黄泉ノ宮の主従譚

@murasaki-yoka

第1話 過去の光景

 橘千景たちばなちかげは単衣の寝間着姿のまま、燃え盛る屋敷内を必死に走っていた。

 黄泉の世界に構えられた木造建築の宮が炎に包まれ、梁や柱は形を失って崩れていく。

 千景は叫び声をあげた。


「誰か……!」


 年は十一。黒髪だが、一本一本が絹糸のように細く、炎の光に反射して透き通った色素の薄い髪色に見えた。背まで届く髪を襟足で一つに括り、長めの前髪からは怯えた瞳が覗いている。顔立ちが中性的であることに加え、年の割には華奢で、少年というよりは少女の方が似合う風貌だった。


 千景は立ち止まり、不安と恐怖で潰されそうになりながら辺りを見渡した。

 普段はい草の香りが漂う畳敷きの大広間は、今や煙が立ち込め赤い炎に覆われている。ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。蒸すような熱さで肌がひりついて、このまま死ぬかもしれないと思うと体が震えて涙が滲んだ。


「母う……」

 呼ぼうとした瞬間、熱気が気道に入り込んだ。同時に煙も吸ってしまい、千景はひどく咳き込んだ。重苦しい咳と喘鳴で、思わずしゃがみ込む。


 一体何が起こったのだろうか。

 千景は母がこの宮で奉公しているため、同じ敷地内の対屋で暮らしていた。

 この夜もいつもと変わらずに眠っていたのだが、急に息苦しくなって目が覚め、そして火が建物を覆い尽くしていることに気が付いた。母は今宵、宿直であったため、千景はすぐさま渡り廊下を駆けて宮に向かったのだった。


 皆は無事だろうか。母は。そして。

 千景の脳裏に眩しい笑顔の幼子の顔が映った。

 大丈夫だと笑いかけてくれて、千景が将来仕えたいと思わせてくれた彼は。


悠幸はるゆき様……!」


 熱気で掠れながらも、千景は渾身の力で声を張りあげた。


「千景か……⁉」


 燃え盛る音に混じって、低い男性の声音が聞こえた。


 ゆらゆらと陽炎のような影が部屋の奥から見えたかと思うと、この宮の主である信人のぶひとが、五つになる息子の悠幸を抱えて現れた。

 眼鏡をかけた穏やかな風貌で、質素な着流しに、黒い長髪は結わずに背中に下ろしている。身長は人並にあるが、療養生活が長いため、体つきはとても細かった。

 千景は僅かながらほっとして声をあげた。


「信人様! 悠幸様もご無事で……!」


 信人は千景を見て、何かを決意する眼差しになると、抱いていた悠幸を降ろした。


「千景……!」


 五歳になる悠幸は、いつも遊び相手になってくれる千景を見ると、抱き着いた。

 千景と同じ寝間着姿で、柔らかい短髪が千景の頬をくすぐる。いつも笑顔を浮かべる大きな瞳が、今は不安げに細められていた。


 信人は大広間のまだ火のついていない畳に手を当て、ある一枚に触れるとがばりと開けた。そこには木の板戸があり、信人がそれを引くと真っ暗な闇が続く抜け穴が現れた。風が吹き上げ、ここから外に繋がっているのだと分かった。

 信人は努めて、穏やかな声で告げた。


「この子を千景に任せるよ。どうか二人で、ここからすぐに脱出してくれ」

 悠幸ははっと顔を上げて、いやだと首を横に振った。

「父上!」

「信人様は……⁉」

 千景も驚いて、尋ねた。


 すると信人は切なく目を細めると、次の瞬間千景と悠幸を包み込むように抱きしめた。

 細く、少し骨ばっているが温かな腕だった。


「私は他の人を助けるから、二人は早く逃げなさい! 悠幸を頼んだよ、千景」


 その声音はこんな非常時であるというのに、どこまでも優しい。

 千景は恐怖や不安を押しころして頷いた。悠幸のことを想えば自分よりも信人がいるべきだと思ったのに、頷かないわけにはいかなかった。

 今は一時的に退いているが、彼はかつてこの世界の王という地位にいた人だ。自分に仕える他の者を置いていくわけにはいかない。


 彼は大切な息子を千景に託したのだ。何としてもその勤めを果たさなければならない。

 信人が離れると、千景は悠幸の手を引いた。

 信人は再び火の手の奥へと向かい、姿が離れて行く。

 悠幸は泣きじゃくりながら、手を伸ばした。


「父上! 父上────っ!」


「参りましょう、悠幸様……!」

 千景は痛む心と共に、託された小さな手を強く握る。そして滲んだ涙を拭うと、悠幸と共に暗くて狭い抜け穴へと向かった。

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