第5話 私が私の死を見送る

 まるで心臓が掴まれてしまったようだ。胸元を押さえて固まれば、全身からどっと汗が噴き出し流れ出す。

 どうして、と何度も繰り返す間にも女――女神の補佐官たる巫女長の声は止まない。


「これは名誉だと心得なさい。只人であれば神の恩恵にあやかるには、類い希なる幸運がなければなりません」


 いままでは「殺された」としか自覚のなかった前の自分。だがこうして声を聞けばはっきり思い出せるが、女は巫女長で間違いない。ちょうど死角になっているから向こうを、女神に拝謁するための広間を見ることができる。

 幾重もの薄布でできた垂れ幕の向こう側には杖を持った巫女長と、横並びになった五名の候補者達。そのうち四名は堂々と胸を張っているけれど、一人だけ、その場にまったくそぐわない格好をした女がきょろきょろと辺りを見回している。

 黒髪を染めた控えめな茶髪に、この世界では見かけない服装は紛れもなく地球人類を代表するスーツスタイル。彼女は仕事中に眠気を感じて欠伸をした。両目が重くて軽く目を閉じ、瞼を持ち上げたらこんな変な広間に立っていたのだ。

 アレッシアは知っている。なぜなら――。


「あ、あのすみません! まったく、その、意味がわからないんですが!!」


 嘘、と小さく呟いた。

 おかしい、そんなはずはない。なぜならアレッシアはここにいる。この広間に召喚され、女神の後継になることを強制され、反抗したら殺された女は彼女だ。


彼女が前のアレッシアのはずだ。


「ゆ、ゆめ? これって夢なの!? え、そうよね。夢じゃないとこんなの変よね。にしてはおかしくない。実感伴いすぎじゃない?」


 混乱するのも無理はない。このときの彼女は夢だと思った現実に不安を募らせていた。巫女長の咎める視線、他の候補者四人からの睥睨する眼差しに、まったく意味がわかっていなかった。


「名もなき五つめよ。そなたに喋る許可は与えておりません、黙っていなさい」


 それはあんまりだ――と思ったはずだ。

 その上、このときの彼女彼女は自分の名前が思い出せなかったはず。

 声のない悲鳴に胸が痛むのは声を封じられたから。はくはくと口を動かせば巫女長が再度杖で床で叩いた。


「許可は与えない、と言ったばかりです。我らが女神の前で不敬ですよ、気をつけなさい」


 アレッシアはズキズキと痛みはじめた頭を抱えながら記憶を掘り起こす。

 そうだ、どうして忘れていられたのだろう。

 少女は女神に会ったことがないといっておきながら、実は声を聞いている。

 なぜならここで「運命の女神」が巫女長を止めた。

 

 ――良い。


 玲瓏で感情が乏しく感じさせる女の声。

 たったひと言が一同の感情を黙らせ、跪かせた。アレッシアの位置から姿は見えないが、どのみちたくさんの薄布でできた垂れ幕に覆われ隠されていたはずだ。


「許そう。それはニルンの者ではない。素養があったゆえにアースより呼び寄せた無知な子である。従って神の慈悲を手向けてやる必要があろう」


 巫女長は反論しないが、その気持ちはわかる気がした。声を聞いているだけでアレッシアもひれ伏してしまいたくなる感情が湧いているのだ。垂れ幕越しとはいえ対面している人達の思いは計り知れない。

 その例外があるとすれば、先ほどその神が告げたアースとよばれる向こうの世界から呼び寄せられた人間なのだが……。彼女は跪き顔を上げない周囲に、慣れぬ宗教観を感じ取り気味悪がっている。

 女神は「選択をやろう」と言った。張り上げすらしない、決して大きくない声なのに一言一句耳に届くのが不思議だ。

 このときのアレッシアはほとんど「前の自分」に同調していた。息をするのも忘れるくらいに拳を握りしめていたから、巫女長がアレッシアの隠れる方角に視線を向けていても気付けない。


「常ならば神の威光に反するなど許されぬが、お前には後継となる素養がある。我が許にて学び、励み、神の座を競うならば恩寵を与えるが、拒むというならここで降りたとみなす」

「はぁ?」


 嗚呼。このときは気付けないが、この返答は確実に周囲の心証を悪くした。空気が凍る気配が伝わったが、彼女はいや、と繰り返す。


「いやいやいや、なにいってるの。ちょっとあなたがた頭がおかし……あの、私は宗教とか興味なくてですね。なんというかお断りなんです」


 手の甲をつねって痛みを確認している。主人たる神はなにも言わず問うた。


「お前の選択はふたつ。従うか、拒むかだ」

「いえ、意味わからないんで帰してください」

 

 以降、垂れ幕からの声は無い。

 他の人々も黙ってひと言も発さず、彼女の不安は怒りに変わる。ほとんどパニック状態になるまで記憶の通りで、アレッシアは胸が痛い。この先の彼女の言葉は……。


「帰してってことは従えるわけないでしょって意味! 宗教ごっこはよそでやってください」


 広間に怒号が響き、同時に答えがもたらされた。


「我が施しを与えるには値せぬとみなされた」


 一同が立ち上がり、巫女長が垂れ幕に向かって恭しく頭を垂れる。そのまま巫女長は四人に向かって話しかけ、彼女の存在はまるっと無視だ。彼女はえ、とかちょっと、とか声をかけるが、それらすら見向きもされない。

 最終的に帰して、と声にしたのを最後に広間から追い出された。入り口には兵が立ちはだかり、決して女を通さない。半泣きの彼女はわけもわからず、行く当てもなく廊下を歩き出す。

 これを受け、状況に怯えすくんでいたアレッシアの足も動き出す。不思議だが彼女を追いかけねばならないと感じた。他の人々に気付かれぬよう回り込めば廊下に出られたが、どうして広間から出られたかは少女本人もわかっていない。

 すでに『彼女』の姿はないが、記憶を頼りにすれば追いかけられる。途中見ず知らずの兵に見つかったが、兵士はぎょっと目を剥くあいだに走り出している。


「こっちだったはず……!」


 たしか、たしかだ。

『彼女』は歩くにつれてやっと冷静になりだした。

 夢ではなく現実なのかと抜き身の槍をもつ兵と距離を取りはじめ、加えて服装の違いから白い目で見られるのに気付き、人目を避けて裏に逃げた。

 どうして『彼女』が神殿の人々に止められなかったのかは不明だ。ただ事実として神殿を自由に歩けたのだから、ありのままを受け入れるしかない。

 走っているとまたズキリと頭が傷む。

 そのあと彼女はどうしたか。いくら経っても元の世界に戻れないから足元が定まらず、それがもとで躓き、足首を捻った。緊張の限界で泣きながら休める場所を探していると、黒いフードを目深く被った老婆と出くわした。

 会話はあまりなかった。

 むしろこの時すらよくわからぬ言葉をかけられたが、聞き返す余裕はない。

 アレッシアの身心にも変化が出る。

 頭痛がなくなった代わりにお腹が痛くなった。鋭い痛みは幻覚だが、なぜそんなものを感じたのか、アレッシアはやっと理解できる。

 彼女は男に名を呼ばれ、振り向いた瞬間にお腹を刺された。

 相手は燃えるような赤毛の青年で、見た目は十代後半ほどと若々しいが、他の者に比べ出で立ちは立派だった。すぐに刃を引っこ抜くと、つまらなさそうに鼻を鳴らす瞬間まで鮮明に思い出す。

 そして角を曲がった瞬間に、アレッシアはそれをみた。

 もはや自力で立っていられず、お腹から血を流して地面にひれ伏すスーツ姿の女性をだ。

 叫んだ。

 アレッシアはここにいるというのに、自分が死ぬと思うと感情が溢れかえった。

 なにせこのときになると鮮明に思い返せたからだ。

 彼女は怯えていた。こんな無茶苦茶な状況で非難の目を向けられるのも、知らない人達に囲まれるのも、お腹に刃物が突き刺さって倒れた瞬間も、すべてが怖かった。

 ただ帰りたかった。

 どこかに伸びた手は、誰に伸ばそうとしたものか。

 駆け寄り、衣装が血で汚れるのも厭わず跪く。


「お願い、だめ、だめよ。死んじゃだめ、気をしっかり持って」

 

 混乱する脳はいま目の前にある出来事をうまく処理できない。従って脳から身体への伝達も曖昧で、お腹の傷口を塞ぐべきはずの行動もとれず、手を握るしかない。もはや助かる見込みのない致命傷に、目から光が失せていく。

 それを見て、アレッシアは叫ぶ。


「あああああ! 待って、待って待って待ってお願い!」


 錯乱する精神を落ち着けなければならないとはわかっているが、いざ死に行く自分を前にして、どうして取り乱さずにいられようか。

 けれど少女の想いも虚しく、彼女の息はか細くなっていく。ぼたぼたと涙がこぼれて止まらずにいると、女の身体が地面に呑まれ始めた。

 アレッシアの記憶はここで終わっているから、この先は知らない出来事だ。よく見れば地面が漆黒に染まり、底なし沼に落ちるように女の体が沈む。アレッシアは相手を持って行かれまいと必死に掴むが、努力も虚しく妨害された。


「やめておけ、そこから先は死界の領域だ」


 声が降りかかり、アレッシアの身体が持ち上げられる。赤髪の男が少女を掴み、無理矢理目線を合わさせていた。


「よくわからないんだが、その出で立ちを見るにお前は運命の子飼いか? なんでこんなところにいるかは知らんが、くだらないことに時間を使ってないで中に戻れ。こんなものに触れてたらお前が穢れる」

「こんなもの? こんなものってなによ。この人はなにもしてないじゃない!」


 この間に女の身体は完全に消えてしまった。

 頭に血が上り、たまらず言い返したアレッシアに赤毛の青年は困った様子で頬を掻く。


「……そんなこと言われても、これが俺の役目だしなあ」

「ふざけないでよ! 人を殺しておいて……」

「まあ神に逆らうクソ度胸は買ってやるが、誤解はするなよ。あんな人間はどうでもいい。こんなものってのはさっきの黒いヤツ、死の国から染み出す泉からの出迎えだ。もう少し邪魔を続けてたら、お前ごと連れて行かれてたぞ」


 半眼になりながら、同じ目線になるまでアレッシアを持ち上げる。

 明らかに不服げな青年は「で?」と少女に問うた。


「運命の子飼いは随分無礼に見える。わざわざ見ず知らずの子供を助けてやったこの戦神に、礼のひとつも言えないか」


 戦神の名で浮かんだのはこの世界を支える主神の子、神の一柱たる戦神ロアだ。アレッシアは一瞬ひるんだが、名を名乗っただけでいかにも偉そうな態度に怒りがぶりかえす。

 動きにくい体勢で、身を捩って振り子の要領で体を動かした。

 この世界で目覚めて以降の苦労が呼び起こされ、すべての恨みが一点に向かう。


「死ねぇ!!」


 少女の拳が男の顔にクリティカルヒットした。

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