(2)

 マルは目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。

 縁側から伸びてくる日差しを障子がうっすらと遮り、粉砂糖をまぶすように、柔らかい光の粒子が枕元に広がっていた。電気をつけなくとも、板張り天井の地形図のような木目がはっきりと見えた。

 凍えるような朝を迎えなかったのは、およそ一週間ぶりだった。彼女はハヤトの腕の中にいた。頭上で彼が寝息をたてている。ゆったりとしたリズムで、深く、静かに呼吸を繰り返していた。

 マルは横になったままハヤトの顔を見上げた。無防備に開いたままの口が可愛らしい。彼女はふと生えかけの顎髭を触りたくなり、指をそっと伸ばした。するとつい過って、その顎を爪で引っ掻いてしまった。彼女は自分の爪が指の先から飛び出るほど伸びきっていたことを、すっかり忘れていた。

「あ、ごめん。痛かったよね」

 ハヤトは重たそうな瞼を薄く開けた。『ん、ああ、マルか。おはよう』、彼は顎を引いて腕の中に埋まっていたマルを見下ろし、小さく笑った。

「…………」

『どうかした? なんかご機嫌そうだね』とハヤトは言った。

 そこでようやくマルはハッとして我に返り、ハヤトから目を背けた。そして慌てて彼の着ていたトレーナーの裾を掴み、その中に潜るように頭を隠した。昨夜のことを思い出していただなんて、恥ずかしくて言えなかった。耳元で囁く吐息のような声、意外と柔らかくて滑らかな肌触り、ほどよく引き締まった筋肉、まるで身体のあちこちを点検するみたいに愛撫してくれる長くて太い指、顔を近づけるたびに香るシャンプーの匂い。彼女はどれもはっきりと覚えていた。

 彼の肌着に顔をこすりつけてみると、かすかに汗の匂いがした。男の汗の匂いには興奮作用があると聞いたことがあった。

『マルは朝から元気だな』とハヤトはトレーナー越しにマルの頭を撫でた。『今日はとりあえずホームセンターにでも行ってみるかな。これから一緒に生活していくんだから、ある程度は揃ってないとマルも困るだろうし』、彼は独り言のようにそう言った。

 マルは何も言わず、じんわりと胸に広がっていく安堵感と幸福感を、彼の服の中で気の済むまで噛み締めていた。昨夜、彼はお風呂場で私に言ってくれたのだ。『もしよかったらでいいんだけど、このままウチに住んでもらってもいい?』と。その言葉にマルは二つ返事で肯いた。そして嬉しさのあまり彼の頬に口づけをした。彼もその反応に笑顔をこぼした。『ありがとう。実はこの家に一人きりで暮らすのがずっと寂しかったんだよ』と口にしながら。

 八時を告げるアラーム音が鳴った。

 ハヤトはトレーナーの裾を持ち上げてマルの頭を外に出した。『ほら、もうそろそろ起きるよ』

「もう起きちゃうの?」、マルは彼の顔を上目遣いで見た。

『なんか物足りなさそうだな』と彼は言った。

「だって今日土曜日だよ? まだお布団の中でゆっくりしててもいいかなって」

 そもそもマルにとっては、休みの日にアラームを掛けている男なんて初めて見た。規則正しい生活を送るのはいいことだと思うが、少しくらい昨夜の余韻が残っていてもいいものではないだろうか。なんだか自分だけが舞い上がっていたみたいで、途端に恥ずかしくなってきた。

 するとハヤトはそんなマルの心の内側を見透かしたように、いきなり彼女の身体を抱きかかえて額にキスをした。そして彼はそのまま指でヘソを探り当て、その周りをなぞるようにまるく触った。

 ひゃっ、と思わず声が出た。「もうっ、くすぐったいってば」

 彼はその反応に満足げな笑みを浮かべた。『可愛いな、おまえは』、それから彼はもう一度マルの額にキスをした。

 我慢の限界だった。実をいうと、もうずいぶんと前からマルは、ある衝動を必死で堪えていた。ハヤトに嫌がられるかもしれないという不安がよぎると、どうしても躊躇してしまった。彼女は彼の身体に乗っかり、首筋を舐めた。そのあとは頬を、耳を、鎖骨を、胸を、腹を舌で触った。『くすぐったいよ』と悶絶している彼の表情が愛おしくて、さらに激しさは増した。脇を、腕を、そしてまた頬を舐める。ちょっぴり汗の味がした。

『やめろって』とハヤトは足をじたばたさせながら言った。

 しかしマルは知っていた。時折、人は反対のことを口にする。熱湯を目の前にして『押すなよ』と言えば押すし、ドラマの中で泣きながら『あんたなんて大嫌い』と言うヒロインは、大概その人のことが本当は好きだったりする。マルの目に映るハヤトの顔も、まだ続けてほしそうな表情を浮かべているように見えた。

 すると、そうこうしているうちに今度は二回目のアラームが鳴った。

 時刻はいつのまにか八時半を回っていた。

『さすがにそろそろ準備しないと』、ハヤトはそう言うと、その場から逃げるように力づくで身体を起こし始めた。

 マルはまだ彼の胸にしがみついていた。「えー、起きちゃうの?」、精一杯の可愛らしい声で駄々をこねてみるが、彼はうんともすんとも返事をしなかった。

 ハヤトの手によって半ば強引に掛け布団が剥がされると、思っていた以上にひんやりと冷たい空気がマルの肌に触れた。冬の朝が寒かったことをすっかり忘れていた。彼女はすぐ隣で布団を畳み始めたハヤトを横目に、身体を震わせながら襖を開けて隣の居間に移動した。

 予想通り、昨夜マルが縁側から覗いたこの四畳の和室は、寝室として使われていた。床の間の横に備え付けられていた下部が空いた押し入れの中に、布団が収納されていたことも見事的中していた。彼女には大抵のことが推理できた。それは昔、老夫婦の家にあった赤川次郎の小説を読んだ影響もあるのかもしれない。

 彼女はまずはじめにコタツと電気ストーブの電源を入れた。そしてコタツ台の上に置かれていたリモコンに手を伸ばし、テレビを点ける。障子を開放すると、縁側から入ってくる明かりが部屋の中を照らした。天井に吊るされた照明は唯一の役目を奪われ、どこか寂しそうに見えた。

 それからしばらくして、ようやく居間に入ってきたハヤトは敷居のあたりでふと立ち止まり、ひと通り室内を見渡すと、何故か戸惑いを隠せない様子で目を剥いていた。マルはその顔を見て、何にそんな驚くようなことがあったのかよくわからず、首をひねった。

『マルってさ、なんていうかその……、気がきくよな』と彼は言った。

「え、まあね。これくらいのことでいいなら、いつでもするけど」

 その後もハヤトは立ち止まったまま、何か重大なことでも考えているように深刻な顔つきで頭の後ろを掻いていた。首を傾げたり、天井を見上げたり、何かをぶつくさと呟きながら思考を巡らせていた。

 マルは黙ってその姿を見守っていた。

 やがて彼は大きく身体を仰け反らせ、勢いよくくしゃみをした。唾液と鼻水が宙を舞い、途中であたりの空気に溶け込んだように、その行き先がわからなくなる。すると彼はようやく考えることをやめ、『風邪ひいちゃったかな』と首元を掻きむしりながら鼻をすすった。

「大丈夫?」とマルが尋ねた。

『マルにうつさないようにしなきゃね』、ハヤトはそう言って鼻の下を指でこすり、やはりまだどこか浮かない顔つきのまま居間を出ていった。

 それからほどなくして、トイレの方から水洗の音が聞こえてきた。

 九時ごろになると、ハヤトはコタツ台の上に朝食を運んだ。食パンが載った皿が二枚と瓶詰めのブルーベリージャム、あとは黄色い粉末の入ったマグカップが卓上に並ぶ。

 彼は台所から持ってきた電気ポットのプラグをコンセントに挿した。それは一分も経たないうちにカチッという音を鳴らした。彼は電気ポットを持ち上げていない方の手にスプーンを握り、それでマグカップの中身をゆっくりとかき混ぜながら、沸騰したばかりの熱湯を慎重に注いだ。マルはその様子をじっと見つめていた。

『コーンスープ。きみも飲んでみる?』とハヤトは尋ねた。

 マルはそれに首を振った。「遠慮しとく。熱いのは苦手だから」

「そっか。じゃあ、あとで冷たい飲み物持ってくるね」と彼は言った。


 朝食をとり終えたあと、ハヤトは寝室で身支度を始めた。

 その間、マルはコタツの中に顔以外を潜り込ませながら、何気なくテレビショッピングを見ていた。特殊なコーティングが施されたフライパンが紹介されていた。焦げつきにくく、手入れが楽々なのだという。『今日だけ特別に』という決まり文句を振りかざして、通常価格とあまりにかけ離れた値段で売りつけようとするそのやり口はあまり信用できなかったが、なんだかんだで最後まで目が離せなかった。

「ねえ、外寒いかなあ?」と彼女は寝室を向いてハヤトに尋ねた。

 しかし彼は指を折りながら、ぶつぶつと独り言を唱えていた。『とりあえず寝具と歯ブラシと食糧と、あとはトイレの問題もあるから──』、マルの声など全く聞こえていない様子だった。

「ねえねえっ、外は寒いかなあ?」、マルはさっきよりも大きな声を出した。

 するとハヤトもようやくその声に気付き、『ん、どうしたどうした。どこか気分でも悪いのか?』と口にしながら彼女のもとに駆け足で近寄った。その首元には、先ほど掻きむしっていたせいなのか、赤い斑点のような痕が残っていた。

「いや、そうじゃなくてさ。外は寒いのかなって、ただそれだけ」

 彼はそう答えるマルの頬を手の甲で触った。『留守番、頼めるか?』

「え、一緒に行くんじゃないの?」とマルは言った。

『すぐ帰ってくるから待ってて』とハヤトは言った。

 そして結局、彼は本当にそのまま一人で買い出しへ出かけてしまった。

 黒いダッフルコートを着て『じゃあ、いってきます』と言って、家を出ていくハヤトの背中を玄関で見送ったあと、マルは居間に戻って縁側に座り、窓の外の庭木をじっと眺めながらしばらく物思いに耽った。

 土曜日の午前中に放送されているテレビは、意外とどれも面白くない。いつもと代わり映えしないニュース番組か、のんびりと街を散策する旅番組か、各界のご意見番たちが集まって政治について話し合う討論番組か。テレビショッピングが終わってしまった今、そんな番組を見ているよりかは、縁側でただぼうっとしていた方が幾分マシのように思えた。

 これからどうなるんだろう、とマルはふと考えてみた。このままずっとこの家に居座っていいものなのだろうか。それとも、前みたいに、いきなり家を追い出されてしまう羽目になるのだろうか。

 マルの頭の中には、ある男の顔がくっきりと浮かび上がっていた。自分のことを捨てた男のことなんて、もう二度と思い出したくはなかったが、綺麗さっぱり忘れることができるほど時間は経っていなかった。つい先々週まで、マルはここから遠く離れたマンションでその男と同棲していた。ギンヤという名前だった。

 彼は内弁慶で、自分よりも強い相手には逆らえない人だった。加えて、スキンシップをとにかく嫌う人だった(いや、正確にはマルとのスキンシップを、ということになるのだが)。だからマルはしょっちゅう彼に怒られていた。テレビを見ているんだから邪魔をするな。休みの日くらいゆっくり休ませろ。当然、昨夜のハヤトのように、一緒にお風呂に入ってくれたことは一度もなかった。

 そしてそのうち彼は、家の外に女を作った。

 マルはそのことを知っていた。というよりも、彼自身がそのことを隠そうともしなかったのだ。実際にその女と鉢合わせたことも何度かある。そのたびに彼女はマルのことを、敵意むき出しの目つきで睨みつけていた。思い出すだけでも身震いしてしまう。あんな恐い顔をする女のことをよく好きになったものだな、と今更になってマルはふと思った。

 捨てられる前、彼は最後にこんな言葉を言い残した。『お前がいると彼女が苦しい思いをしてしまうんだ。別にお前が悪いわけじゃない。でもわかってほしい、俺はこれから彼女と一緒に生きていきたいんだよ。だからもう、お前と一緒に暮らすことはできない』、いま冷静になって考えてみると、きっとそれもあの女に『言え』と命令されたことなのだろう。繰り返すようだが、彼は、自分よりも強い相手には逆らえない人だった。

 彼に対する未練なんて一切残らなかった。むしろ、今となっては彼に感謝状を贈呈してあげたいくらいに、マルは家を追い出されたことをよかったと思っていた。もちろん、繁華街や公園をうろついていた期間はひどく辛かった。でも、その結果こうしてハヤトに拾ってもらうことができた。それは彼女にとって、宝くじに当選することよりも幸運な出来事だった。

 これからも一生、彼のそばにいられたらいいのに──。

 なんてこと考えていると、いつのまにか時刻は午後一時を過ぎていた。

 彼女は二時間弱もの間、縁側でただひたすらぼうっとし続けていたことに驚きつつ、玄関扉が開く音に胸を躍らせた。

『ただいまあ』、ハヤトの声が廊下に響いた。

「おかえり」とマルは返事をした。

 彼は両手に大きくて透明なビニール袋を一つずつ提げ、左脇には約五十センチ四方ものダンボールを抱え、何度も鼻をすすりながら居間に入ってきた。『やばい、ちょっと本格的に風邪ひいちゃったかも』

「え、大丈夫?」とマルは訊いた。

『まあ、といっても多分、すぐ治るやつだと思うんだけどね』、そう言いながらも彼はその直後に激しく咳き込んだ。そして、右手に提げていたビニール袋と脇に抱えていたダンボールを、それぞれテレビボードの前に置いた。『ひと通り必要なものは揃えてあると思うから』

 ビニール袋の中には、すぐに食べられる食糧や日用品の他に、ハヤトと一緒に使えそうな玩具まで入っていた。彼はそういうところにも抜かりがなかった。

「色々と買ってきてくれてありがとね」とマルは言った。

 するとハヤトは何の前触れもなく顔の前で手を叩いた。『よしっ。とりあえず、昼飯にしよっか』

 そうして彼は左手に提げたビニール袋を持ったまま、台所の方へと消えていった。その中に飲むゼリーやエナジードリンクがいくつか混在していたことは、マルの目にも確認ができたが、特にそれを気に留めておくようなことはなかった。

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