空白のノワール

石橋シンゴ

プロローグ

 その日、屋敷には、主人である領主の悲しみの怒号が飛び交っていた。

 領主の目の前にはメイドの少女が座らされ、やや困った顔で話を聞いていた。

「第三者の仕業だって!? 分かってるさ! お前があんな失敗しないことくらい!」

「いやまー……隠蔽も仕事の内だから?」

 主従関係にあるとは思えない、あんまりな口の利き方で、なかばうんざりしながら答えていた。

「言い訳やおふざけはよろしい! 私が1番悲しんでいるのは、虚偽の報告がなされていたことだ! 問題なく任務遂行したと、嘘をついたんだぞ!? 私達に真実の絆は無いのか!? 形だけの家族なのか!?」

 領主は何か、このメイドに信頼を裏切られたらしく、それを嘆いて、怒っていたようだった。

「だから悪かったってば! そんなに怒ってるとハゲるよ? もう歳なんだし、ね?」

 悪気なく、困り笑い顔で言うメイド。

「はぁ〜〜〜〜…………」

 領主は記録的な長さの溜息とともに、髪の毛が抜け落ちるのを実感した。



 冒頭のやり取りから時は遡って数日前。場所はエスヴェルム王国領南部に位置する港町、ネルヴィア。

 その夜、街は静かだった。

 月明かりが照らした路地には、人影も動物もなく、ただ風が吹き抜ける音だけが、少女の大きな三角形のケモノ耳に届いた。


 少女──銀瞳ぎんとう銀髪の乙女、獣人族ルナーのノワールは、その夜闇に体をひそませて、壁に沿って歩いた。彼女はこの街の出身ではなかったが、仕事柄何回も訪れていたので、道に迷うことはなかった。目的地はもうすぐそこだった。


 そのの内容というのは都度変わるが、今回の彼女の仕事は暗殺だった。今夜、彼女は依頼されたターゲットを仕留めるためにやってきたのだった。


「……この風は、少し嫌な風だな」

 ノワールが忌々しげに呟く。その通り、常に吹き抜けている強い風が彼女の衣服をはためかせていた。

 彼女達の所属する組織では、基本的にメイド服を制服としている。大半の場面で怪しまれず済む職業服で、実際に様々な場所に潜入した経験のあるノワールも咎められたことは滅多になかった。

 便利なメイド服だが、風が強い日は、ばたばたと音を立てて嫌気がさすことがある。


 いよいよ間近まで近付いたターゲットは、この街の有力者である商人だ。彼は裏で悪事を働いているという噂が絶えなかったが、証拠もなく、今までは捕まることもなかった。しかし、彼の敵は多かったのか、とうとうノワールの所属する組織に存在を嗅ぎつけられ、執拗な捜査の末に彼の命を狙うに至った。


「今回の標的は魔族じゃなく、悪の人間だ。……他の人間を、思うさまに苦しめて今の地位を築いたらしい」

 ノワールはターゲットの顔も名前も知らなかったが、指令の時に聞かされた、商人が重ねた悪事だけを反芻していた。彼女にとって、この仕事というのは正義を行う手段であり、悪人を成敗できれば報酬など必要なかった。


 彼女は幼いころから正義の執行者になるべく、強靭な剣士として育てられた。親もおらず、友達も組織の外にはほとんどなかった。

 主人である、エリクという男が師匠として、彼女に戦闘技術や暗殺術を教え込んだ。ノワールは彼に従って、様々な場所で様々な人間に『』してきた。


 今夜の仕事は、魔族ではなく人間の暗殺だ。もはやノワールの実力は、並の人間では歯が立たない領域に達していたから、当人も少し甘くみていた。


 しかし、この日の出来事は、彼女の在り方に大きな影響を与えることになるのだった。



 海と面した崖沿いにそびえ立った、街で一番大きな屋敷──

 ノワールは難なく悪徳商人の屋敷に忍び込んだ。

 彼女の脚力で跳躍すれば、楽々と上階へ登ることができたから、警備員や使用人達を一人も殺さずに最上階にあるターゲットの部屋までたどり着いた。

 彼女は隠密剣士として、そして正義の暗殺者として腕を誇ることができた。


 ノワールがターゲットの部屋のドアを、音も立てずに開けると、中にはベッドに横たわる商人の姿が見えた。

(こんなに醜く肥え太りやがって……正に言葉のまま、私腹を肥やしていた、という訳だ)

 彼は、流石に悪徳商人というだけの恰幅を誇りつつ、いびきをかいて眠っていた。

 枕元に立ったノワールは、音をたてずに剣を抜いて、商人の首筋に狙いを定めた。

「さようなら」

 彼女はいつもの宣言セリフの代わりに小さく呟くと、そのまま頸動脈を見据え、剣を振り上げた。


「……ッ!」

 しかし、その瞬間、ノワールは背中に強烈な衝撃を感じた。彼女は剣を落として、床に膝を付いた。

 痛みと共に上がる筈だった声は噛み殺した。程なくして彼女は自分の背中に刺さったものが、矢だと気付いた。

 気配を感じ取る能力に、自負があったノワールは、自身に全く気取けどらせずに弓を放つ者が居たことに内心で狼狽えた。


「誰だ!」

 商人が叫んだ。ノワールが苦労して声を殺したのも虚しく、彼は物音に気付いて目覚め、ベッドから飛び起きた。余程やましいことがあるのだろうか、枕元に置いてあったランタンを乱暴に取って照らした。


 ノワールと、彼女に矢を放った者の姿が露わになる。


「やぁ、僕だよ」

 場違いな明るい声がした。

 対面の窓から月の光を背負って立つ人影があった。

 ノワールと同じ年くらいで、美しい銀色の髪、軽装の鎧を纏った中性的な雰囲気の少年が、笑顔を見せて立っている。弓は既に背負って、手には短めの剣ショートソードを握っていた。


「誰だお前ら!?」

 あってはならない2名の若い訪問者に商人が尋ねた。

(『』だって……? 用心棒では無いのか。じゃあ……じゃあ何なんだ!?)

 ノワールの心の疑問に答えるかのように、少年は語った。


「僕はアルジェント、君の命を救うために来たんだ」

 名乗った少年はいたずらっぽく微笑みながら、膝をついたノワールを迂回するように回り込んで、商人の元へ近付いた。

「救う? 何を言っている!?」

 商人はまだ、どちらの侵入者も信じていない様子だったが、少年と利害が一致するのが、そう遠くないだろうことはすぐに分かる。


「あの娘が君を殺そうとしていたじゃあないか。でも、僕は君の味方だよ。君の邪悪な手腕が気に入ったんだ」

 少年は床に横たわったままのノワールを指さして言った。


「あのメイド姿の娘が? 暗殺者だと?」

 商人は、にわかに信じられなかった。いつもような少女達と変わらない。しかし、背中の矢に苦しむノワールをよく見ると、十人並以上の美少女だったから、こんな状況にも関わらず彼は舌なめずりをしてみせた。

「そうだよ。君に何か恨みでもあるんだろうか」

「知らないぞ。私は誰も恨んでいないしな」

「そういう問題かな? まあ、どうでもいいや。とにかく、僕が君を助けてあげるよ」

 良くわからない冗談ジョークを流して、少年はノワールの首筋を狙い、剣を振り上げた。


「待てッ!!」

 自ら舞い込んできた、美しくて都合の良い娘だ。殺してしまうのを惜しがった強欲な商人は、咄嗟に止めようとするが、既に少年が少女の首に剣を落とした後だった。


「あははっ! やっぱり思ったとおりだ!」

 しかし、アルジェントが剣を落とし終えた瞬間、ノワールはそこに居なかった。矢を受けて倒れていたはずの彼女は、いつの間にか少年の背後に立ち、無言で剣を振るっていた。

 鉄と鉄の激しくぶつかる音が、部屋に響いた。

 アルジェントは振り向かないまま、右手に持った剣を上げて受け流した。


「どうして動けるんだ? 矢が当たっているじゃないか……それに……?」

 商人はその光景に驚愕して、息を飲み込んだ。

 背中に矢を生やしたまま、少女の髪は真っ黒に変質してしまっていた。耳を立たせ、真っ赤に目を光らせて、少年を睨んでいる。

 これはノワールが生命の危機に陥った時に、しばしば起こっていた身体の変化だ。これまでにも数回変化して窮地を脱したことがあったが、任意のタイミングでこの状態になれる訳ではなかった。


「キミは、高出力の速攻タイプだね。一気にもん。空間超越か時間停止ができるらしい。面白い!」

 ノワールが目に見えないような速さで剣をふるうと、辺りに破壊の衝撃が広がった。

 アルジェントは喋りながらも器用に斬撃をいなしていたが、さっきまで『助ける』と宣言していた悪徳商人との約束は反故になった。彼は呆気なく、凄まじい斬撃に巻き込まれ、盛大に血飛沫をあげて事切れた。

「あーあ……まあしょうがない、じゃこうなるよね。ねぇキミ、ここは狭すぎる。屋上うえで話そう」

 そう言ってアルジェントは窓から屋上へ跳んだ。彼の髪の毛も気付けば少し、黒く変容しつつあった。


 ノワールが天井を斬り裂いて屋上に現れると、少し離れた距離にいるアルジェントは語った。

「キミの組織に、商人の情報を流したのは僕だ。実は悪徳商人あんなやつは二の次なんだ。ノワール、キミを待っていたんだよ!」


 すっかり黒くなったノワールの耳が動いた。


 彼女は元々、自分の名前も知らない記憶喪失だった。

 何も分からず廃墟の街を彷徨っていたところを、ある男に助けられた。その第一の恩人である騎士から「ノワール」という仮の名を付けられた。

 それが彼女にとって初めて与えられた、最も大切な記憶であり、唯一の名前であった。

「お前、知った風だな……。私の何を知っているというの?」

 背中の矢を事も無げに抜きながら問いかけた。自身の黒髪化たいしつや出自については、組織で調べても何1つ分からなかったから、少し興味を惹かれた。

「さてね? 僕に勝ったら教えてあげようか?」

 アルジェントが、にやっと笑みを浮かべて弓を放つと、それが再度開戦の合図になった。



 ノワールは速射された5本の矢を、目にも留まらない早業で同時に落とした。

(いや、同時だ。僅かに時間差がある。……これは、嬉しいやら残念やらだね)

 アルジェントが回答を後回しにして戦闘を再開させたのは、ノワールを値踏みするためだ。

 矢を落としたノワールは強烈に踏み込んで、なにやら分析していたアルジェントの目の前に躍り出た。彼女は剣を雄牛のように構えて、不可視の連続突きを放った。

 彼もまた、先程より黒く染まりつつある髪の毛を揺らして、素早く身をかわしたり、手に持った弓を犠牲にやり過ごした。

「キミは何もかも覚えていないのかい? 僕とキミは、なんだ」

 アルジェントは使い物にならなくなった弓を捨てて剣に持ち替え、ノワールの苛烈な攻撃をしのぎながら言った。


「同じだと? 髪の色が変わることがか?」

 ノワールは尋ねながらも、攻撃の手を緩めない。

「ははっ、そんな上面うわつらの近似性についての話じゃないんだ」

 彼女は彼の顔を見て、何か違和感を感じた。彼は笑っているように見えたが、その笑顔には苛立ちが隠されているようだった。


「僕と同じ存在のはずなのに、どうして、キミは……傾倒している……ッ」

 分裂したようにすら見えるノワールの、怒涛たる剣幕ソード・カーテンは激烈で、ついに対峙する少年の剣を弾き飛ばした。


「流石に強いな。しかし君の方も、どうやら限界みたいだね。事前に時間を稼いでおいて良かった」

 アルジェントは、ノワールの髪が急速に銀色へ戻っていくのを確認して安堵した。指摘された当の本人は髪の色のことなど知らないが、全身から力が抜けるのを感じ、剣を杖代わりにして膝をついた。

「うん、出力の仕方がまだまだだな……。僕に着いてこい。教えてあげるよ、その力の使い方も、正しい使い途も。もちろん、我々がどういう存在なのかもね」

 下を向いて肩で息をするノワールのあごを持ち上げて、アルジェントがそう提案する。


「私は……」

 ノワールの返答を待たずして、次の瞬間に2人の間を稲妻のような何かが降り注いで、轟音と砂煙で遮った。

「……空からの槍。管理者アドミン異常者アノマリーか、厄介だな……ノワール、僕は退散するよ。また必ず会おう」

「……ま、待て! 私は……私は一体、何なんだッ!!」

 ノワールの問いも虚しく、彼はそう言い残して、その場から


「ノワールちゃん! お怪我はありませんの!?」

 空中からふわりと、お嬢様言葉と同時に、見事なプロポーションを誇るメイドが舞い降りて槍を抜いた。

 ノワールの仲間で、何も無い空から人間を降らせるなんていう超常現象を起こせるのは1人しか居ないために、誰が助けに来たかすぐに判明した。

「ミリカ姉! ……と、アンリかな? ……助かったよ、怪我は大したことないけど、危なかった」

 頼りになる味方がノワールの危機に駆けつけてくれ、彼女の身に深刻な危害が及ぶことはなかった。

「アンリお姉様が、急にいらっしゃって、わたくしをこちらへ送ったのですわ」

 ミリカはここぞとばかりにノワールを抱きしめて、身体を一通りまさぐると、怪我がないことを確認して安堵した。

(……この背中の衣服の破れと血痕は、矢が刺さったような跡……しかし、肌はいつもの通り、たまのようですわ)

「ちょ、ミリカ姉! 触り方、くすぐったいってば!」

「はっ!? も、申し訳ありませんわ! わたくしとしたことがつい……その、チャンスでしたもので……」

 必要以上にノワールの身体を撫で始めていたミリカは、謝罪すると同時に手を引っ込めた。


 激しい攻防があり、物音もしていたはずの屋上だったが、警備員の1人も現れないのが妙だった。

 更にノワールは、屋上に出る前の、自身と似た銀髪の少年が現れた辺りの記憶が曖昧だったから、下に降りて任務が遂行されているのか確認することにした。

「これは……ノワールちゃんらしくはありませんわね」

 ミリカは破壊的な階下の状況を見て、思わず口に出した。

 ボロくずのようになったターゲットの惨殺体、ズタズタに引き裂かれた部屋。ふと過去にあったノワールとの闘いを思い出して状況を重ねた。

「私がやった、のかな……?」

 部屋の外が、にわかに騒がしくなってきた。

 ノワールよりも良く聴こえるケモノ耳を持ったミリカは、いち早く静かに部屋のドアを少し開けて、あらかた周囲を見回した。

「!!」

 至る所に放置されている警備員や用心棒の類の死体。その全てがおびただしい量の血溜まりを形成していた。

は、まさかノワールちゃんが……?」

 ノワールもやってきて、ミリカの胸のあたりから顔を覗かせて外の様子をうかがった。

「違う、私の潜入は完璧だった……あいつアルジェントがやったんだ……ひどい、なんで……あの人達に直接の罪は無いじゃないか!」

 誰もが抵抗なく殺害されているようで、少年の能力と残虐性を覗わせる。

 しかし、それよりも正義を感じさせない、その手腕がノワールを憤らせた。


「居たぞ! 最上階だ! あいつらが犯人に違いない!」

 誰かが2人のメイドを見つけて叫んだ。

 それを合図に、通報によって駆け付けてきていた騎士達や、無事だった使用人達の視線を一所ひとところに集めた。

「ま、マズイよミリカ姉……」

 ノワールは青ざめた。

 2人が居た最上階は、袋小路だ。ミリカは冷静に辺りを見渡して、逃げ場が無いことを確認した。

「やむを得ませんわ! 飛びますわよ!」

 再び屋上に舞い戻り、2人で深い深い断崖を覗く。

「これは……難攻不落の絶壁ですわね。飛び降りる……なんて言いましたけれど、できれば遠慮したいですわ」

 ミリカは大きく溜息をついた。

「居たぞ、メイドが2人だ!!」

 早くも追いかけてきた騎士達と、眼下に広がる悪夢のような暗い波飛沫を見て覚悟を決めた。

「ね、ね、ミリカ姉、いっせーので……わぁーー!!」

 ノワールが飛び込むタイミングを図ろうとしたが、ミリカの判断は早かった。そのまま少女を大切そうに抱きかかえると、屋上のへりを蹴って飛び降りた。

 ノワールの断末魔は、少しの間反響してから途絶えた。


 ややあって、騎士達は2人の落ちた深淵の海を見渡して結論を出した。

「……飛び降りた。犯人はこの屋敷のメイド2名、に耐えかねたのか大勢を殺害。最期に主人を惨殺し、崖下へ投身した。今夜は時化しけだ、もう浮かんでこないだろう」

 この屋敷で働いていたメイドが起こした犯行ならば、警備員達が抵抗もなしにやられていた説明がつくから、にされた。そう簡単に片付けられるほどの根拠となる従者からの通報も、今までに充分あった。

 騎士達は状況を確認して、手際よく現場の処理を開始した。


「はぁっ……き、きつっ!」

 空の白む頃、ノワール達は川辺で大の字になって、胸を上下させていた。

 彼女達が上陸したのは、組織の本拠地があるミントグラスと、港町ネルヴィアとを繋ぐ大河を遡上した、中間ほどの位置だった。

「ふうっ、流石にこたえましたわね……この距離の着衣水泳は……」

 ミリカは崖から飛び降りたあと、水面に激突する寸前で壁面を思い切り蹴って、衝撃を分散させることに成功した。

 大量殺人の容疑者として捜索されている可能性も考慮にいれ、そこからは気力と体力の保つ限り、上流への遠泳となった。

 2人は、焚き火で衣服を乾燥させ、特にノワールは、主人のエリクにどう報告しようか迷いながら帰途についた。

「嘘の報告しとけばいいや! バレたらその時に謝れば良いでしょ!」

 そう適当に考えて、結果は冒頭の通りになった。

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