第26話

  オーバーライド、コマンド入力。

  *36 *8 *1* 5**

  《優先コードを受理しました。身体制御権限を移譲します》

 

 そして、俺は「目を開け」た。


 目の前に、ベルカがいる。鏡に映った姿でも、モニターに映った映像でもない。


 生身のベルカが、俺の目の前にいた。


「……ユーリ?」

「あ、あぁ……」


 普段の声より数段高い。まるで女性の声で、俺は答える。声が大気を震わせる感覚に、懐かしさより戸惑いの方が大きい。


 俺は、ルゥの身体を操作していた。


 奇妙な感覚だ。俺の身体の感覚はまだベルカの頭の上にあって、それに加えてルゥの義体からの情報も流れ込んでくる。身体が二つあるような感じがして、混乱しそうだ。


『上手く片方に集中して。雑踏の中から誰かの声を拾い上げるように』


 頭の中に直接響くルゥのアドバイスに、俺は感覚を集中させる。混ざり合ってしまいそうな五感の情報を、丁寧により分けていく。


 徐々に、感覚が鮮明になってくる。

 俺は身体を動かす。正確には、動けと指示を出す。

 今の状況は、ルゥの身体をラジコン代わりにして動かしているようなものだ。高性能義体であるルゥからあらゆる五感が流れ込んでくるが、俺の精神がルゥに乗り移ったわけではない。


 だが、それでも、これは……


「ベルカ……」


 名前を口にする。

 喉が震え、唇がこすれ、言葉が空気を震わせベルカに届く。

 そっと手を伸ばす。ルゥの細く美しい指が、ベルカの頬にあと少しで触れる。

 

 本当に、これで良いのか?


 差し伸べた手が震えた。

 俺は、戻れなくなるのではないか。

 わずかなすき間を隔てて、ベルカの体温を指先に感じた瞬間、不安がわき上がってきた。

 ベルカの体温を、肌の柔らかさを指先で感じることに惹き付けられてしまったらどうしよう。心地よさを感じるために、身体が欲しいと思ってしまったらどうしよう、と。 


 止まっていた手を、柔らかな熱が包みこんだ。

 ベルカが、凍り付いていた俺の手を取り、頬に当てていた。


「あ……」


 その瞬間、俺が感じ取ったものは、きっとベルカが写真を見た瞬間に得たものと同じなのだと思う。


 判った。

 それがベルカであると。

 一気に記憶がよみがえった。

 俺は、いつだってこの感触を忘れたことはない。


 手の震えは止まっていた。

 彼女の頬の柔らかさを手の平で感じ、しなやかな髪の感触を指の間にまとわせる。

 頭の上の三角形も、その毛並みの豊かさをしっかりと味わう。

 俺がここに触れるのは、俺がベルカに身体を捧げたあの森以来、二度目だった。

 ベルカを、俺は抱きしめた。

 彼女の華奢な身体に宿る熱量を、確かな息づかいを、鼓動に合わせて振動する胸を、俺は感じ取った。

 ベルカの頭を撫でる。


「すまなかった……お前を、不安にさせた」


 腕の中で、ベルカがふるふると首を振った。


「ぼくに……ユーリを責める資格なんてない」

「そんなこと、言うなよ」


 笑って俺はベルカの頬をつねる。ベルカが驚いた声を上げ、目を白黒させる。

 この感覚は懐かしい。この感触は、温度は、匂いは、涙が出るほど愛おしい。

 でも、俺が普段感じているベルカの方が、ずっと近くて、もっと温かかい。

 俺は、自分のいるべき場所を、そのときはっきりと自覚した。

 ベルカを抱きしめる力を強めて、もう一度頭を撫でる。そして、言うべきことを言う。


「俺も、お前のことが好きだよ。ベルカ」


 ベルカの身体が震える。

 すん、と鼻を鳴らして何度も頷く。顔を上げ、鉄錆色の瞳を潤ませて、言う。


「ぼくに帰ってきて、ユーリ」

「ああ、喜んで。ベルカ」


 《オーバーライド権限を破棄、身体制御を移譲します》


 ベルカが俺を撫でる。指先が触れる愛おしい感覚が、超高感度の万象記録素子センサである俺には解る。


 ▽ただいま。

「おかえり」


 ベルカは頬に雫を伝わせながら、笑った。




    *       *       *




「いいー? 撮るよー」


 ファインダーを覗き込んだルゥが合図する。


「はい、チーズ」

「チーズってなに?」

 ▽ミルクを発酵させた乳製品。パンに乗っけたりするとうまい。あと酒のつまみにいい。

「ふ、ふーん……? へぇ、そうなんだ……」


 なんとなくそわそわした様子で、ベルカが呟く。ルゥのお茶で味を占めたのか、食べ物に対する興味を持ち始めたらしい。


 意外と、そのうち食べ物好きになるかもしれないな……。


「ねえ、もう一回撮るよ~?」

「あ、うん!」


 写真を撮って欲しいと言い出したのはベルカだった。その申し出にルゥは喜び、戸棚を漁って年代物のポラロイドカメラを発掘してきた。


「今度は笑ってね。はい、チーズ」


 フラッシュが瞬く。




「もう少しゆっくりしていけば良いのに……」


 旅支度を調えた俺たちを、ルゥは小屋の玄関で名残惜しそうに見つめた。


「ありがとう、でも、行きたいの」

「そっか、わかったわ。二人がいない間の小屋の管理は任せて」

 ▽すまん。よろしく頼む。

「いいのいいの。それがあたしの仕事だもの……でも、良かったの?」

 ▽なにが?

「あの写真。せっかく取り戻したのに……」


 心配そうに訊ねるルゥに、ベルカは笑顔で頷く。


「いいの。だって、見たくなったら戻ってくればいいんだから」 

 ▽だってさ。

「そう。じゃあもう心配しないでおくわ。それで、二人はこれからどこに行くの?」

 ▽オキナワ経由で列島に渡ろうと思ってる。

「列島? あっちは《教会》の支配地域が多いから、気を付けてね」

「うん」

 ▽あぁ、そうするよ。


 立ち去ろうとした俺たちに、ルゥの声が飛んできた。


「ベルカ! ユーリ!」


「なに?」

 ▽なんだ?


 振り返った俺たちに、小屋の前に立ったルゥが笑顔を浮かべた。


「いってらっしゃい」


 彼女の背後、開け放たれた小屋のドアから、部屋の中が見える。

 いままで飾りっ気のなかった壁には、真新しいコルクボードが貼り付けられている。

 そこには二枚の写真が、少し重なるようにしてピンで留めてあった。

 どこかの公園のベンチに座る少年の写真と、ソファに腰掛けて静かに微笑む少女の写真。


 二人は重ねて繋がった写真の中で、仲良く寄り添っていた。


 それを見つめて、ベルカも微笑む。


「いってきます」



                 第一章 『出発 Photo frame house』 完

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