第21話 月夜

 龍が昼間に部屋から出るのは、厠へ行く時と、井戸の横で身体を拭く時だけだった。厠は家の最も奥まった場所にあったし、龍が使う小さな井戸は草木で覆われていたので、全く人目にはつかない。彼が井戸まで出る時は、いつだって月子が付き添ったこともあり、龍の姿を村の者が目にすることはなかった。


 夜が更けて、皆がすっかり寝静まる頃。

 月子は晴子と二人で使っている自室をこっそり抜け出して、龍の元へ向かった。合図も何もなかったけれど、月子が彼の部屋の戸口へ辿り着く前に、龍は廊下に出ているのだ。悟の寝息を確認してから、二人は静かに家を出る。


 庭先やあぜ道の真ん中で、夜空を眺めるだけのことが殆どだったが、たまに気が向くと、K川のほとりまで歩くこともあった。

 そんな夜、龍は全ての衣服を脱いで川で泳いだ。月が映り込む川面に、静かに波紋が広がっていく。

龍の泳ぎは、ほぼ無音だった。ゆらゆらと揺れる水面の場所で、月子は彼がどの辺りに潜っているのか検討をつけるしかない。


「月ちゃんも来ない?」


 時折桟橋の辺りに頭を出して、龍は月子を誘った。しかし月子は、この誘いに乗ったことはない。泳ぎは得意ではないし、万が一誰かに見つかったら大変だ。夜中にこんな場所に近づく者もいないだろうが、見張りは必要だろう。


「私はここで。見ているだけでいいよ」


 そんな風に断って、月子は再び川の中程まで進む龍の背中を見送るのだ。

月光が照らす彼の背中が、きらきらと輝いている。なんて美しいのだろう。


「月夜が大好きだ」


 満足いくまで泳いだ後の帰り道で、龍は決まってそう言った。


「僕は自分の身体があまり好きではないけど、月夜の中で見る鱗は、ただ美しいと思えるから」


 それに、と龍は続ける。月子と繋いだ手に力を込めながら。


「月ちゃんの名前だからね。月が好きだよ。月がよく見える、こんな夜が大好きなんだ」


 こんな風にして、二年の月日が経っていた。穏やかで美しい二人だけの月夜と対照的に、戦況は厳しく、日本の置かれる状況は悪化の一途を辿っていた。

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