの聖母アガナ、その本名はアガナ=ハイドウォーク。私の一族の祖先です」

 どよめく一行。深く頷いて何かを考え込む藤兵衛にちらりと視線を遣り、更に続けるシャーロット。

「遠い遠い神々の時代、人間は下等生物として扱われていました。力なき人間はあらゆる種族から軽んじられ、ただ奪われるだけの存在だったのです。それを憂いたアガナ様は只一人だけ人間の側に立ち、圧倒的な力を行使して、遂には神々をも打ち払ったと言われています。アガナ神教とはアガナ様を信奉する集団。光の力というのは正直よく理解出来ませんが、闇の力ならば受け継いでいても不思議ではありません」

「……成る程の。で、あのガーランドとかいう奴については何か分かったのか、シャル?」

「残念ながらそこまでは。一つだけ言えるのは、彼が強大な力を持っていること。恐らくあれは……藤兵衛と同じ時空間術の使い手です。それ一つ取っても極めて危険な存在でしょう」

「危険……かの。で、どうするのじゃ? 奴はグラジールに『楔』は既に無いと言いおった。可能性としては有り得るのかの?」

「その話だがよ、前も言ったが情報があってな。ゲンブ国の『楔』は、すでに崩壊してるって噂がよ。今回の話も合点がいったってかなんつうかな。ま、もちろん実際に行って確かめるつもりだったけどよ」

 やや言いにくそうに切れの悪い口調でレイは述べた。藤兵衛は振り向きもせずに頷き、再び深く考え込むように沈黙を保った。

「いずれにせよ、あのガーランドという男は危険です。今はグラジールに近付くべきではない、私はそう考えます。皆様のご意見をお聞きしたいのですが」

「俺はお嬢様の意見に従うだけだが、奴は明らかに罠を張ってるにちがいねえ。その……クソ商人の件も含めてな」

「恐れながら、己も同意見にて。いかにもな釣り餌が見え見えかと。乗せられては負けにござる。ここは一端、別の道を探るのも手かと」

 一行はそれぞれの意見を述べた後、藤兵衛の顔を見て深く沈黙した。暫くの時間を置いてから、彼はふうと息を吐くと、頭を掻きながら穏やかな微笑を浮かべた。

「なら決まりじゃの。グラジールは捨て置き、西のビャッコ国へ向かうとしようぞ。旧道から枝分かれした道を北西に抜ければ、険しき道じゃが国境へと到達出来る筈じゃて」

「お、おい! てめえの意見を言いやがれ! その態度はよ……」

「意味もないわ。多数決で決まりじゃて。ちと疲れた故、儂は先に眠るわい。今日は激戦じゃったからの」

 そう言って藤兵衛は、亜門が準備した雪洞内に入り込んでいった。残った3人は無言でそれを見送ると、やがて各々休息に付いていった。明らかな違和感を感じつつも、それでも疲れ果てた彼女らには休息が必要だった。束の間の眠りが一行を包み込む中、少しずつ夜が更けていった。


 夜更けて。

 雪洞からそっと出て来た1つの影。防寒着をたっぷりと着込んで丸くなったその影は、静かに懐からキセルを取り出して火を付けた。

「……おい。止まれ」

 びくんと反応する影、金蛇屋藤兵衛。凍るような寒さの中で立ち尽くしていたのは、もう1つの大きな影……レイ。

「ふん。やはり貴様か。寒いのは苦手ではなかったのかの?」

「てめえの考えなんざお見通しだクソ野郎! 勝手に行くのはゆるさねえ。こりゃ命令だ」

 腕組みをして怒気を孕みながら立ちはだかるレイに、藤兵衛は垂れた目を細め自嘲するように笑いながら、キセルの煙を悠然と吐き出した。

「勘違いするでないわ。儂は契約を反故にした事はない故な。ちと出かけて、用が済まば再度合流する心積りぞ。貴様らには先に行って貰うだけじゃて」

「てめえ……なんもわかってねえな! 不死はともかくだ、不老の術はお嬢様から離れりゃ無効だ! ただのジジイに戻っちまうんだぞ! それにてめえが行けば……間違いなくお嬢様も後を追う! てめえの行動にゃなんの意味もねえ!」

「貴様が止めればよかろうが。シャル1人ではまともに移動も出来まいて。それに……危険を冒して無為な行為をする程、彼奴とて阿呆ではあるまい」

「てめえほんとわかってねえな! お嬢様はな……そんなどうしようもねえアホだって言ってんだ! なにが大陸一の商人だ! なにが世界の富を喰らう蛇だ! てめえはなんもわかってねえ! 今のお嬢様にとっててめえはな……」

 喚き立てるレイの前で、複雑な術式が瞬時に巻き起こった。藤兵衛は穏やかに微笑み、静かに最後の一言を放った。

「虫よ。世話になったの。恐らく儂は……グラジールから五体満足で戻る事は出来ぬじゃろう。シャルと亜門に済まぬと……じゃが必ず……必ずや貴様らの助けに……」

「おい! 行くんじゃねえ! おいいいいいい!!!」

 レイの伸ばして手をすり抜けて、金蛇屋藤兵衛の身体は瞬時に空間の歪みに消えていった。空振った勢いで足を取られ雪原に深く埋まったレイは、拳を熱く強く握りしめて、身体を震わせながら呟いた。

「クソ野郎が……てめえはなにも……なんにもわかっちゃいねえ………」


 大陸歴1278年12月。こうして金蛇屋藤兵衛は、雪深いゲンブの地にてシャーロット一行と袂を分かった。彼らの物語は一旦この地で終わろうとしていた。血と憎しみと、闇が織りなす過去に押し潰され、誰もその軌跡を辿ることは出来なかった。

 彼らの次なる物語は、2つの道が分岐した箇所から始められる。何処へ向かうのかも知れぬ深く埋まった岐路に於いて、金蛇屋藤兵衛とシャーロット=ハイドウォークの決断が、この世界の運命を大きく変えることとなる。

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