第16話「妖狐」

 北国ゲンブの旅。

 藤兵衛一行は雪深い街道を、ひたすらに西へと向かっていた。既に季節は12月の冬本番。眼に映る全ては枯れ果て白く染まりつつあるが、彼らの足は決して止まることはなかった。

「いやあ、しかし寒くなり申したな。秋津国とは随分と異なる気候にて」

 亜門は手を擦り合わせながら、力車を引く藤兵衛に親しげに話しかけた。彼は練習がてら術で火を起こし、キセルをふかしつつ穏やかに微笑み返した。

「本当じゃのう。このままでは凍て付いてしまうわい。早く帝都グラジールへ着きたいものじゃて」

「にしても、殿の道案内は常に適切でござるな。この間の大山脈越えも、殿の見識なくば遭難するところでありました。あそこでレイ殿の意見に従っていたら、今頃どうなっていたことか……」

「奴は伊達に虫などと呼ばれておらぬ。知性も思考も見識も判断も等しく昆虫並みじゃて。なのに体力と行動力だけは多分にある故、実に始末が悪いわい」

 その時、力車の窓が勢いよく開き、顔を出したレイが不機嫌そうに叫んだ。

「聞こえてんぞクソ商人! あとどんくらいで着くんだ! 早くしねえと寒くて死んじまうぞ!」

「ふん! 車内から呑気によく言うわい。この速度であれば……概ね半月かのう」

「ああ?! そんなにかかんのか! さっさと気合い入れて飛ばしやがれ!」

「最後まで聞けい! これだから阿呆は嫌いなのじゃ。あと数日で街道の関にして、唯一の街と呼べるアーミスタンに着く故、そこまで行けば犬橇があろうて。彼奴らは実に良く働くからのう。上手くいけば半分以下に縮められそうじゃな」

「へっ。犬っころの方が役立つってこったな。てめえも負けねえように這ってけよ」

「流石は畜生にも劣る知能の生き物じゃて。発想が野蛮で幼稚かつ下品じゃのう。少しは犬めを見習ってはどうじゃ?」

「うるせえ!!」

「グェポ!!」

「はっはっは。実に仲のよろしいことにござるな。そろそろ日も暮れてきましたゆえ、今宵の宿を定めるとしましょう。あの先の岩窟らしき箇所が最適であるかと。己が先に行って準備いたしましょうぞ」

 そう言って雪原を駆け抜けていく亜門。その後をゆっくりと力車を引きながら、藤兵衛はぼそりとレイに尋ねた。

「おい、虫。シャルの様子は変わらぬか?」

「ああ、ちと難儀だ。月の巡りが悪いからな。数日はまともに術は使えそうもねえ」

「参ったのう。あと少しなのじゃが。とは言え、今の所ゲンブには厄介な眷属も居らぬ。あの雪男のみならば何とか遣り過ごせようて」

「……だといいがな。ちと嫌な予感がするぜ。なんとなくだけどな」

「ふん。弱気とはらしくないの。少しは亜門の能天気を見習ってはどうじゃ? ほれ、あんなに元気に働いておるぞ」

 藤兵衛の指差した先には、嬉々として木々を伐採し雪除けの庇を作る亜門の姿があった。レイは深く大きくため息をつき、窓から外にひょいと飛び降りた。

「ま、そのとおりだな。考えてもしかたねえ。やるしかねえか。俺もあっち手伝うから、てめえはゆっくり来いや。くれぐれもお嬢様を刺激するんじゃねえぞ」

「ふん。儂を誰と心得るか。そんな事は当たり前じゃわい。どうせ体力しか取り柄がないのじゃから、さっさと行くがよかろうて」

 レイが走り去った足跡を追うように、藤兵衛は鼻歌を歌いながらゆっくりと雪原を踏みしめていった。暗く染まる雲の中に月は隠れ、シャーロットは昼間から昏睡に近い状態にあった。藤兵衛は垂れた目を細めてちらりと後方に視線を移し、優しく温かい声を彼女に投げ掛けた。

「心配なぞ何も要らぬわ、シャルよ。儂らが何とかする故、今はゆっくり休んでおれ」

 返事はなかった。藤兵衛はキセルの煙を一気に吐き出すと、鼻歌と共に一歩ずつ前へと進んでいった。澄んだ冬の空気が彼らの空間を満たしていった。


 その日の夜。月も星も光を失う、不吉な色の訪れし漆黒。

 藤兵衛たちは戦闘準備を整え、来るべき時を待ち続けていた。今までの経験から言って、こんな日は必ず眷属が発生する。集中して銃の手入れをする藤兵衛に、亜門がふと刀を磨きながら話しかけた。

「……殿。1つ、ずっと疑問だったことがあるでござる。お話によれば、眷属どもは本能ではなく、命令に従い魔女めを襲うとのこと。とすれば……なぜ己らの動きを、こうも的確に捉えておるのでありましょうか? 単純な気配や痕跡を残すほど、己らは緩くないかと存じますが」

「……ふむ。言われてみれば確かに妙じゃな。最初からそういうものじゃと受け入れておったが、敵は完全にシャルに照準を合わせておる。何らかの探知法があるのかの?」

「連中は闇力を探知してやがるんだ。たぶんな。お嬢様の力は絶大だ。俺だって数キロ離れてても位置がわかるぜ。きっとそういうこったろ」

 ぶっきらぼうに言い放ったレイに向けて、亜門は不思議そうに首を捻りながら言葉を返した。

「普段ならばそれも分かりまする。あの魔女めの忌々しき力のせいで、己らは苦境を強いられておるのでしょう。ですがここ数日、魔女めの力はほぼ無力化されておりまする。にも関わらず敵は極めて容易にこちらを捉え、そればかりか日々勢いを増しており、集団で計画的に襲ってくる様子。どうにも己には解せませぬな」

「あ? だったらなんだってんだ! きてんだからしゃあねえだろうが! それともなにか? お嬢様や俺に文句でもあるってのか?」

「そ、そうではありませぬ! 決して文句などは! ただ己は、一軍人として戦略的な背景をですな……」

「……まあよいではないか、亜門。そんな話は後に致せ。今は目の前の敵を打ち払うが先決ぞ」

 藤兵衛の言葉の背後には、何処か強制的に話を打ち切った感覚があった。亜門は敏感にそれに気付き即座に黙した。藤兵衛はまじまじと亜門の顔を見つめ、片目を小さく瞑って合図らしきものを飛ばした。彼はそれだけで全てを了承し、平伏して謝罪の意を示した。

「申し訳ありませぬ。出過ぎたことを申しました。レイ殿、どうかお許し下され」

「わかったわかった。んな顔すんな。俺もムキになって悪かったよ。ただ、わかんねえこと考えてもしゃあねえし、むしろ迷いにつながるだけだからな。クソ商人の言う通り、今は集中するだけだ」

「は! 畏まりました! 例えいかなる敵が現れようとも、必ずやこの刀の錆にしてやりましょうぞ!」

「……」

 藤兵衛は何も言わずに、悠然とキセルを吸い続けていた。金蛇屋の社員ならば誰でも知っている。この男が一番怖い時、それは無言で思考を重ねている時であると。オウリュウ国一の大商人、金蛇屋藤兵衛とはそういう男だった。全ての可能性を考慮に入れ、思慮深く計画を立てた上で、傍目には無謀にも思える行動を確信の元に行うのであった。

 物事はまだ全てが動いている訳ではなかった。だが、じきにその全容は表れることとなる。その時に金蛇屋藤兵衛は何を考えどう動くか、彼の底知れぬ雰囲気に、歴戦の軍人たる亜門ですら背をぞくりと震わせた。


 今宵の戦いも始まった。

 群れになって襲い掛かるサスカッチ。毛むくじゃらの雪男を思わせるその姿は、醜悪で毛の先まで邪気に満ちていた。その戦闘力は単体では危険は少なくとも、束になり隊列を組んで襲いかかって来る、獰猛で危険な存在であった。

「いくぞクソどもが! もうてめえらなんざあきあきだぜ! 『滅閃』!!」

 開戦の狼煙はいつもの如くレイの拳からだった。闘気の波動が地を薙ぎ、枯れ木の如く眷属の群れを粉砕していった。レイは雪など全く気に留めることなく、俊敏かつ力強く飛翔し、しなやかに敵陣に切り込んでいった。赤黒く染まる雪原に、月夜に照らされる影が気高さを秘めて映っていた。

「ふん! 虫の分際で調子に乗りおって。儂は適当にやらせてもらうわい。『ミヅチ』!!」

 後方から藤兵衛が放った3筋の紫光が、螺旋の軌道を描いてサスカッチの群れに飛んでいった。銃弾が敵の頭部を正確に捉え撃ち抜くと、彼は戦況を注視しながら、レイが撃ち漏らした敵を確実に仕留めていった。彼の存在に気付いた敵の一団がそちらに向かうも、藤兵衛はふんと鼻を鳴らして高らかに宣言した。

「まったく知性の足りぬ化け物どもよ。おい、亜門。残りはくれてやる故、しかと仕事をせい」

「は! 畏まりました。高堂亜門……行くでござる!」

 サスカッチは獰猛に牙を剥き、涎を垂らしてこちらに近付きつつあった。いつも以上に数が多く、まるで虫けらの如く湧いてくる彼らの前に、刀一本に勇を刻み立ちはだかる亜門。

「さて、殿の御期待に応えねばなりませぬな。この手の死線は既に何度も経験済みにござれば。高堂流『黒薙独楽』!!」

 亜門は刀を上段に構え直し、鋭く呼吸を整え、敵の突撃とすれ違いざまに、静かに刀を払った。彼は全ての攻撃を紙一重で避けつつ、左足を中心に回転しながら、敵軍をまとめて一刀で切り捨てた。血飛沫に彩られながら平然と息を深く吐く彼に、藤兵衛は僅かに口角を上げて答えた。

「でかしたぞ、亜門! じゃが今夜の敵の数は異常じゃな。儂の勘では、必ず何かが起ころうて。お主に言うのも何じゃが、くれぐれも気を付けるのじゃぞ」

「己も殿と同じ意見にござる。なにやら不穏な気配がしますな。……殿。不躾ですが1つ宜しいでしょうか?」

「何じゃ? 儂のお主の間で遠慮など要らぬ。さっさと申すがよい」

「はっ! 敵の動きが不安定な今、闇雲に戦うは危険かと存じまする。己は全体を見て敵の狙いを探りとうござる。レイ殿はさておき、殿におかれましては……どうか己の指示に従っていただけないでしょうか?」

 恐る恐る進言する亜門だったが、藤兵衛はカッと嬉しそうに大きく笑い、眼前に迫る敵に銃を抜き打ちながら、実に嬉しそうに笑った。

「ガッハッハッハッハ! 勿論じゃて。お主は戦場の専門家、儂などの判断では遠く及ぶまいて。ならば全面的に頼る故、しかと指示を出せい! 儂はお主を信じておるぞ」

「ありがとうござりまする! 殿ならばそう言って頂けると、己も信じておったでござる。では……戦線をこのまま保ちつつ、決して深追いせぬようお願いし致します。溢れた敵は己が仕留めますのでご安心をば」

「了解じゃ! 何かあらばすぐに伝えい!」

 目と目で見つめ合い、同時に微笑む2人。彼らの信頼関係は、この1月余りで相当な境地にまで達していた。元々性格の相性も非常に良く、お互いの専門分野で信頼し合い、背中を任せ合う程の強固な関係を構築していた。

 藤兵衛に細かい指示を出しながら、亜門は敵の動きを読み、意図的に誘導する。引きつけた所を藤兵衛が釣瓶打ちにし、撃ち漏らした敵を亜門が斬り払う。2人の動きは有機的に絡み合い、極めて効率的に敵を駆逐していった。

 その様子をちらりと見て、レイもまた嬉しそうに口を歪めた。レイもまた、この時点になると仲間たちを心底頼りにしていたのだ。3人は互いに補い合いながら、その役割を完璧に果たしていた。亜門が入ってからというもの、彼らの戦闘において苦戦の二文字はなかった。如何に敵が多かろうが、戦術の心得ない下級眷属など烏合の衆に過ぎなかった。そう……今日この日までは。


 それから15分ほどが経過すると、敵の勢いがはっきりと失われていった。肩で息をするレイの顔にも、安堵の表情がありありと浮かんでいた。前線に残る敵を一気に拳で粉砕し尽くすと、レイはすぐ隣にて刀を振るう亜門に向けて叫んだ。

「ふう。やっと落ち着いたかぜ。ったく、こうるせえ野郎どもだ。亜門、てめえもよく頑張ったぜ」

「ありがとうござりまする。しかしレイ殿。敵の動きがあまりに急ではありませぬか? なにやら計略の匂いがしまする。ここは一度本陣まで退くのも手かと存じまする」

「はっ! てめえもあのクソの腰抜けがうつったか? あんな毛玉にそんな知能があるわきゃねえだろが。ビビってんならさっさと退け!」

「申し訳ありませぬ! 口はばったことを申してしまいました。一度頭を冷やして参ります」

 亜門は深々と一礼して、即座に前線から下がっていった。そんな彼の側に悠然とキセルを吹かしながら藤兵衛が寄ってきた。

「何じゃ? 虫と揉めておったようじゃか、あんな阿呆に意見するだけ時間の無駄じゃぞ」

「いえ。レイ殿の言い分もごもっともかと。戦いは勢いでござりますからな。それに己のような素人に意見されるなど、あれ程の戦士には耐えられぬこと。お気持ちは分かりまする」

「ふん! あれは本能のみで動く知能の足りぬ生き物じゃて。儂はお主の意見を聞こうぞ。何かあらば遠慮なく申すがよい」

「ありがとうござりまする。実は……己には確信に近い感覚があり申す。この勘働きは、侍として生き抜く中で身につけたもので、己はこの感覚を信じ、今まで生き抜いてきたのでござる。はっきり申せば、敵の謀の臭いが充満しておりまする。詳細は己が探りますゆえ、殿は本陣……つまり魔女めをお守り下され」

「うむ。儂には見当も付かぬが、お主がそこまで言うならきっとそれが正しいのじゃろう。では任せたぞ。儂はシャルの処へ向かう故な」

「は! 己は聡明な主を持てて幸運にござれば。それでは御免!」

 こうして2人は別れた。シャーロットの元へと急行する藤兵衛を見送り、亜門は躊躇うことなく視線を彼方へと向けた。戦闘中に僅かに見えた人影、敢えて敵軍を置かず、心理的に死角となる場所。戦いの舞台たる雪原から回り込むように聳え立つ丘の上、針葉樹の繁る森の中。亜門は険しい丘を反対側から一気に登りきり、一足飛びに森の中へ掻き分けていった。

「!? こ、この数は!!」

 そこに居たのは200を優に超えるサスカッチの群れだった。想像を超える数に躊躇する亜門。だが彼らは亜門に気を配ることもなく、一様に不思議な祈りを捧げていた。

(な、何でござるかこれは!? この儀式は何を目的に……ともかくすぐに切り崩さねば……)

 亜門がそう思い刀を振るわんとしたその瞬間、眷属達の体幹に謎の紋様が同時に浮き上がった。そして彼らは、正気を抜かれたかのように崩れ落ち絶命し、胸の紋様だけが妖しく光を放ち続けていた。やがて莫大な数の紋様は死体から離れて宙を浮き、意思を持つかのように一箇所に集まり、雪原そのものに染み込んでいった。地鳴りと共に膨大な闇の胎動が大地を包み込むのを見て、亜門は冷や汗をかいて大声で叫んだ。

「い、いかんでござる! 殿! レイ殿! 早うお逃げくだされ! とんでもないものが来るでござる!」

 突如として湧き出た爆発的な闇力、そして殺気。何かが目覚めようとする剣呑極まる気配に、レイは焦りの色を浮かべて敵陣を見渡した。そして次の瞬間、周囲の風景をも巻き込んだ強烈な氷雪のうねりが、大地の底から巻き起った。

(これは……雪崩! 彼奴らはこれを狙っていたでござるか!)

 雪の波は激しく波打ちながら斜面を下り、やがて獣のような姿を形作りながら、一瞬でシャーロットが眠る洞窟をも飲み込んでいった。咄嗟に木の枝に捕まって避けた亜門が下に降りた時、そこにいたのは青ざめた顔のレイ、そして全身から妖気を放つ強大な雪の塊。次第にそれは巨大な獣の如き姿を形作り、腹の中にシャーロットを収め、絶望的な狂気の咆哮を上げていた。

「マジか! よりによってセルシウスだと! 雪を司る上位眷属じゃねえか! どうしてこんなところに……お嬢様、ご無事ですか!」

「レイ殿……少し落ち着くでござる」

「ああ? これが落ち着いてられ……」

 次の瞬間、亜門の手がレイの右頰を強く振り抜いていた。パシンと高い音がして、レイは頰を抑えて放心した。彼は姿勢を正し深々と一礼すると、静かに言葉を放った。

「御無礼お許しあれ。今は何を考えても仕方ないでござる。幸い魔女めの側には殿もご一緒の様子。己らは全霊で妖を仕留め、お二人を救うしか道はありませぬ」

「……すまねえ。目え覚めたわ。ありがとよ。たしかにクソ商人がいりゃ、ちったあマシか。……よし、やっか。あの小汚ねえクソ狐をブチ殺すぞ!」

 レイの目にはありありと光が灯っていった。亜門は嬉しそうに微笑むと、刀を上段に構え、荒れ狂う吹雪の化生に鋭い視線を向けた。

「まずは己が様子を見まする。レイ殿はこちらで機を伺って頂きたく存じます。何としても勝機を見出しますゆえ」

「バカ言うんじゃねえ! そりゃ逆だ! 戦の分析はてめえの役目だ! 俺はあのクソの言う通り、本能で暴れるしかできねえ。てめえは見とけ。んで……必ず勝ち筋を見出せ! いいな!」

「……は。御意にて」

 敵の放つ凄まじい圧力をその身に受けながらも、レイは微塵も怯む様子を見せずに、いつも通り一直線に立ち向かっていった。亜門はつぶさに状況を観察しながら、極めて冷静にその目に光を込めていた。

 極限の緊迫と殺意が渦を巻く中、雪原の死闘が幕を開けた。


「何じゃここは! ええい、臭くて堪らぬわ!」

 むせ返る酸液に堪え兼ね、藤兵衛は周囲の内壁を忌々しそうに蹴り飛ばした。しかし粘液に阻まれてぬるりと弾かれ、彼は苛つき声を荒げた。だがシャーロットはその体を横たえたまま、まるで自宅の居間にでもいるようにのんびりとした口調で言った。

「慌てても仕方ありませんよ、藤兵衛。状況はまるで把握できませんが、外のことなら、きっとレイと亜門が何とかしてくれるはずです。彼らを信じて待ちましょう」

「ふん! 亜門はさておき、あの虫は正真正銘の阿呆じゃからのう。しかし……何故お主はそんなに落ち着いておるのじゃ! よいか、儂らは巨大な化け物に飲み込まれたのじゃぞ! 奴は儂らを花林糖か何かと思うておるのじゃ。おお、悍ましい。涙も枯れ果てるわい」

「かりんとう……私も食べたいです。なんだかお腹がすいてきました」

 お腹を抑え悲しそうになるシャーロットを見て、藤兵衛はふうと深く大きくため息をついた。

(そうじゃな、儂が間違っておった。よりによってこの狂人に、まともな感覚を持てと言う方が狂っておるわ)

 藤兵衛は諦めて首を振り、どかりとその場に座り込んだ。ぽたぽたと垂れてくる胃液が周囲を溶かす音が聞こえるが、今の彼は一切気にも止めずに、悍ましい“部屋”の中を注意深く見渡した。

「なあ、シャルや。もう術は使えるのかの? 見たところ今日の月は暗いようじゃが……」

「かりんとうを食べたいです……」

 沈黙。ため息。それを振り払うかのように、意を決して壁に向けて銃を乱射する藤兵衛。しかし銃弾は、シュンと小さな音を立てて内壁に飲み込まれてしまった。明らかに闇力が吸収されている絶望的な現状を見て、藤兵衛は腕組みして考え込んだ。

(どうやらここは、喰らったものを消化する“胃袋”といったところかの。さて、どうしたものか。虫と亜門ならば何とかするとは思うが、このままでは儂らはじきに溶かされてしまうわい。一か八か転移術を使うか? ……いや、流石に危険過ぎるわ。それは最後の手段じゃて。何とかして策を考えねば……)

 藤兵衛は下層部に溜まった胃液の中に手を浸し、がさごそと内壁を触り始めた。シュルルルと分かりやすい音を立てて溶け始める彼の腕。しかし藤兵衛は動じない。この男は動じない。

(ふむ。形は本物の動物に近いの。ここは胃袋の入り口辺りといったところじゃな。もう少し先を探ってみるかの)

 藤兵衛は転移術で胃液を吹き飛ばすと、迷い無く奥に向けて歩き始めた。一方シャーロットはぼんやりと天を仰ぎながらそれに続いた。

 奥に進めば進むほど、通路は複雑にまがりくねり、狭く細くなっていった。藤兵衛は慎重に、時にシャーロットの手を引っ張りながら、ただ前へ前へと進んだ。彼には確信があった。必ず彼が求める地点が存在していると。自分ならこの窮地を切り抜けることが出来ると。彼には迷いなどなかった。彼はいつもそうしてきたから。自分の才覚のみを信じて生きてきたから。

 やがて、彼らは少し広めの空間にたどり着いた。内壁が大きくカーブし、床に体液が溜まりを作っていた。

(……ここじゃな。ここしかあるまい)

 彼は先ほどと同じく溜まりに手を突っ込み、がさごそと何かを探し始めた。不思議そうに見守るシャーロットをよそに、しばらくしてから彼は小さく頷いて口元に笑みを浮かべた。

「どうかしたのですか、藤兵衛? 貴方の好きなお宝でもありましたか?」

「ホッホッホ。ある意味ではその通りじゃな。こいつを見てみい、シャルよ」

 藤兵衛は邪悪な笑みを浮かべつつ、溜まりからなにやら塊を取り出した。シャーロットが目を細めて覗き込むと、それは何かの動物らしき骨のようだった。

「これは……サスカッチの骨? セルシウスの餌になったのでしょうか? しかし妙ですね。闇の眷属に骨など残るはずがありません」

「確かに妙じゃが、問題はそこではないわ。この場所は食い物が溜まる場所、正確に言えばカスが引っかかる場所じゃ。此奴の体は、この辺に棲むギリアフォックスによう似とる。連中の皮は硬くての、切り取る時は柔い下腹部を裂くのじゃが、構造的に腸が近くてのう。間違って傷つけてえらい目にあったわ」

「……つまり、貴方の仮定ですと、この場所が一番脱出し易いと?」

 背後から聞こえるシャーロットの声に、藤兵衛は溶けかけた腕を取り出してにっこりと微笑んだ。

「そうじゃ。亜門にここを斬らせれば脱出出来ようて。彼奴なら儂の“伝言”に気付いてくれようぞ。こういう所が虫とは違うのじゃて」

 だが藤兵衛が振り返った時、すでにシャーロットはその場に倒れ込んでいた。彼女の顔に生気はなく、息荒くその場に突っ伏していた。藤兵衛は慌てて彼女を抱き抱えると、肩を揺らして必死に声を掛けた。

「シ、シャルや! 大丈夫か?! やはり無理しておったか。ええい、こんな場所でなくば、すぐに手当てが出来るものを……」

 彼の中で懸念はずっと存在していた。ここ数日、彼女の体調の悪化は目に見えて明らかであった。藤兵衛が肩を揺すると、シャーロットはすぐに意識を取り戻した。が、その顔色は絶望的な程に青白く、即座に消え入りそうな印象を彼に与えた。

「……すみません。寝てしまったのですね。これもかりんとうを食べていないせいでしょう。迷惑をかけて申し訳……」

「もうよい! 儂の前で無理などするでない! 大人しく寝ておれ!」

 彼女はほんの少しだけ沈黙に身を浸すと、大輪のような美しい笑み浮かべて、弱々しく彼に抱きついた。

「では、遠慮なく甘えて横になっております。いつもありがとう、藤兵衛」

「ホッホッホ。貸し一つじゃな。後で利子を付けて返すのじゃぞ」

 2人はその場に座り込ちみ、ぽつぽつと会話をしていた。やがて腸壁の匂いや寒さに耐えかねて、2人は抱き合うように1つになっていた。

「そこで儂は言ったのじゃ。『金が払えんのなら、内臓を売ってでも用意してもらうぞ』とな。連中、可哀想なくらい震え上がりおっての。あえなく金蛇屋の軍門に降りおったわ」

「ふふ。それで、へまをした茂吉さんはどうなったのですか?」

「当然減給じゃ! あのうつけめが! 儂が止めたにも関わらず女遊びにうつつを抜かし、阿呆共に付け入る隙を作りおってからに!」

「ふふ、それはお気の毒に。藤兵衛のお話は、いつもとても面白いですね。ここがお腹の中でなければよかったのに……。今度はゆっくり……2人で……」

「お、おいシャル! 気を確かに持つのじゃ! ええい、何故こんなにもいきなり……!? ま、まさか……此奴の体内には仕掛けがあると?!」

 思えば妙だった。飲み込まれるまでのシャーロットは、いくら何でもここまで消耗してはいなかった。彼女の体を常に守る『ベール』の術もいつしか解除されかかっており、透き通るほど白い肌が露わになりつつあった。この状況を見るに何か“されている”のは明白だった。

(くっ! こんなにも強大な“牢”とはの! しかし何故儂だけ平気なのじゃ? どうにも理に合わぬぞ。シャルだけに影響する術か? ……ええい、術の素人たる儂が考えても何も始まらぬ! どうにかして策を出さねば!)

 頭を高速で回転させる藤兵衛。しかし何一つ有効な手立ては浮かばない。思い出せ! 過去から学べ! 彼は回転不足な自分の脳を激しく叱咤し、必死で全ての情報をもう一度洗い直していた。

「藤……兵衛、そこに……いますか?」

 か細いシャーロットの声が耳に刺さった。藤兵衛は彼女の肩を抱き、優しく抱擁した。

「うむ。儂はここに居るわい。勿論じゃて。こんな状況なぞ屁でもないわ。今儂がとっておきの策で切り抜ける故、のんびり待つがよい」

「もう……無理です。これは……限定封印術。もう闇力が……せめて私の最期の……術。貴方の術を解除……必ず……私の命を振り絞っても……貴方を助け……」

「馬鹿を申せ! こんなところで死なせはせぬ! 儂は必ずお主を救うからの! これは“約束”じゃ!」

 力なく微笑むシャーロットの温度を感じながら、藤兵衛は考える。過去から学ぶ。今自分のやれることを全力で考える。いつも彼がそうしてきたように、蛇の如き執念としぶとさを胸に、内から湧き出る諦めや絶望を全力で踏み躙る。

(闇力が足りぬ……闇力を増やす……闇力を生む……そんな状況が、この旅が始まってからあったはずじゃ。よく考えい! ここが儂らの正念場ぞ! ………そ、そうじゃ! あの時じゃ! あの時儂は何をしたか? いや、何をしてもらったか? そしてあの時、深い山中で虫は如何にして窮地を脱したか? 答えは……“あれ”しかなかろうて。一か八かやるしかないの。この金蛇屋藤兵衛、一世一代の大博打じゃ!)

 藤兵衛は心の中で決意の叫びを上げると、シャーロットの細く弱り切った体を力一杯抱きしめた。そして細い顎を軽く持ち上げると、そのままおもむろに唇を押し当てた。彼女の冷たい唇の感触が藤兵衛の身体に伝わり、彼は眉間に皺を寄せて考え続けていた。

(あの時……シャルは儂や虫にこうして“力”を伝えた。恐らく原理は一緒じゃ。儂にはやり方は分からぬが、シャルならば儂の意は伝わるじゃろう。何とかして儂から力を吸えい! 諦めなど無能な凡夫がやることじゃ! シャル……生きよ! これ以上何も……誰も儂から奪うでない!)

 ドクン、と心臓が強く一度だけ鳴った。彼の動きに呼応するように、心臓の中心から何かが湧き出るのが感じられた。藤兵衛はそこにあるもの、望まずして与えられた一つの“概念”を思い出していた。

(こ、これは……例の胆石?! あのガラクタから力が?! ……ええい、この際何でもよいわ! おい、聞いておるか? 前も言うたが、儂の中に住むというのなら相応の家賃を払えい! 貴様の世界の道理は知らぬが、この金蛇屋藤兵衛の統べる世に無料という概念は存在せぬぞ!)

 瞬間、音を立てて開く扉。体内の全経路が倍ほどに開き、そこに高圧で迸る奔流。毛穴の一つ一つが焼けるようにひりつき、高速で焼け付く神経。そして、口腔に向けて一気に流れ出す、膨大な漆黒の波動。

「!!」

 巨大な闇力の塊は、そのままシャーロットの中に入り込むと、一瞬で彼女の体を暴力的に貫き、蹂躙し、浸透していった。彼女は藤兵衛の身体に爪を立てるほどに強く、きつくしがみつくと、やがて口を外して大きな声で叫んだ。普段の彼女からは想像もつかぬ獣のような声に、彼も思わず我に帰り息を荒げた。

「お、おいシャル! 大丈夫かの? 本当にうまくいったのじゃろうな?」

「……すごい」

 藤兵衛の肩越しに、息も絶え絶えにシャーロットは呟いた。瞬く間に彼女を包み込む漆黒の『ベール』、そして張り巡らされる高密度の闇の結界。その美しい顔には生気と力が満ち溢れていた。

「おお! 何と力強い術じゃ! どうやら上手くいったようじゃの。やれやれ、何とか生き延びたわい」

「ふふ。今の私なら龍でも倒せそうです。しかし……本当にすごかった。300年生きてきて1番の衝撃でした。お祖父様の言っていた通りです」

 そう言って艶っぽい表情で、藤兵衛の肩に顔を乗せるシャーロット。藤兵衛は複雑な顔でちらりとそれを見ると、キセルに火をつけて何処か気まずそうに煙を吐き出した。

「と、兎に角じゃ。安全は確保出来た故、後は外の連中に任せ、儂らはここで待機するとしようぞ。くれぐれも闇力の無駄遣いは禁物じゃ。よいな?」

「……はい。私は貴方に従います」

 嬉しそうに、何処か恥ずかしそうに頬を寄せるシャーロットを横目に見て、彼は大きく深くため息をついた。


 一方、雪原。

 上位眷属セルシウスは天空を舞いながら、人には理解出来ぬ狂気の咆哮を放ち続けていた。獣面の白き体表からは絶えず吹雪の波動を噴き出し、近寄る物は瞬時に氷漬けにされ、一路黄泉路へと誘われた。その身体は周囲の雪や大地を際限なく飲み込み、一刻一刻と巨大に膨れ上がっていった。

 そんな恐るべき眷属を前にしても、レイの闘志が萎えることは一切なかった。熱く滾る拳をパンと体の前で合わせ、ちらりと亜門に視線を送りつつ、レイは雪を巻き上げながら突進していった。近づけば近づくほど強大な圧を感じ眉をしかめるも、至近距離まで到達したレイはへっと一声呟いて、拳に溜め込んだ闘気を一気に放出した。

「ほんとでけえ狐だな。へっ。よく見りゃうまそうじゃねえか。とりあえず挨拶がわりだ。くらえ! 『滅閃』!!」

 敵の喉笛目掛け一直線に飛ぶレイの闘気。だがセルシウスは、30メートルに達した巨体を軽く揺らし、幾層にも成る吹雪の結界を展開した。轟音を立てて目の前で掻き消える攻撃を、彼は生気の籠らぬ澱んだ目で見つめていた。目を合わせているだけで魂が抜けそうになる、高密度で膨大な闇力を目の当たりにしても、レイは小さく舌打ちをしてすぐに再び闘気を込めた。

「んな目で見んじゃねえクソ狐! べつに恨みはねえが、お嬢様と……ついでにウチのパシリ1匹返してもらおうか! 『紫電』!!」

 溜め込んだ脚力から闘気を放ち、レイはセルシウスの頭部目掛けて一直線に突進した。対する妖狐は面倒そうに大きく息を吸い込むと、ため息をつくかのように吹雪を吐き出した。明らかな敵意、そして紅に染まる口内から吐き出される氷結の波動により、周囲の木々が一瞬で凍り付いていった。だがレイは、吹雪の中心に迷い無く突っ込みながら、不敵に微笑んでいた。

「ま、そりゃそうくるよな。『滅閃・穿』!!」

 レイは後ろ向きに拳を構えると、やや斜め下に向けて一気に闘気を放った。瞬時に膨大な加速度が生まれ、レイの身体は吹雪の中を突き抜けながら、敵の頭部に向けて一直線に突っ込んでいった。目も開けられぬ低温空間の中、一筋の閃光が高速でセルシウスの眉間を捉えた。

「ゴオロロロロ!!」

「へっ! どうだクソ野郎が!」

 レイの拳は敵の実体を捉え、確実にダメージを与えていた。だがその代償に拳は瞬時に凍り付き、魔性の凍気はやがて身体の自由すらも奪い取っていった。

(まじい! 殺られる!)

 身動き取れず雪原に落下していくレイに向けて、セルシウスは心底忌々しそうに吹雪の波動を吐き出した。凝縮された凍気は閃光と化し、レイの全身を粉々に吹き飛ばす未来は疑いようもなかった。だがその時!

「助太刀御免。高堂の技の真髄は、形なきものを両断することにござる。高堂流奥義『秘天返し』!!」

 レイの落下地点で待ち受ける亜門は、腰を落とした低い姿勢で構えると、吹雪に差し込むように斜め前方に突きを放った。切先に漲る闘気は冷気の渦を真っ二つに切り裂き、彼らを避けるように刀身に沿って後方に吹き抜けていった。

「わりい亜門! マジ助かったぜ! ちっと溶けるまで時間稼げるか?」

「は。防衛は問題ござりませぬ。ですが……未だ攻め筋は見えませぬな。このままでは物量に押し切られるだけかと」

 セルシウスは特段に亜門を意に介することもなく、濁った眼差しで彼らを見つめているだけだった。そこには自身の力への確信と、彼らを蔑む余裕の貌が見て取れた。

 そんな中、亜門は一歩ずつ歩みを進めていった。決して焦らず、呼吸を整えながら、ただ確実に前へと。やがてセルシウスの顔に微かな苛つきにも似た表情が見えた。その次の瞬間、まるでゴミを掃除するかのように振り払った右腕。凍気と怒気が込められた必殺の一撃が接近する中、亜門は横目でちらりとそれを捉えると、敢えて前へ深く飛び込んだ。

「高堂の刀の真髄は、狂を秘めし技の発露ぞ。『大業成すには死地の狭間を穿つのみ』。秋津の格言にござる。“ここ”と“そこ”は真に紙一重ぞ。高堂流『地擦り燕』!!」

 亜門は敵の巨大な鉄槌を数ミリ単位で回避し、地を這うほどの低い体勢から、抜き打ちの斬撃を足元に放った。衝撃音が背後で響く中、ぐらりとセルシウスの身体が揺れた。その隙を見逃さずに、彼は身軽に雪面を駆け上がると、セルシウスの首筋に一閃を放った。

「疾ッ!!」

 手応えは十分にあった。頚動脈を両断する独特の感触。絶叫する妖狐と飛び散る真っ黒な血潮。しかし……。

「ゴオオオオオオ!!」

 轟音とともに口から吐き出された闇の波動。瞬く間に塞がる傷、そして身体全体に浮かび上がる巨大な術式。

「な、何だあれは!? 魔女めの妖術と同じものにござるか!?」

「目障りナ蝿よ。やっとノことデ手ニ入れた『因子』、貴様ら二邪魔ハさせぬ。……『イエーロ・グランデ・クロス』!!」

(なんと! 人間の言葉を……!?)

 亜門が驚く暇もなく術式が発動し、天から降る無数の氷柱。千を超える量の氷槍が、彼を目掛けて一斉に降り注いだのだった。

「む! これはいかんでござる! 疾ッ!」

 亜門は刀を振り上げ必死に槍を叩き落とすが、次から次へと現れる凶刃が徐々に彼の肉体を引き裂いていった。やがてそのうち一本の氷槍が右肩を深々と貫き、彼は血反吐を吐きながらがくりと膝を付いた。そして、とどめとばかりにゆっくりと迫る数十本の氷槍。

(……誠に申し訳ありませぬ。全ては己の力不足にござる。……!?)

 その時、蹲る亜門の視界の片隅に光が見えた。セルシウスの下腹部付近に瞬くそれは、光というよりも炎であった。不自然な程に明るく輝く妖の火。そう、術による炎が何かを伝えるように発生していたのだ。

(ま、まさかこの意味は!? となると……何としてもレイ殿に伝えなければ……)

「ボケっとしてんじゃねえ! 『滅閃』!!」

 頭上からレイの怒声が響き、氷槍は瞬時に全弾まとめて消滅させられた。亜門は後方に蹴り飛ばされながらも、にっこりと快活に微笑んだ。

「はっはっは。助かりましたぞレイ殿。これで貸し借りは無しにござるな」

「へっ。くだらねえこと言ってんじゃねえぞ! 攻守交代だ! とりあえず捕まってろ!」

 そんな彼らを更に狙い、セルシウスは狂ったように吹雪の乱舞を吐き重ねた。だがレイは風を纏い雪原を駆け巡りながら、亜門を背負って華麗に避けつつ大きく距離を取った。敵が怒りで全身に闇を帯びていく中、レイは内側からどろりと闇の鼓動を呼び起こし、同じように心身を闇に染めていった。

「ったく……とんだ化け物だな。ありゃなんか“されてる”ぜ。フツーじゃねえよ。ま、それでもやるしかねえけどな。亜門、ちっと本気出すからてめえは下がってろ。さっさとツブさねえとお嬢様が危ねえ!」

「……レイ殿。己が気付いた、ある事実をお伝え申す。か細い理かもしれませぬが、1つだけ“兆し”が……」

 亜門は確信を込めた声で述べた。短い説明ではあったが、それはレイの顔に闘志を漲らせるのに十分過ぎる程だった。

「へっ。そうきやがるかよ。ま、あのクソがタダで死んでくわけねえな。マジでしぶとさと抜け目のなさだけは蛇並みだぜ。……つうかよ、てめえやれんだな? あのクソ商人は、品性下劣で生きてる価値もねえが、やるときだけはぜってえにやる。その手下のてめえはどうなんだ?」

「問答は不要。侍が語るのは常に背中のみにて。殿が示して頂いた“道”、必ずや切り開いて見せまする。レイ殿、どうか己を信じて下され」

「信じるもクソもねえバカ野郎! やらなきゃメシ抜きだかんな! 覚悟しとけ!」

「委細承知!」

 腕を合わせて微笑み合う2人の頭上から、再び氷槍が滝のように降り注いだ。レイと亜門は同時に散開すると、迸る闘気を胸に各々の作戦を遂行し始めた。暴威の嵐の中に自ら身を投じたレイは、へっと鼻を擦って1人呟いた。

「……ったくよ。いつもいつも……たいしたクソ野郎だぜ。こいやクソ狐! この俺がたっぷり遊んでやるぜ! ……『降魔・フェンリル』!!」


 一方、氷魔の胎内。

 強固な結界の中で2人は座り込み、その時が動くのを待っていた。藤兵衛は炎の術式を複数個同時に形成し、それを外部へ転移することで合図を送り続けていた。闇力を吸収されるこの空間内でも、彼の力は不思議と途切れることはなかった。彼は全く疲労を感じることはなく術を行使し、隣に侍るシャーロットは、来るべき時の為に静かに術を練り続けていた。

 しかし突然、火が消えた。藤兵衛は焦って何度も術を行使しようとしたが、どうやっても力が湧いてこない。

「……むう、打ち止めという奴かの。ふん! この胆石は不良品じゃな!」

 力を振り絞ろうと気張りながら、藤兵衛は忌々しそうに吐き捨てた。シャーロットはその言葉を聞くと、静かに額に手を当てて思考を深めた。

「恐らくは……少し違います。伝承によると『賢者の石』は、禁忌の術を封印した究極の術具。自ら選んだ持ち主に闇の力を与え、叡智と繁栄をもたらすのだとか。貴方の危機に闇力を差し出したのもその証左でしょう。ですが、伝承の大袈裟な部分を差し引いても、明らかに効果が少ないと思われます」

「やはり不良品ではないか! 斯様ながらくたを体に入れるなぞまっぴらじゃ! 直ぐに取り出せい!」

「いいえ。恐らくは……それは半身。最初に見た時から思っておりました。図鑑と大幅に形が異なっております。その石は完全なものではありません。どこかで分割されたのか、はたまた最初から分かれていたのかは不明ですが、確実に言えるのは、この石は全ての機能を果たしておりません」

 少しだけ間が空き、沈黙が流れた。藤兵衛は胸元からキセルを取り出して、片手で器用に火を付けた。悠然と煙を吐き出しながら、彼はふんと大きく唸った。

「まあよかろうて。不完全な状態であっても、今の所は十分過ぎるほど役に立っておるわい。儂らは実際、こいつのおかげで救われたようなものじゃからの。誰が何の為に作ったか知らぬが、取り敢えずは感謝してやるわい」

「ああ! 思い出してしまいました! 本当に……素晴らしい経験でした。あんな黒くて大きいものが私の中に……。お祖父様の言っていたことは本当でした。また溜まったら是非お願いします、藤兵衛」

「ひ、人聞きが悪いわ! 絶対に虫には言うでないぞ! それに……お主の祖父とやらは何なのじゃ! 黙って聞いておったが、ずば抜けた変態ではないか!」

「………」

(だ、駄目じゃ。全く聞いとらん。涎を流して放心しておるわ。これだから狂人の相手は疲れるわい)

 2人の時間はゆっくりと流れていった。極めて劣悪な環境下で、そして極めて短い時間ではあったが、彼らは2人だけの親密な空間の中にいた。シャーロットは大輪の花のように美しく笑い、藤兵衛も僅かに微笑んでそれに応えた。お互いの体温を肌で感じ会うことができた。そして、突如として起こる大きな揺れ。

「おお! 外で戦っておるようじゃな。動きからして……恐らくは虫じゃな。まったく粗暴で品のない銀蠅じゃて」

「……ねえ、藤兵衛。一つだけお聞きしたいことがあります。宜しいですか?」

 真剣な表情を息の当たる距離まで近付けて、透き通るほどに白い肌を僅かに紅潮させて、意を決したようにシャーロットは尋ねた。その迫力に不穏な気配を感じ、藤兵衛は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「な、何じゃ。今更改めおって。好きに聞けばよかろうが」

「はい。では遠慮なく。私は……藤兵衛のことが好きです。貴方は、私のことをどう思いますか?」

 時間が止まった。大きな目に明確な意思を込め、潤んだ瞳はただ藤兵衛だけを捉えていた。一方で彼は、静止した時の中で必死に頭脳を回転させ、結果として選んだ答えは逃避だった。彼は大きく弾けるように笑うと、わざとらしく何度も煙を吐き出した。

「グワッハッハッハ! じ、冗談も程々にせい。こんな化け物の腸の中で、ちと遊びが過ぎるわい。儂をからかって遊んでおるのじゃろう? 分かり切っておるわ」

「冗談ではありません。私は……」

「おっと! また揺れたわ! 大丈夫かシャル?!」

 そう言って反射的にシャーロットを抱きかかえる藤兵衛。頬を赤らめる彼女のから目を逸らすも、密着した胸元には確かな温もりがあった。

「何にせよ話は後じゃ。今は斯様な事を話す時間ではなかろうて。旅が終わったら、その時改めて聞くわい。それでよいな?」

「……いいえ。私の唇を奪っておいて、初めてを奪っておいて。……ひどいです!」

「だ、だからじゃな! その言い方は誤解が……」

 その時、一際大きく部屋が揺れ動いた。来たるべき時に備え、2人は無言で力を蓄える。戦いの終幕は近い。2人は飲み込んだ言葉を喉元に感じながら、最後の力を手の中に包み込んだ。


 闘士レイvs氷魔セルシウス。その戦いは人知を超えた領域に到達しつつあった。

 風を纏い降りしきる氷槍を回避しながら、レイの全身は闇の異形に包まれ、やがて四足獣の如く変化していった。激しい闘気を撒き散らし、巨大な妖狐に向かう1匹の獣。向かい合う獣達は、破壊と漆黒の炎で自らを焼いているようにすら見えた。

「へっ。俺がこうなったら終わりだ。てめえのクソ攻撃なんざ通用しねえと思え!」

 無論、先に動いたのはレイだった。只でさえ素早い動きが更に洗練され、風と同化しながら止まることなく全ての攻撃を避け続け、セルシウスを完全に翻弄していた。その神速とも呼び得る領域には、亜門ですら目で追うのがやっとで、信じられぬとばかりにぽかんと口を開けていた。

「こ、これがレイ殿の本気にござるか! 俄かには信じられぬ! 正に風そのものではありませぬか!」

 その思いはセルシウスも同じだった。どうあっても当たらない攻撃に苛つきを隠せず、妖狐は吹雪と氷柱を暴風のように振り撒いていた。だがそれすらも全く掠りもせず易々と敵の胸元へと滑り込んだレイは、氷雪の息吹を纏い銀色に輝きながら、咆哮に近い叫びを上げて闘気を炸裂させた。

「いいかげんてめえにゃムカついてんだ! とりあえず食らっとけ! 『蓮花』!!」

 衝撃波が走るほどの強烈な3連撃がセルシウスの正中線に炸裂し、爆風のような轟音が辺りに響き渡った。肉を貫き臓腑までをも破壊する連撃は、ぐらりと巨体を揺れ動かせたものの、妖狐はすぐに目を見開き爪牙を振りかざしてレイに飛びかかった。

「へっ。風遊びじゃ俺に分があったみてえだな。次はじゃれ合いか。付き合ってやるぜ!  『百鬼・風狼』!!」

 山崩れにも匹敵する強大な攻撃をするりとかわし、レイの破壊の一撃が胴に深々とめり込んだ。再び巨体がぐらりと崩れ、レイはそこを逃さず全闘気を振り絞って畳み掛けた。まるで敵の全身を繭で包むかのように舞いながら、全方向から膨大な連撃を見舞っていく。降魔の力を完全に使い熟し、凍結される間も無く神速で撃ち抜かれる拳。狂獣の無限の連打は、氷狐の分厚い毛皮すらも容易く粉砕していき、やがて耐えかねたセルシウスは地獄のような苦悶の息を上げた。

「オノレ……木偶ノ分際デ! 眷属ノ裏切り者ガ!!」

「は! 裏切ったのはどっちだかな。あいにくよ、こちとらてめえみてえなゴミと問答してるヒマはねえんだ。さっさとくたばれや!」

「偉大なる力……我は異なル……世界を統べシはあの御方……『イエーロ・ウルティマ』!!」

「甘えんだクソ狐! 『滅閃・風狼』!!」

 セルシウスは一際大きく輝きを放ち、自らの巨体ほどの複雑な術式を形作った。しかしレイの動きはそれよりも遥かに早く、拳から放たれた衝撃波が構成途中の術式を粉々に粉砕した。不安定になった闇力はその場で爆発し、妖狐の身体を吹き飛ばした。

「掛かったナ……知恵の足りヌ人形……『テイルファング』!!]

「!!」

 だがそれは敵の罠、レイの行動を読んだ捨て身の一撃。全身を焼かれ飛ばされながらも、セルシウスは小山程もある尾を自ら切り離し、レイに向けて投げ付けた。攻撃の隙を突かれ、回避が間に合わずそのまま吹き飛ばされるレイ。雪山に突き刺さり身動きもしない敵を確認すると、氷狐は受けた多大な傷を再生しながら高らかに勝利の咆哮を上げ、笑みに似た邪悪な表情を浮かべて、一歩ずつ雪原を踏み越えて乗り越えていった。ただレイを食らうべく牙を鳴らし、足元に潜む危険に気付くこともなく。

「……おい、こんなもんだろ? ウカツなアホがそこまできてんぞ。準備できてるなら早くしろや。いい加減死んじまうぜ」

「まったく……誠にせっかちな方にござるよ。己は万端でありますゆえ、暫し待たれよ」

 小さな声、合図。セルシウスの注意が完全にレイに向かう中、闘気練り上げる1人の侍あり。魂凍るほどの雪中にて、身じろぎ一つせず潜んでいた高堂亜門は、幾度も呼吸を整えて一点を注視し続けた。

「秋津の格言に『いつ如何なる時も絶好たる機会は一瞬』とあり申す。この機を逃せば、泥中を生き抜いてきた意味などありはせぬ! これが己の渾身にして、運命に対する覚悟の一撃にござる! 高堂流奥義『炎凸戦弓』!」

 突如として雪の中より放たれた刃、練り上げられた技と完璧なる呼吸が織りなす全霊の突き。狙い澄ました刃は“合図”の炎を纏い、セルシウスの下腹部に激しい音を立てて突き刺さった。一瞬の沈黙、その後真っ二つに裂ける凍狐の下腹部。だが完全には切断出来ず、僅かに体液を撒き散らし暴れ回る彼の眼前に現れたのは、風を纏い不敵に笑うもう1匹の獣だった。

「はて。狙いは合えども大き過ぎましたな。レイ殿、お手数ですが後詰めをお願いしとうござる」

「へっ。やるじゃねえか亜門。あとは俺にまかせな! 『滅閃・包』!!」

「グ、ゴオオオオオオオオ!!」

 レイの放った内部破壊の闘気は、セルシウスの心臓部に直接ダメージを与え、口と下腹部から大量に吐血させた。絶叫と共に爆発したかのように吹き飛ぶ巨大な体躯、そして傷口から勢いよく飛び出す2つの人影。

「行くぞ、シャルや! 時は満ちたわい!」

「……何も満ちてなどいません。話をはぐらかされて、私はとても頭に来ています」

 シャーロットは頰を膨らませたまま、凄まじい数の術式を同時に発動した。藤兵衛は小さくため息をつくと、彼女を抱き抱えて雪の中にどすりと降り立った。セルシウスは全身の痛みに荒れ狂い、自棄になったように四方八方に巨大な氷槍を飛ばした。その内1本が、凍傷で身動き取れぬ亜門目掛けて飛んでいった。

(いかん! 身体が動かんでござる!)

「ホッホッホ。出来物の臣を守るは長たる者の責務ぞ。儂に感謝して平伏するがよい。『転移』!!」

 藤兵衛の掛け声と共に複雑な術式が形成され、一瞬で亜門の眼前に空間の裂け目が生まれた。氷槍はそこに吸い込まれ消滅したと思いきや、次の瞬間には遥か上空から突如として出現し、セルシウスの首元に深々と突き刺さった。

「ゴオオオオオオオオ!!」

「殿! 忝のうござる! 助かりましたぞ」

「ぐああ! 寒い! やはり外は寒いわ! 何たる雪じゃ!」

「うるせえ! ずっと戦ってるこっちの身にもなれや! お嬢様、ご無事ですか?」

「無事ではありません。すべて……あのセルシウスのせいです。私は本当に怒っています。退きなさい、レイ。この恨み……とっておきの禁術で晴らします」

 強大な術式を次々に形成するシャーロットの迫力に、レイは青ざめて言われた通りに一歩退いた。彼女らの姿と、遠方で快活に笑う亜門を交互に見て、藤兵衛は愉快そうに口角を上げた。彼は、雪の中に仄かに映る自らの想いに恐々と手を伸ばし、ほんの一瞬だけ内なる海の中に身を浸した。

(儂は……果たして正しい方向に進んでいるのかの?)

 その言葉はどこへも発散することなく、海蘊となり沈んでいった。しかし確かに存在した思い、氷原の縁に浮かぶ自らの欠片は、彼にとって久方振りに味わうものに相違なかった。

(まあよいわ。考えても無駄じゃ。一銭にもならぬ。何がどうあれ、儂は儂じゃて。儂は大陸一の大商人、金蛇屋藤兵衛じゃ。それ以上でも以下でもない。この世界の富を喰らい尽くす旅はまだ終わっとらんわ)

 瞬く間に心は晴れ、一筋の光が射したように思えた。例えそれが儚い幻や一種の暗示であったとしても、今の彼にとっては十分だった。本来の自分自身と、過去と、未来にさえも向き合えず、逃げ入るばかりの今の彼にとっては。

「……ゴロロロロ! シャーロット……必ずやここデ……我が主に……」

「ふん! 詰めの甘い虫めが。化け狐が未だ息をしておるではないか。『ノヅチ・大蛇』!!」

 藤兵衛は深呼吸を一つし、心臓の『賢者の石』から残りの闇力を掻き集めた。時間をかけて膨れ上がった闇が、右腕を通じて銃口に伝わり、呪詛の言葉を吐く禍々しき氷狐に向けて、今までにない巨大な一撃を放った。その一撃は空中で多重螺旋の軌道を描き、攻撃態勢に入るセルシウスの右腕を粉々に吹き飛ばしたのだった。

「おお! 流石は殿にござる! 何という苛烈な一撃か!」

「儂を食らうとはよい度胸じゃが、生憎、儂は不死身の蛇と呼ばれる男での。お陰様で絶好調じゃ。あの世で後悔するとよいわ」

「『賢者の石』ガ、人間ニ!? ば、馬鹿ナ! となるト主の読ミハ……」

 天候は豪雪、夜はまだ空けず、敵はまだ健在。しかし藤兵衛は、仄かに見える道筋と、手の中に確かに存在する彼女のぬくもりをそっと交わらせ、悠然とキセルをふかしながら大きく笑った。

「ガッハッハッハッハ! 貴様には分かるまいて。儂の名は金蛇屋藤兵衛。この世の富を全て喰らい尽くす男ぞ。今じゃシャル! 止めを刺せい!」

「氷雪の支配者セルシウスよ。貴方が何を命ぜられ、何を考えてここはいるかは知りませんが、私たちに牙を剥くならば容赦は出来ません」

「……シャーロット。貴様さえたエ居なけれバ……貴様さエ生まれテ来なけれバ……この裏切り者メ! 貴様のせいデ俺は……」

「何とでもお言いなさい。どちらにせよ貴方を許すことはできません。私の仲間を傷付けた眷属に死を与える、それが私の使命でもあります。このまま煉獄へ向かいなさい。……禁術『エルプシオーン』!!」

 シャーロットの言葉が終わると同時に、巨大で立体的な術式が轟音を立てて崩れ落ちた。そして次の瞬間、巻き起こる地脈の胎動。大地が叫び声を上げて捲れ上がり、幾重にも津波の如く押し寄せて、みるみるセルシウスを飲み込んでいった。

「無事か、亜門? 早く逃げるぞ。あんなものに飲まれては、儂らとてひとたまりもないわ!」

「ぎ、御意にござる。(あの力……幾らなんでも危険過ぎるでござる。もしものことがあらば、やはり消さねばなりませぬ)」

「何をもたついておるか! ……む?! お主、大怪我をしておるではないか。儂の肩に掴まれい」

「そ、それは幾ら何でも申し訳ありませぬ! 己の為に殿に万が一あらば、どうお詫びしてよいか……」

「喧しいわ! お主が死なば儂は大損ぞ! 儂は損だけは大嫌いなのじゃ! いいからさっさと掴まれい」

 そう言って藤兵衛は、躊躇う亜門を抱えて駆け抜けようとした。だが疲弊した彼の体力ではまともに動く事も出来ず、威勢に反してその場にへたり込んでしまった。その時、彼らの足元の大地が絶望的な音を立てて裂け始めた。

「い、いかんでござる殿! もう己のことは放っておいて下され! この亜門、一生の頼みにござりまする!」

「ふん! 儂に頼みなど片腹痛いわ。お主は世を舐めすぎじゃて。人間1人の力なぞたかが知れておるわい。その点儂ならば……自分が何も出来ぬと知る儂ならば、迷わずこうするわい」

 全く動じることなく、悠然とキセルをふかしながら、藤兵衛は指をパチンと鳴らした。と同時に、彼らを背後から掴む太い腕。彼らの姿は風の中に飲み込まれ、亜門はただ呆然と成り行きを見守っていた。

「ふん。遅いではないか。もっと早う助けぬか。死ぬかと思ったわい」

「うるせえクソが! エラそうにぬかすんじゃねえ!」

「……」

 亜門は何も言わなかった。言えなかった。つまりは、こういうことなのだ。自分に欠けているもの、それはつまり……。

「てめえなにボサっとしてやがる! よく見とけ! あれが……マジになったお嬢様の力だ。てめえの気持ちはわかるぜ。だが、あの方がやるとなれば……ああなる。人間が生き残ることは不可能だ。俺の言ってる意味、わかんだろ?」

 周囲の環境を猛烈に変化させながら、大地のうねりに飲み込まれていくセルシウス。必死に抵抗するも全く意味を成さず、絶望と憎悪を剥き出しにして、氷孤は最後に呪いの叫びをぶつけた。

「シャーロット=ハイドウォーク……いずレ貴様ハ必ズ……貴様ノやっている事ハ……」

「さようなら、セルシウス。せめて冥土では安らかに。私は進みます。進まねばなりません」

 その言葉を最後に、完全に地割れに飲み込まれていくセルシウス。地割れと礫音の重なる中、沸き起こる溶岩の塊。地熱が凝縮された力の塊が、とどめとばかりに彼の肉体を穿ち、瞬く間に融解し塵と化していった。

(これが……魔女の力。これが……真の闇の力。ならばあの時、己の見たものは……)

 亜門の思いと触れ合うように、朝がゆっくりと明けていった。彼はレイに抱きかかえられながら、ぼんやりと1日の始まりと終わりを見つめていた。


 闘いが終わり、平穏な朝がやって来た。

 亜門は怪我をした身体を休めるため、車内でしっかり休むようレイに指示されていた。ぶつぶつと文句を言う藤兵衛、それを蹴り飛ばすレイ、すやすやと寝息を立てるシャーロット。いつもの光景、いつもの情景。

 そんな中で亜門は1人考えに耽る。日課の瞑想の姿勢を取りながら、ひたすらに思考の海に浸る。

(実に凄まじい闘いでござった。あのような妖がこの世に存在するとは、先日まで夢にも思っておりませんでした。そして何より……あの妖術。魔女の力は計り知れぬものでござった。殿が研究せんとする気持ち、己にもやっと理解でき申した。やはり……あの日の“力”は斯の魔女のものではない。己の結論にござる。あれはもっと禍々しき漆黒の炎、そして刃。つまり……いや、ですが……)

「おいてめえ! なにこんなもん作ってんだ! やけに塩が少ねえと思ってたら、くっだらねえもん作りやがって! 食いモンで遊ぶんじゃねえ!」

「下らんとは何じゃ! 捨てる筈の内臓を再利用しておるだけじゃろうが! 貴様の如き田舎者には分からんじゃろうが、これは塩辛と言っての。秋津国では定番のツマミで、一杯やるのに最高なのじゃて」

 外から藤兵衛とレイの言い争いが飛び込んで来る、いつも通りの朝。亜門はふと笑みがこぼれている自身に気付き、慌てて瞑想に戻った。

「あ? たかが塩漬けだろ。どれ、ちっとよこせや。……お! なかなかいけるじゃねえか。麹で発酵させたんだな。そうすっと……柚子かなんか入れるともっと……おい、もうちっと食わせろや」

「勝手に食うでないわ! 儂と亜門の共同開発じゃぞ。……ああ、だいぶ減っておるではないか! 貴様に食わせる位なら野犬にでもくれてやった方がまだましじゃわい!」

「うるせえ!!」

「グォポ!!」

 2人の会話に気を取られて、亜門は隣に侍るシャーロットの存在に暫く気が付かなかった。肩をつんうんと指差され、驚き大赤面し、ひっくり返りそうになる彼に、シャーロットは優しく美しく微笑みかけた。

「今日はお手柄だそうでしたね。私も藤兵衛も貴方のお陰で助かりました。心から礼を言います。ありがとう、亜門」

「ふん。貴様に礼を言われる筋合いなどないわ。己が勝手にやっただけにて」

「ふふ。それでもいいのです。ところで傷の具合はいかがですか?」

「仔細ない。秋津の侍にとって、これくらいは日常茶飯よ。……そ、そ、そ、そなたこそ……ぶ、ぶ、ぶ、無事か?」

 その言葉を聞くと、シャーロットは更に美しく微笑んだ。亜門は赤を通り越してどす黒く顔を変色させて、くるりとそっぽを向いた。

「私は無事です。月周りこそ不利でしたが、藤兵衛が守ってくれましたから。心配をかけて申し訳ありません」

「心配なぞするものか。そもそもな、あのような力があるなら最初から使えばよいではないか。出し惜しみとは感心せんでござる」

 語気をやや荒げて、亜門は突き放すように言った。シャーロットは少しだけ寂しそうな顔に変わり、申し訳なさそうにぽつりと呟いた。

「……そう出来ればよいのですが、私の力は衰えています。今回は特別として、今の私では満月の夜にしか本来の力を出すことが出来ません。ですから、私には皆様の力が必要なのです。世界の平和のためには貴方の力も必要なのですよ、亜門」

「ふん。世界平和とは大きく出たものだな。とても正気とは思えぬ。殿のお気持ちが察せられよう」

「ええ。ですが真実です。世界は終わろうとしています。一部の人間の欲望によって。私は戦わなければなりません。どうか……どうか私にお力をお貸し下さい」

 深々と頭を下げてシャーロットは言った。亜門は腕組みをして暫し考え込むも、突然がばりと跳ね起きて目にも留まらぬ動きで刀を抜き打った。白刃はぴたりと彼女の眼前で止まり、瞬き1つせずに見つめる彼女の姿を見て、ほんの少しだけ亜門は微笑んだ。

「もうよい。貴様が嘘を付ける者ではないと言うことだけは、己もよく理解できたでござる。だが、其方が悪しき存在だと判断したならば、疑惑が確信に変わった瞬間に、己の刃が必ずや首筋に突き刺さろう。それでもよいのならば……旅とやらに付き合ってやらんこともないでござる」

「はい! では私たちは晴れて仲間ですね。これからもよろしくお願いします、亜門」

 シャーロットは満面の笑みを浮かべて亜門の手を取った。頭から蒸気を噴き出しながら、彼は思わず振り払おうとしたが、きつく握られた手から伝わる温度がそれをさせなかった。

(まったく……己も焼きが回ったものでござるな)

 素直に飛び跳ね喜ぶシャーロットを見て、亜門はふっと微笑んだ。背後からは終わらぬ藤兵衛とレイの口喧嘩。終わらぬ眩しい朝日だけが、彼らの姿を絵画のように映し出していた。

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