第14話「侍」

 雪とは不思議なものだ。

 深く深く降り積もる内に、人の心の奥底にまで入り込んでしまうような、そんな不思議な魔力がある。足元に凍みる冷たさは旅人の心を少しずつ侵食していき、そっと音を連れ去り、やがて人の意識までをも奪い取る。旅人は顔を上げようとする。しかし風の強さ、冷たさ、雪がもたらす苛烈さが旅人の視界を奪う。やがて旅人は疲れ果て、意志に反して雪の中で足を止める。そして、温もりがやってくる。


 そんな降りしきる雪の中で、戦い続ける者たちがいた。

 藤兵衛とレイ、夜から続く2人の戦いは、間も無く終わりを迎えようとしていた。雪の中から湧いて出た毛むくじゃらの眷属に、レイの拳と藤兵衛の螺旋の波動が同時に叩き込まれた。残ったのは雪に吸われた静寂、ようやく息を深く吐き出す2人。

「……ふう。これで最後だな。こいつが噂に聞くサスカッチか。なんだか妙な感じだぜ」

「何じゃ、貴様も知らんのか。どうもセイリュウ国とは勝手が異なるの。じゃが今は早々に火に当たりたいわい。寒くて死にそうじゃて」

「うっせえなぁ。死にゃしねえだろが。そろそろ朝だからガマンしろよ。つーか、てめえ雪国生まれなんだろ? こんくれえの寒さで音を上げてどうすんだ」

 呆れたようにレイは吐き捨てたが、藤兵衛はガクガク震えながら炎の術式『マグナ』を何度も発動し、周囲の枯れ木に火を灯し始めた。

「そんなのもう何十年も前の話じゃ! 貴様のような野人には理解出来ぬ話じゃて!」

「うるせえ! 俺だって寒いんだ!」

「グェポ!!」

 雪に包まれた国においても、旅における2人の役割は変わらなかった。夜の間シャーロットを守り、旅をし、また彼女を守る。敵は彼女らの動きを把握しているのか、はたまた全く別の手段なのか、完全に夜の闇に紛れ襲い掛かってきた。特に今日のように彼女の体調が万全でない日は、藤兵衛たちの負担は絶大であった。

「おい、クソ商人。さっさと食料を集めてこいや。それに薪だ。お嬢様を温めねえとよ」

「また儂か?! この寒い中、儂一人に外仕事を押し付けようと? たまには貴様も手伝えい!」

「人手が足りねえんだからしかたねえだろ! てめえじゃ料理も、お嬢様のお世話もムリだろうが! あんなに熱で苦しんでらっしゃるんだぞ」

「あれだけ雪の中ではしゃげば風邪の一つも引くわ! しかもほぼ全裸で! まったく仕方のない女じゃて」

「てめえ! いやらしい目でお嬢様を見てんじゃ……あ?」

 その時、微かな違和感がレイの背筋に走った。何かが、何か不自然な出来事が起こる、何らかの悪意が降り注がれんとする、そんな予感。レイは本能の赴くままに足を動かし、一足飛びに近くの木の上に飛び乗った。そして次の瞬間、激しい音とともに藤兵衛の上半身は斜めに切り裂かれた。

「ゴオオオ!(い、一体何事じゃ?!)」

「お、おい! 無事かクソ商人?! てめえ……なにモンだ?」

 舞い散る鮮血を背景に、男が1人立っていた。年齢は20歳を過ぎた程度であろうか。一際目を引く長身と、その内に秘められし鍛え上げられた体格が印象的な男だった。ひどくくたびれた青色の装束を乱れなく纏い、腰まで伸びる黒髪を高い箇所で一つに括り、やつれきり無精髭にまみれた顔の中で、鋭い眼の奥には狂気にも似た輝きが宿っていた。彼は片刃の反り返った刀を上段に構え、鬼神の如き殺気をレイに向けていた。

「……ほう。あれを避けるでござるか。流石は忌まわしき魔女の手先、尋常ではござらぬな」

 視線をレイから外すことなく、男は片目でちらりと倒れ込む藤兵衛に目をやり、申し訳なさそうに微かに頭を下げた。

「てめえ……うちのモンになにしやがる! つうかよ、てめえお嬢様を知ってんのか!」

「そこの御方の急所は外してあるでござる。魔女の仲間とはいえ、秋津国の侍は武人以外を斬り申さぬ。己の狙いは……闇を統べる魔女の命のみ! もし邪魔立てするならば容赦なく叩っ斬ってくれようぞ!」

 一気に緊迫が高まる状況の中で、レイは深く息を吸って瞬時に呼吸を整えた。目の前の男の明確な殺意に対抗するため、肌で伝わる紛れもない強敵の襲来からシャーロットを守るために。

「疾ッ!!」

 男の放った踏み込みの斬撃は、レイの乗る大木をバターのように容易く切り裂いた。レイは反射的に地面へと飛び移ったが、それを見越し更に前へと踏み込む男。目的の為ならばいかなる危険も顧みず、己の命すらも喜んで捨てる。秋津国の侍とはそういう存在であった。そしてその凶刃が今まさに振り下ろされんという時、レイは自ら刀の範囲内に突っ込んでいった。

「あめえ!」

「くっ!」

 このままでは避けられぬと悟ったレイは、逆に深く雪の中に身を沈め刃をやり過ごすと同時に、刈り取るような鋭い水面蹴りを男の足元に見舞った。だがレイは、もんどり打って倒れる彼に追撃する事なく、本能で危険を感じ取り注意深く距離を取った。

(何をしておる虫めが! 絶好の機会ではないか!)

 必死で傷を再生させながら、心中で毒付く藤兵衛。だが、彼の及び知らぬところで、既に激しい攻防が繰り広げられていた。向き合う2人の互いの胸部には傷跡。先の攻防の最中、一瞬の隙を突いた両者は、目にも留まらぬ攻撃を交差させていた。

(へえ。やりやがる。かなりの腕だな。殺さずにやりすごすのは骨が折れんぜ)

(何という使い手か! 流石は忌まわしき魔女の狗……想像以上にござる)

 レイは気づいていた。この男と正面からやりあうことの危険性を。だがそれは向こうも同じ。男は短い呼吸をしながら、深く腰を落として刀を鞘に仕舞った。両手は鞘に添えられ、その姿からは噴火寸前の活火山のような重厚な迫力が感じられた。

(む? あの構えはもしや……加えて、鞘に描かれた特徴的な龍の紋様……とすれば、奴めはやはり……)

(まいったぜ。あの人間……最初から覚悟決めてやがる。自分がどれだけ損傷しようが、俺を確実に殺るつもりだ。マジでまともじゃねえぜ。『降魔』すりゃ敵じゃねえが、そしたらあいつを殺しちまう。なにより今はお嬢様がこの状態だ。俺が動けなくなるのはまじい。ったく、メンドーな状況だぜ)

 レイは小さく舌打ちをして、脇に転がったままの藤兵衛の顔をちらりと見た。すぐに何かを察し、僅かに上下した彼の顔を見て、レイは意を決して腰を落とした。側から見ると同じ構えを取る両者は、ひりひりとした緊迫の色を深めていった。時間だけが流れて行き、空気が熱を孕んで空間が揺れた。そして無限にも近く感じられる濃密な時間の後、レイの背後の松の木から、雪の塊がぼとりと落ちた。それを合図に両者は同時に気を吐いた。

「ジャマだアホが! 『滅閃』!!」

「問答無用! 高堂流『地擦り燕』!!」

 地鳴りの如き闘気が彼らの体から発せられた。レイの拳から放たれた力の波動は、一直線に地を這い男の体を捉えた……かに見えた。だがその時既に、男の姿はそこになかった。彼は地を這う鳥のように、低く鋭く地面すれすれを這い進むと、動きに合わせ振り子のようにレイの身体を下段から打ち抜いた。鮮血が飛び散り、両断されるレイの左腕。そして刀の切っ先はそのまま胸まで突き刺さり、その瞬間に男は勝利を確信した。

(仕様も無し。偉大な戦士であるが、魔女の手下とあらば死あるのみにて。安らかに黄泉路へ向かうがよかろう)

 だが、レイは彼の目の前で不敵に微笑むのみだった。この偉大なる闘士は、切り刻まれ血塗れになりながら、まるで男を見下すような視線を向けていた。

(……見下す? いつの間に己が下に? これは……まさか……)

 その思考を最後に、彼の意識はぷつりと途絶えた。血だまりの中に彼の身体は落ち込み、そこへとどめとばかりにレイが思い切り顎を蹴り上げた。

「おい虫! 何をしておるのじゃ! 折角良き位置に当ててやったというに、これでは死んでしまうではないか」

 何とか再生を終えた藤兵衛が、慌てて2人に駆け寄り激しく抗議した。レイはへっと息を吐くと、地に落ちた左腕を蹴り上げてひょいと身体に付けた。

「いい切り口だ。これならすぐ付きそうだぜ。てめえにしちゃ察しがいいじゃねえか。最小限で撃った『滅閃』を、完璧に急所まで『転移』してくれてよ。おかげでなんとか生け捕りにできたぜ」

「ふん。貴様の如き下等生物の考えなぞ、儂には全てお見通しじゃて。ところで……此奴をどうするのじゃ?」

「どうするもこうするも、とりあえず意識が戻るまで待つしかねえだろ。聞きてえことが山ほどあるしな」

 レイは男から2本の刀を奪い取り山小屋に放り投げると、荒縄を取り出し肉に食い込むほどの力で男に巻きつけた。縛られた箇所から血が滲み骨が軋む様を見て、藤兵衛はキセルをふかしながら不機嫌そうに抗議した。

「おい! 先も申したであろう。そんな事をしたら死んでしまうぞ。儂はな……」

「あーあー、わかってんよ。金になんねえから殺しはしねえ、ってんだろ。なんども聞いたよ。心配しねえでも、こいつはそう簡単に死ぬタマじゃねえ。はっきり言ってよ……こいつの強さは人間の域を軽く超えてんぜ」

「確かにの。秋津の侍は化け物揃いじゃが、此奴はその中でも別格じゃ。手加減していたといえ、貴様にあれ程喰らい付くとはの。実に危険極まりない男じゃて。しかし何故儂らを……シャルを狙うのじゃ? 全く意味が分からぬわい」

「俺が知るか! こんな奴見たことも聞いたこともねえよ! とりあえず俺がこいつ見張ってっから、なんとかして食料を調達してこいや。まだお嬢様には言うんじゃねえぞ」

「……むう。不本意じゃが仕方あるまい。万が一此奴が暴れ出したら、貴様以外にはどうにも出来んからのう」

 藤兵衛は渋々承知すると、何度も振り返りながら森の中に向けて歩いて行った。レイは男を監視できる位置に座り込み、視線を逸らすことなく出来る範囲で料理や家事をこなしていった。

「ったく、マジめんどうだぜ。ここんとこクソなことばっかり続きやがる」

 レイの言葉を裏付けるかのように、不吉な気配のする風が一陣、彼らの間を吹き抜けていった。


 その日の夜。

 山小屋には暖炉の前に座り込み暖をとる藤兵衛と、死んだように眠り続けるシャーロットの姿があった。雪は一層強く降り続き、極寒の冷気が音を立てて迫っていた。

「これは……暫し旅は中断じゃな。危険が過ぎるわい」

 彼の独り言だけが部屋の中で響いていた。熱でうなされるシャーロットの額に濡れ布巾を乗せ、藤兵衛は俯きがちにキセルに火を付けた。

 その時、バタンと激しいドアの開閉の音。明らかに苛ついた顔を隠そうともしないレイに、藤兵衛は煙を吐き出しながら話しかけた。

「その様子じゃと……やはり駄目か?」

「ぜんぜんだ。なんも話そうとしねえよ。口を開けば『殺せ』とだけだ」

 大きく舌打ちをして、レイは乱雑にその場にしゃがみ込んだ。藤兵衛も椅子に深く座り込むと、深々と腕を組んで考え込んだ。

「彼奴が何者かは不明、動機も全くの不明。これでは手の打ちようがないの。かつてシャルが恨みを買った可能性はないか?」

「あるわけねえ。お屋敷を出てから俺はずっと一緒だからな。出る前は……詳しくは言えねえが、絶対に不可能と断言できる。とにかくだ、お嬢様とあいつの間に接点は存在しねえ。まちがいねえよ」

「彼奴は筋金入りの軍人じゃ。しかもよりにもよって、侍と呼ばれる秋津国の狂人ぞ。力尽くで口を割らせるのは絶対に不可能じゃな」

「ちげえねえ。さっきも隙を見て舌を噛み切ろうとしやがったよ。お嬢様がお元気なら、術で口を割らせることもできたろうに」

 レイは小さく息を吐いて、寝入るシャーロットの顔を心から心配そうに眺めた。藤兵衛はふむと一声深く飲み込むと、意を決したように立ち上がった。

「兎に角じゃ、儂らの取るべき道は3つあろう。まず第1案、密かに奴をこの場で抹殺する」

「却下だ。お嬢様に気付かれる。そしたらあの方は絶対に許してはくれねえ。てめえの信念にも反するんだろ?」

「では第2案じゃ。奴を相応に痛め付けた上で解放する」

「わるくはねえ。だが奴に恨みが残る以上、いずれ必ず再び危険が訪れる。寝込みを襲われたら手に負えねえ。これも却下だ」

「ならば第3案。奴を手懐け、説得する」

「まあそれだな。最初からそのつもりだろうがよ。だがやれんのはてめえだけだ。なにか策はあんのか?」

「ほんの僅かじゃが、糸の先の如き理は存在しておる。何にせよやるしかあるまいて。このまま狂人に付け狙われるなぞ真っ平御免じゃ」

 そこまで聞くと、レイはふっと小さくため息をついて微かに微笑むと、彼の肩に手を当ててゆっくりと立ち上がった。

「……そうか。ならてめえに任せた。俺はここでお嬢様の世話をしてる。だがな……もし危険と判断したらすぐに殺すからな」

 そう言い残しレイが奥の間に消えると、藤兵衛はその場に置かれた彼の刀に目をやった。正確に言えば、鞘に刻まれし龍と刀の交わる紋様を食い入るように見つめていた。彼の心の隙間に刺さる、痛みを伴う過去の思い出。彼はキセルをふかしながら勢いよく立ち上がり、気合を込めて両頬をパンと強く叩いた。

(これが……運命というものか。じゃが、儂のやるべき事は変わるまいて。今出来る事を、全力で完遂するのみよ。そうじゃろう……龍牙よ?)

 藤兵衛ら雪が吹き荒ぶ中迷わず外に出ると、荒縄で縛られ木に繋がれた男に悠然と近付いていった。彼は吹雪の中でも顔色1つ変えず、ただ小屋の中を殺意を込めて凝視していた。一分でも隙あらば、すぐにでも標的を仕留める。そんな気配を隠そうともせずに撒き散らし続けていた。藤兵衛はその隣に遠慮なくよいしょと座り込み、何ともない風体で話しかけた。

「ふむ。今日は実に冷えるのう」

 しかし彼は当然のように、その言葉には反応しない。風の音だけがその場に残った唯一の答えだった。

「如何に秋津の侍とはいえ、この寒さは応えるじゃろう? 一緒に中に入らぬか?」

 彼は答えない。吹雪に変わりつつある雪の中で垂れた目を細め、藤兵衛はふうとため息をついて、一気に核心へと踏み込んだ。

「やれやれ、話も聞かんか。秋津国が誇る名門中の名門、高堂家若衆の態度が……果たしてそれでよいのかのう?」

 男はビクンと分かりやすく一度震え、鋭い視線で藤兵衛を見遣った。だが彼はそれを何なく受け流すと、優しく微笑んで見つめ返した。

「貴様の鞘に描かれた、龍と刀が交差する印。忘れたくとも忘れられぬわ。気持ちは分かるがの、先ずはこれを見てから判断せい」

 藤兵衛は懐からキセルを取り出すと、慣れた手付きで持ち手の装飾部分、金色の蛇が描かれた彫金部を取り外した。すると、上質の黒檀の表面には彼の刀と全く同じ紋、龍と刀が克明に彫り込まれていた。

「こ、これは高堂家の家紋! しかもこれは……我が大殿の持ち物にござる! それを持つということは、貴殿は一体……」

 驚きと猜疑を同時に顔に浮かべた男に、藤兵衛は悠然とキセルに火を付けながら大きく笑いかけた。

「ホッホッホ。やっと喋ってくれたのう。まあそんな顔をするでない。これは貴様の主人、高堂龍牙殿から直接頂いたのじゃ。儂の名は金蛇屋藤兵衛。5年前、故あって儂らは知己となっての。これは別れ際に龍牙から送られたのじゃ。何でも秋津国では、交流のあった者にキセルを送るのが風習だとか。表面に自分の印を掘って使うと教わっての。以来儂の愛用品となっておる訳じゃて」

 「金蛇屋藤兵衛! 殿からの訴状にその名があり申した! なんでも東大陸随一の知恵者で、数少ない友邦と呼び得る人間であると。しかし貴殿はその……相当にお若いようですが……」

「そこを説明するの長くなるの。儂は貴様の言うところの“魔女”により、斯様な姿に変えられたのじゃ。信じられぬのも無理はないが、これからの言を以って真偽を判断せい」

 藤兵衛は悠然とキセルをふかしながら、静かに今までの経緯を話した。最初は不審に満ちた男の顔も、彼の硬軟織り交ぜた巧みな話術により、次第にゆっくりと解けていった。一通り話し終えると、暫し黙ったまま聞いていた男は、突然縄を引きちぎらんばかりの勢いで、その場に平伏しようとした。

「……左様でございましたか! 今までの無礼、平にご容赦を! まさか殿が紋入りを贈るまでの関係とは露知らず、質問に答えぬばかりか、先刻は問答無しに斬り付ける有様。腹を切ってお詫びしたいところですが、生憎今の己は斯様な状況でして。お手数ですが介錯して頂ければと……」

「そ、そんなことはせんでよいわ! これだから秋津の侍は始末に困るのじゃ。兎に角、詳しい話は中でしようぞ。このままでは互いに凍り付いてしまうわい」

 そう言い放ち雪の積もった縄を必死に解こうとする藤兵衛を、男はぽかんとした顔で見つめていた。

「し、しかしですな、この状況で中に入る訳にはいかぬのでは? そもそも貴殿にとって、己は敵ではありませぬか? それを……」

「覚えておくがよい。この儂に敵だの味方だのという概念は存在せぬ。貴様を全面的に信じた訳ではないが、少なくとも貴様は、龍牙と関係あると知った儂を理由なく切り捨てはしまい。こんな寒さの中ではまともな話なぞ出来まいて。茶でも立てさせる故、ちと付き合えい」

 そう言いながら震える手で拘束を解いた藤兵衛に、男はやや潤みを込めた目で見つめ続けていた。暫しの時間の後、彼は傷だらけの男に肩を貸しながら、暖かい室内に入っていった。

「おい! てめえなに連れ込んでんだ! このバカが暴れ出したらどうすんだ!」

 入るや否やレイの怒鳴り声と刺すような闘気が向けられたが、藤兵衛は静かに手を差し出して、男を暖炉の側に座り込ませた。

「心配要らぬわ。此奴は秋津の名門、高堂家の家中じゃ。貴様と違い知能はしっかりしておる。何かあれば儂が責任を取ろうて」

「あ? えらそうにできもしねえことをぬかすんじゃねえ!!」

「グェポ!!」

 藤兵衛を蹴り飛ばしつつ、男を油断なく睨み付けるレイ。蹴られた背中に不快そうに手を当て、よっこらしょと座り込む藤兵衛。男はそんな彼らを見て、初めてほんの少しだけ微笑んだ。

「おお、やっとまともな顔を見せてくれたのう。おい、虫。何か温かい飲み物を持って来るのじゃ」

「てめえに言われる筋合いはねえ! だがま……このまま死なれても困るしな。ちっと待ってろ」

 そう言って奥の部屋に消えていくレイ。藤兵衛はキセルを深々と吸い込みながら、肩を竦めて男に笑いかけた。

「まったく、野蛮人の相手は疲れるわい。いきなり落ち着けと言うても難しいじゃろうが、今は儂を信じて休むとよい」

「……1つ質問があるでござる。貴殿は、何も知らぬ己に対し、どうして斯様に手厚く接して頂けるのですか?」

「儂は商人じゃ。基本的に信ずるのは自分の利と才覚のみよ。儂はかつて龍牙を信じた。儂は彼の人柄と能力を信じ、友と呼び、彼も儂にそう接してくれた。儂は受けた恩も恨みも10倍にして返すのが信条じゃ。故に、その部下たる貴様にも同じものを返す。唯それだけの話じゃて」

「……は。かたじけのうござる。本当に、本当に……かたじけのうござる!」

 堰を切ったように双眸から涙を流して、男はありったけの声で叫んだ。面長の顔をくしゃくしゃにして感情を崩壊する彼。静かに落ち着くのを待つ藤兵衛の元に、驚き果てた顔のレイが湯気の立つグラスを運んできた。

「ったく、てめえなに泣かせてやがんだ! ほれ、これ飲んで落ち着けや。いっぱい生姜入れといたからあったまるぜ」

「……重ね重ねかたじけのうござる。何とも心温まる……それでいて優しい甘さで。この5年間……己はこんなに美味いものを口にした事はありませぬ。本当に……本当に何と申し上げたらよいか……」

「へっ。気にすんじゃねえ。一気に飲むとムセちまうからな。誰も取りやしねえからゆっくりやれや」

 生姜とミルク入りの温かい紅茶を、男は心から美味そうに礼儀正しく一口ずつ口に運んでいた。部屋中に暖かい香りが漂う中、藤兵衛は悠然とキセルをふかしながら、極めて注意深く切り出した。

「それでは順を追って聞こうかの。まず貴様の名前は? 秋津の侍ならば、しかと胸を張って答えい」

「は! 失礼致しました。己の名は高堂亜門。藤兵衛殿もご存知の通り、東の秋津国は高堂家の家臣でござる。戦災孤児であった幼少の砌に、戦地で大殿に拾われま申した。それ以来養子として、侍として育てられてきたでござる」

「ほう! 貴様の戦闘力はその育ち故か。養子とはいえ、まさか龍牙殿の御子息とはのう。道理で鋭い一撃じゃったわい」

 肩を指差し愉快そうに笑う藤兵衛を見て、慌てて頭を床に擦り付ける亜門。

「ま、誠に申し訳ありませぬ! その件につきましては、一才の弁解の余地がないでござる! 斯くなる上はやはり腹を詰めて……」

「戯けが! そういう意味ではないわ! 純粋に貴様の腕を賞賛しておるのじゃ。今後も過信する事なく精進いたすがよいぞ」

「はっ! 勿体無きお言葉、この亜門の心に染みたでござる」

(……いつの間にか上下関係ができてやがるぜ)

 レイが呆れ顔で小さく苦笑した。藤兵衛は合図して彼の頭を上げさせると、悠然と煙を吐き出しながら続けた。

「よいよい。儂らはある意味では対等じゃて。では本題じゃ。何故貴様はシャルを狙う? そこには如何なる理が存在するのじゃ?」

 その問いを受けて、すっと急に表情が引き締まる亜門。彼は背筋を伸ばし緊張の色を強くすると、真摯な面持ちで藤兵衛とレイを交互に見つめた。

「己は……先も話した通り大殿に拾われ、高堂のお家のために生き、お家を守るために死ぬべき存在にござる。かつての秋津とセイリュウ国との大戦をご存知か?」

「無論じゃ。あの戦いは何も生まんかった。双方ともにただ失われ、疲弊しただけじゃったわ。まあこれは傍観者の語る一方的な結果論じゃがの。当事者の貴様らには別の見解があろうて」

「如何にも。あの戦の発端は、5年前に大殿が……セイリュウ国で凶刃に倒れたことでござる。そこから始まった長き戦の中で、高堂家の跡取りたる龍心も戦火で果て申した。己はその場におりながら何もできず、兄とも主君とも呼ぶべき者を……守れなかったでござる」

「へえ。てめえがいたのにか? そんなにセイリュウの戦士たちはやるってのかよ?」

「いえ。無論セイリュウ軍は強敵ではありましたが、己らとて遅れは取りませぬ。セイリュウ国に攻め込んで2年後、つまり今から3年前に、首都バイメンまで後一歩というところで、己らは罠に嵌ったのでござる。いつの間にか包囲された己らは、謎の敵の怪しげな妖術により、紅蓮の炎で焼き尽くされた申した。その際に、意識失われし最後の瞬間に、己は確かに聞いたでござる。敵軍の長が発した言葉……『ハイドウォーク家の命により、秋津の猿どもを殲滅完了』と!」

 血反吐でも吐きかねない、苦痛に染まった表情で彼は告げた。藤兵衛とレイは顔を見合わせて、無言のまま事の真偽を確認し合っていた。興奮し過ぎて呼吸を荒げる彼を見て、レイはそっと立ち上がり奥に消えていった。すぐに戻って来たレイは、グラスに入った茶をぶっきらぼうに彼に差し出した。

「ま、とりあえず飲めや。取って食やしねえから、落ち着いてゆっくり話せ」

「取り乱してしまい誠に申し訳ござりませぬ。ですが、貴殿ほどの戦士に何度もお茶汲みをさせるとは……」

「よいのじゃよいのじゃ。此奴はそれくらいしか能のない木偶じゃからのう。おい、早く儂の分も持って参れ」

「うるせえ! チョーシこいてんじゃねえ!!」

「ハォン!」」

 2人のやりとりを目にし、再び薄っすらと笑みを見せた亜門。よくよく見れば、まだうら若い青年だった。鬼気迫るほどの怨念が、彼を本来の姿から遠ざけていたのだった。落ち着きを取り戻した彼に対し、レイは考え込むように言葉を発した。

「正直な……その件について心当たりはある。だがそりゃ別人だぜ。お嬢様にはずっと俺がついてっからな。3年前はまだ西大陸にいた。まちがいねえよ」

「お言葉ですが、それを素直に信じる訳にもいきませぬ。己は見たでござる。斯の魔女が凄まじき大炎を以って、異形を焼き払う姿を。己は目だけには自信があり申す。あれはあの日見た、己が目に焼き付いた妖術と寸分違わぬものでござった。その上で“ハイドウォーク”の名も同一とあらば、疑う余地はないかと存じまする」

「……」

 レイはそれ以上詳しくは述べず、押し黙って深く考え込んだ。藤兵衛はその態度から状況を察し、シャーロットの眠る奥の部屋にちらりと目をやった。

「ふん。此奴は秘密主義が過ぎての。主の許可なくば話もまともに出来ぬ、虫けらと同等の存在じゃ。現在、貴様の言う所の“魔女”は、病で寝込んでおっての。その件の真偽は後で確認するとして、1つ聞かせてくれぬか。その苛烈な戦場から、貴様はどの様に生き延びたのじゃ? この数年間をどう過ごして来たのじゃ?」

「……控えめに申しても、屈辱と羞恥に満ちた日々でござった。日々山谷を駆け巡り体躯を鍛え、闇の痕跡を追って旅を続けたのでござる。途中で出会ったある方から情報を得まして、最後の希望を込めてここゲンブ国に向かい申した。が、力及ばずこちらの偉大な戦士殿に打ちのめされ、こうして不覚を晒しておる訳でござる」

「……解せぬな。その、“ある方”とやらについて詳しく話せい」

 その時、藤兵衛の目が油断なく光った。尊大ながらも人好きのする優しげなものから、獲物を喰らい尽くす蛇にも似た凶悪な輝きへと。即座に彼の纏う空気が一変したのを感じ、亜門は唾を飲み込んで佇まいを正した。

「そ、それはビャッコ国の商人でござる。己は非常に世話になり申した。御名を黒龍屋と申しまして……」

「ふむ。委細分かったわ。ならばはっきり言おうぞ。貴様は謀られておる。間違いなくの」

 二の句を告げさせぬ断定した藤兵衛の言い方に、亜門は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに心外とばかりに顔を怒張させて睨み付けた。

「いきなり何を仰いますか? 己は彼の方々に世話になり申した。如何に大殿の知己とはいえ、言葉が過ぎるかと存じますぞ」

「お、おいクソ商人! このアホを刺激すんじゃねえ! 暴れられたらめんどくせえんだからよ」

 亜門の抜き身の刃のような気迫は、レイすらも驚かせる程だった。しかし藤兵衛は動じない。この男は動じない。

「貴様がどう思おうが、儂には確信がある。今から儂が言うことをよく聞き、その上で貴様自身が判断せい。誤った点があればいつでも訂正し、保身や疑念の気が見えたならば即座に斬するがよい。……おい、虫よ」

「……あいよ」

 藤兵衛の合図を受けると、レイは躊躇うことなく大小二振りの刀を亜門に手渡した。レイは知っていた。この男が大法螺にしか聞こえない与太を披露する時、必ず自分の命を懸けているという事を。そして、必ずや勝算を胸に臨んでいることに。彼の揺るぎ無い覚悟を前にして、むしろ武器を受け取った亜門の方が戸惑いを見せる中、彼は悠然とキセルに火を付けて静かに語り始めた。

「貴様の話の背景には、幾つもの知られざる事実が隠されておる。先ずは全ての出発点、龍牙の死についてじゃ。貴様は龍牙がセイリュウ国で殺された、そう申したの? ……断言してもよい。それだけは絶対に有り得ぬ」

「ど、どういうことでござるか! 己らを疑うというか! 船がセイリュウから到着した時、確かに大殿は亡くなっておられた! この目で見たから間違いない! 大陸人が殺したに決まっているではないか!」

 刀を抜いて今にも斬りかからんばかりにいきり立つ亜門。慌てて止めようとしたレイだったが、藤兵衛は全く動じるそぶりを見せず、悠然と煙を吐き出していた。

「貴様らが何を見ようが、どう感じようが、真実は1つじゃ。儂は現に見ておる。見送っておる。セイリュウ国はペントン港から秋津に向けて、元気に出港する龍牙殿の姿をの」

「ば、莫迦な! 殿はセイリュウで出港間際に殺されたのだ! 秋津の全ての人間がそう信じ、憤慨し、戦に身を投じたのだ! これ以上適当なことを言うようならば容赦はせん!」

「最後まで聞けい! そもそも秋津という国は、歴史上常に他国と接点が薄い、言わば孤立国家じゃ。それ故に独自の文化や産業が育ち、織物や絵画、金属加工品などが希少に出回り、高い値をつけておった。儂も何度か買い付けを行なったが、その度に儲けさせて貰ったものよ」

「……その通りでござる。現在の国は600年前に偉大なる秋津典膳公が興した新興国ですが、秋津全体には古い歴史があり申す。己らの文化の価値を認めて頂いたことは光栄にござるが」

「大陸と秋津国は一定の距離を保ちながら、基本的には良好な関係を続けておった。無論、途中で乱れた歴史はあるが、今は省略しようぞ。この関係が大幅に狂ったのが、10年ほと前のこと。大陸から秋津への輸出品の項目の中に、密かにタイノアサが入り始めた事実に端を発する」

「おい。それって……この前のあれだろ? 例の麻薬の原料の?」

「その通り。問題は麻薬じゃ。質が悪く人間を廃人にさせるだけの、悪夢の如き存在よ。それから秋津国がどうなったか、それは貴様の方が詳しいじゃろう?」

 藤兵衛はゆっくりと、蛇の如き油断なき目で亜門を見つめていた。彼は正座したまま背を震わせ、太ももに爪が食込まんばかりに力を込めた。

「仰る通りでござる。あの悪魔の白い粉により、秋津はすべてが狂い始め申した。人々は堕落し、侍たちもその職務を放棄し始めたのでござる。気づいた時には誰もどうすることもできず、我らは貿易の中継であるセイリュウ国に対し、強く抗議をし申した。しかし奴らといえば、はぐらかしとぼけ続けるのみ。我らは憤った! 奴らに鉄槌を! そういった論調が秋津を覆っていたのでござる」

「そうした主戦論を抑えようと腐心されたのが、外交部門の主であった高堂龍牙であった。様々な状況を踏まえて情報を整理し、万全の準備を整えセイリュウ国に乗り込んできたのが5年前。セイリュウ政府は大いに焦り、交渉役として引っ張り出されたのが、他でもないこの儂よ」

「は? 意味わかんねえな。オウリュウ国の一商人でしかねえてめえが、んな重要な話に入れるわけねえだろ」

 いつの間にか横になったレイが、尻を掻きながら漠然と言い放った。藤兵衛は内心を不快感で一杯にしながらも、努めて平静を装い話を続けた。

「(何時もながら……何とも下品で想像力皆無な下等生物じゃのう)儂は一応、オウリュウ国の名誉武官も兼ねておるからのう。しかもオウリュウとセイリュウは兄弟関係。上の者共は手っ取り早く金で片を付けようしたのじゃろうが、龍牙では相手が悪すぎたわ」

「はっはっは。大殿は金で動く方ではござらぬ。それに秋津国で1番頭も切れる方。大陸の人間では太刀打ち出来ますまいて」

 快活に笑い、心底誇らしげに亜門は言った。藤兵衛も同調するように何度も頷き、懐かしげにふっと微笑んだ。

「本当に奴には苦労したわい。損得や忖度に揺れる事など1つもなく、常に大義のみを見て、筋を通す事を第一に考える男じゃからのう。じゃが龍牙は有能なだけあって、結果として話が纏まるのは早かったわ。我らは互いに情報を出し合い、時間をかけて擦り合わせ突き詰めた結果、出た結論は1つ。一連の騒動は、両国とは別の勢力により引き起こされたものだ、と。全ての証拠がその可能性を示唆しておった。その者達が麻薬を製造して輸出し、秋津国内の協力者を通じ流通させたのだ、と」

「ま、待たれい! 貴殿の話が真実であるとするならば、その敵とやらは東大陸だけではなく、秋津の内部にもおるということではないでござるか! まさかそんな莫迦な話が……」

「残念ながら、これは龍牙も認めた話じゃ。帝都に戻れば彼の印も押された合意文書も存在しておる。と言うより……やはり彼の亡骸に文書は残っておらなかったのじゃな。貴様の言う通り、敵は大陸の中と秋津の中に深く入り込んでおる。其奴らを炙り出そうとせんとした矢先、儂の元へ龍牙殿の訃報が入り、そして瞬く間に秋津国がセイリュウに進行し、全ては闇に葬られた。結果として儂は交渉を纏められず、セイリュウ国から締め出される事となり、戦後復興が大幅に遅れ、その隙にすっぽりと国に入り込む者がいた。……どうにも臭わぬか? 計算され尽くされた何かが、闇の中で動いておると」

 シンと静まり返る2人。中でも亜門はあまりの衝撃的な事実に、驚きを隠しきれず呆然とするだけだった。

「……実に衝撃的な話にて。一笑に付したい所ですが、己には心当たりがあり申す。敵は内部におる、それは己らが常に考えていたことにて」

「ほう。ならば結論から先に言おうぞ。確たる証拠は存在せぬが、儂の読みでは……秋津国側の黒幕は藤原虎月じゃ」

「!! やはり……虎月と言えば、現時点での秋津の大老を務める最高権力者。大殿との仲も昔から犬猿で、此度の戦で1番利を得たのは彼奴にござる!」

「秋津国の闇貿易を陰で取り仕切っていた者は、貴様は知らぬかもしれんが、紛れも無く藤原虎月じゃ。儂も幾度となく奴と揉めた事があるからの。奴以外に絵を描ける者は存在せぬ。そして大陸側で糸を引く者こそが、ビャッコ国の黒龍屋じゃ」

「!? ……続けて下され。最後までしかと聞くでござる」

「連中は金蛇屋と違い、金になる物は全て取り扱う。人間も、麻薬も、武器もの。冷静に考えてみよ。麻薬を流して利を得るのは誰か。龍牙殿が亡くなられて得をするのは誰か。秋津国の実権を握った者は誰か。セイリュウ国との戦争で金を得るのは誰か。金蛇屋を追い出しセイリュウを闇に染めたのは誰か。全ては繋がっておる。間違いなくの」

 一気に言い切ると、藤兵衛は深く大きくキセルを吐き出した。頭を抱えて何かを考え込む亜門をちらりと見てから、レイは目を鋭く光らせて彼に言った。

「たしかにてめえの話はつじつまが合うな。黒龍屋といや、セイリュウ国で大規模な麻薬工場を作ってやがったな。あれも計画の内ってことか?」

「無論じゃて。理由は知らぬが連中は闇の眷属、つまりは儂らの敵と手を組んでシャルを狙っておる。そんな者共が、復讐に燃える秋津の侍を見かけたら何とする? 頭に血が上った若き勇士を騙す事などさぞ容易かろうて。貴様は捨て駒として利用されたのじゃ、亜門よ。そして断言は出来ぬが、貴様の仲間を手を掛けたのも、奴らに与する眷属じゃろうて」

「……」

 亜門はすぐに答える術を持たなかった。ただ深く頭を垂れて、自らの内で考え込むのみであった。藤兵衛はふうと一息つくと、彼の肩を軽く叩き、言い聞かせるように告げた。

「儂の話は以上じゃ。自身の中でよく考えてみよ。その上で儂らに刃を向けるというのならば、幾らでも何度でも相手をしようぞ。じゃが、もし現時点でその刃の目指す先が定まらぬというのならば、儂らと道を共にせんではないか」

「……!!」

「あ?! てめえなに勝手にぬかしてんだ! チョーシこいてんじゃねえぞ!」

「儂は本気じゃて。シャルには儂から話をしようぞ。この件については、とてつもなく巨大な力が働いておる。世界を丸ごと包み込まんとする、邪で濁な意思がの。現時点でもそれだけは間違いなかろう。お主が主君の仇を討ちたいと、仲間の無念を晴らしたいと、そう心から思うのならば、己の目で確かめてみよ。お主は迷っておる。秋津の格言にもあるじゃろう? 『心中の迷いのみが侍の刃を曇らせる』と」

「し、しかし……それは……」

「この5年間、お主は何をしておった? 復讐に目を眩ませるだけで、真実を見据える事を怠っておったのではないか? 今は儂に支えい、亜門よ。儂の仕事はの、世界中の者に富を与える事じゃ。其の者が望む富を授け、対価として儂は繁栄する。それこそが儂が大陸一の商人と呼ばれる所以ぞ。儂がお主に与えるもの、お主が求める“富”……それは世界の真実じゃ! お主に過酷な運命を齎した、世界を蝕む邪悪の糸口じゃ! 儂らの敵は恐らく、お主の憎むべき敵と凡そ同一であろう。お主がこの旅に付随する事で、必ずやその全容が見えて来るじゃろうて。世界を周り、全てを知った上で、お主が自分の意思で判断せい。その刀を、怒り迸らん漆黒の刃を、一体何処の誰に向けるかということをの!」

「……」

「………」

 心底呆れ返りぽかんと口を開けるレイとは対照的に、嬉しそうに微笑みながらも、亜門は実に複雑な表情になり頭を下げた。

「事情も知らずに野蛮にも刃を向けた己如きに、誠に有難き御言葉にござる。この高堂亜門、心から感じ入り申した。己としても……殿のお認めになったあなた様となら、己に希望と進むべき道を示してくれたあなた様になら、信を示し同行させて頂きたく存じます。ですが、秋津の侍は二君に仕えられませぬ。どうかお気持ちだけ……」

「ホッホッホ。誤解するでないわ。そんな事は百も承知じゃて。実はの、今だから話すが、5年前のあの日……儂は龍牙に1つ頼まれたのじゃ。『己に何かあれば、高堂家の家臣を頼む』と。縁起でもないと一喝したものじゃが、今考えると奴はこういった可能性を予知してたのかもしれぬな。流石は龍牙じゃて」

「大殿……そこまで己らのことを案じておられて……」

 亜門は堰を切ったように涙をボロボロと流し、再び深く地に頭を付いた。満足そうにそれを眺める藤兵衛を見て、レイは更に呆れ果てた表情を向けた。

(ったく、とたんにウソくさくなりやがったぜ。ほんとこのクソだきゃあ……)

「儂はの、朋友たる龍牙の遺志に報いたいだけじゃ。儂は商人故、約束や契約は死んでも守らねばならぬ。無論、決して偉そうに臣従させる訳ではなく、ある意味では対等に、お主が仇を討つまでの仮の関係じゃて。……亜門や、一緒に世界を周り、龍牙の仇を討つぞ! 儂に付いて来るがよい! この金蛇屋藤兵衛、必ずやお主の望むものを与えようぞ!」

 亜門と同じく涙を流しながら、藤兵衛は仰々しく彼の両手を取った。白々しくそれを見つめるレイとは裏腹に、彼はその手を強く握り返し、額を床に擦り付けながら叫んだ。

「何という御心、何という誇り高き魂……大陸にもこの様な気高き御方がいらっしゃるとは……。最早言葉は不要でござる! 秋津の格言にも『志同じくすれば敵もまた本身刀』とあり申す。本日をもって己、高堂亜門は金蛇屋藤兵衛殿の臣下に入りまする! 宜しくお願い致します……殿!」

「よいよい。頭を上げよ。儂らは一時の主従とはいえ、同じ魂を共有する同志ぞ。これから宜しく頼むわい、亜門や」

「ははっ! 無論に御座りまする! この亜門の命、殿の為に存分にお使い下され!」

(……はあ。こりゃまいったぜ。またバカが増えちまった)

 涙に塗れて抱き合う2人を、レイは心底冷め切った顔で見つめていた。レイは暫し彼らの様子を見守ってから、やがて頭を掻きながら面倒そうに立ち上がった。

「おい、てめえら。もうそのへんでいいだろ。話はわかったが、とりあえずお嬢様に伝えねえとな。ちと待ってろや」

「……その心配はありません、レイ」

 奥の間から慎み深い声がした。3人が同時に振り返ると、そこに立っていたのは1人の女性。美しい長い黒髪を腰まで垂らし、同じくらい漆黒のドレスを優雅に着こなした優しげな女性は、透き通るほど白い肌を仄かに紅に染めて、一行に向けて美しく微笑んだ。

(こ、これが魔女シャーロット!? なんと……美しい……)

 亜門は思わず顔を真っ赤にしながらも、一瞬心を奪われそうになった自分を恥じ、ふんと刀を構えて立ち上がった。

「貴殿が噂の魔女でござるか。己はまだ、貴殿を仲間の仇と疑っておる。だが今は殿の御心に従い、不本意ではあるが貴殿と同行することにするでござる。今後疑わしき事例あらば即座に叩っ斬ると心得よ」

「おいてめえ! お嬢様になんて口聞いてやがる! ブチ殺すぞ!」

 レイのドスの効いた声が小屋全体を震わせた。しかしシャーロットは手を上げてそれを制し、にっこりと再び彼に向けて微笑んだ。

「ええ。全て聞いておりました。藤兵衛の仲間とあれば、私の仲間ということですね。よろしくお願いします、亜門」

「な、なんと!? 貴殿、己の話をしかと聞いていたでござるか!?」

「もちろんです! 旅は共が多い方が楽しいですからね。私の名はシャーロット=ハイドウォークと申します。気軽にシャルちゃんと呼んで下さい。それではさっそく歓迎会をしましょうか、レイ。何か美味しいものを作って下さい。何なら私もお手伝いしますが……」

「お、お嬢様はまだ体調が不十分ですから、ぜんぶ俺がやりますよ。だからしばらくお休みください」

「待たれよ! 己は貴殿と馴れ合う気は……」

「無駄じゃ亜門。“あれ”はああいう女じゃ。諦めて全霊を以って歓迎されい」

 レイと藤兵衛は顔を合わせて笑い、シャーロットも手を口に当てて微笑んだ。暫し戸惑うばかりの亜門だったが、やがて静かに刀を鞘に仕舞い込み、とても快活に笑った。

(まあ……今日のところはよいか。だが必ず、己は必ずや“敵”に天誅をば下して見せようぞ。もしそれが其方を指し示すなら、その時は覚悟するがよい……シャーロットとやら!)

 そう心の中で呟く亜門。吹き荒ぶ雪の中に一陣のつむじ風が舞っていた。凍てつく吹雪の中でも、秋津の侍の熱き魂までもを凍らせることは不可能だった。

「よし、じゃあ落ち着いたとこで準備すっぞ。しばらく吹雪で動けそうもねえかんな。おいクソ商人! そのへんから燃料と食料をありったけとってこいや!」

「了解じゃわい。どれ、では行くとするかの。こんな強い雪の中で、万が一にも迷わねばよいのじゃがのう」

 レイのがなり声を受けると、藤兵衛は普段とは全く違う態度で、嫌がる素振り1つ見せず、ゆっくりと仰々しく立ち上がった。明らかにわざとらしい大声、部屋中に響く低いダミ声に亜門は即座に反応して、彼の足元に駆け付けて跪いた。

「殿、申し訳ござりませぬ! 気が利かずに呆けてしまいまして。己が行って来ますので、殿はこの場でお寛ぎ下され」

「よいのじゃよいのじゃ。これはお主の歓迎会じゃからの。あの穢らわしき虫に付けられた傷に染みたらいかん。お主の傷は儂の傷じゃて。ほれ、外になどおらず、お主は中で暖をとると良い」

「それは殿も同じことでござりましょうぞ。己の刃で傷付いておきながら……何とお優しい御方であろうか! お待ちくだされ、すぐに必要分を集めて参りますゆえ!」

「……お主ほどの侍がそうまで言うなら、儂はもう止めまいぞ。ならば……ほれ、これをお主に授けようぞ」

 藤兵衛はバッと金色の蛇が描かれた毛皮の上着を脱ぐと、優しくそっと亜門に被せた。高級で重厚な生地からは温もりががふわりと包み込み、その温度は彼の涙腺を激しく刺激していった。

「こ、こんな高価そうな衣服を己に!? 本当によいのでござるか?」

「無論じゃて。今後のお主の働きを考えれば安いものよ。さあ、それでは行くがよい。ちなみに儂は鹿肉が好みじゃて」

「はっ! この亜門、しかと心に留めました! レイ殿も暫し待たれよ。この高堂亜門、戦さ場で鍛えた嗅覚で即座に仕留めて参りまする」

「ふふ。頼もしいことですね。素晴らしい仲間がまた1人増えました。世界の平和のために、改めて頑張りましょう! ちなみに私は果物が好きですよ、亜門」

「おい魔女! 己が貴様に従う道理はないでござる。欲しければ自分の足で来たれい。まあ温室育ちの貴様には到底……」

「分かりました! ならば競争ですね! ふふ。負けませんよ、亜門。……『ビエント』!!」

「ま、待つでござる! ……ムゥン!!」

 シャーロットはたちまち疾風を巻き起こし、風邪など何処吹く風で雪原に飛び出していった。レイはぽかんとする亜門の頭を思い切りどつき倒し、ありったけの声で叫んだ。

「このバカ侍! 早くお嬢様を連れ戻せ! なんかあったらてめえのせいだぞ!」

「ぎ、御意! それでは御免!」

 脱兎の如く雪の中へ消えて行く亜門。キセルをふかしどっしりと構える藤兵衛。苛立ちを隠すことなく頭を掻き毟るレイ。

「てめえ……どこまで読んでやがった? 意味わかんねえことになってんぞ」

「儂は嘘は1つも付いとらん。仮にあったとしても、優しく可愛いものじゃて。彼奴が自主的に動いたのじゃから、止める事は出来まい? ……儂に読めぬのはシャルだけじゃて」

「ハッ! それだけは同意だぜ。やれやれ。めんどくせえことになんなきゃいいけどな」

 レイの不安は勿論ながら的中することにはなるが、頼もしき仲間が増えたのもまた事実。新しい国ゲンブでの彼らの旅はまだ始まったばかり。吹雪の中でこだまするシャーロットの歓声と亜門の絶叫を背後に、彼らの前に立ちはだかる路は雪の輝きに照らされ、光瞬くように映し出されていた。

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