10

「どうした。毒など入っていない」


 元敵対国の王太子はそう言って、自分のカップを傾けた。その仕草は意外なほど優雅で、ますますミレイアの調子を狂わせる。


 ――毒が入っているのではというのは、むしろこちらの言葉だ。

 テンペスタにとって取るに足らぬ相手であったとしても、ここはリジデスであり、テンペスタの王太子であるラウルこそ毒を警戒しなければならないはずだ。


 だがミレイアはそれを声に出す愚は犯さなかった。黙って、自分のカップも傾けた。


 連日そうしているように王宮に呼び出されたかと思えば、今日は茶会だという。

 参加者はむろんラウルとミレイア、そして数名の護衛が離れたところに控えているだけだった。


 黒の死神といわれるほどの武人でもある男が、この長閑のどかなリジデス王宮の庭で茶会などというのは、なにか悪い夢でも見ているのかと思えてくる。


 ――求婚を受けるよう、国王や宰相が命ずることはラウル自身が厭っているとのことだった。


 連日、ラウルがこのようにミレイアと会うのは、どうやらで求婚に応ずるよう仕向けたいという意図があるらしい。


(わけがわからない……)


《力の刻印》目当て、あるいはただ手の込んだ遊びといわれたほうがよほど納得する。


「それで、気が変わったか? 我が未来の妃殿」

「! だ、誰が妃だと……!! 戯れもいい加減になさいませ!」

「存外、焦らすのが得意と見える」

「!? 焦らしてなど……!!」


 ミレイアは真面目に反論しようとしたが、当のラウルがいたって涼やかな顔のままだった。半ば脱力して、ああもう、とうめいてカップを再び傾ける。

 ラウルはどうやら、こちらの返事を待っているくせに、否という答えは受け取るつもりがないようだった。


 ミレイアはじとりと男を睨んだ。


「……誤解があるようですが。この《力の刻印》は、効果は強大ですが、非常に扱いにくいものです」

「ほう。己が魅力や長所を語りだすとは、いよいよ求婚を受ける気になったか」


 さらりと言われ、ミレイアは一瞬絶句した。

 ――自分の魅力。長所。


(どうしてそうなるの!?)


 わけもわからず、頬が熱くなる。


「人の話を、曲解しないでください! 嘘偽りなく申し上げますが、たとえばこの刻印を自国の兵に適用したいなどとお考えでしたら、それはきわめて困難で――」

?」


 ふいにラウルの声が低くなり、言葉を遮った。

 すっと背筋が寒くなり、ミレイアは口を閉ざして硬直する。


 黒王子の端正な顔から、冷笑が消えている。


「俺が欲しているのは、馬鹿げた刻印を四か所も身に刻んでなおも使いこなす女だ」


 ひゅっとミレイアは息を詰まらせた。

 耳を疑い、半ば呆然とする。


 だがやがてゆっくりと毒が回ってゆくように、ラウルの言葉が体に浸透していく。


 ――魅力。長所。刻印ではなく、それを刻んだこの体。


(刻印を持った私……)


《四印の聖女》そのものが欲しいと言っているように聞こえる。

 ――消えない刻印を刻んだままの、ミレイアそのものが。

 

 否。四つの刻印に耐えられたのが自分だけであったというだけで、刻印に耐えられれば別の人間でも同じだろう。

 そのはずなのに。


 でも。


『剣を交えた。それが何よりの理解だ。俺は貴様を知った。貴様も俺を知った。他に何が必要だ?』


 ――あの言葉を、否定するだけの力が自分の中にないことに気づいてしまった。


 エミリオの言葉とはまるで真逆だ。エミリオが見てくれているのは、刻印のない、ただのミレイアであるのとは対照的だった。


 だから。


「……殿下は、私を過大に評価しておいでだと思います」


 ミレイアはようやく、その言葉を絞り出した。

 ラウルがかすかに息を吸い、唇を開く。反駁(はんばく)しようとしたのか、そうでないのか。だがやがて、倦んだような吐息と共に予想外の言葉を吐き出した。


「どのように?」


 短い返答に、ミレイアは唖然とする。

 ラウルはやや退屈そうに、あるいはどこか思案するように、頬杖をついてミレイアを見つめていた。


「どのように、俺が評価を見誤っていると?」

「そ、それは……ですから、」

「ただの非力な女が、激痛をもたらすという刻印を四つも耐えられたとして、なぜ耐えられた? あるいは生まれつき恐怖心や痛覚が鈍かったとでも?」


 たたみかけるように問われ、ミレイアは口ごもった。思いもしない形での不意打ちだった。

 ――まるで、尋問でもされているようだ。

 勝手に期待され、勝手にいまこのように失望されようとしている。


 とっさにミレイアは反発し、ラウルを静かに睨んだ。


(……でも、ここで誤解を解いておくべきだわ)


 失望され、求婚が撤回されるならむしろそれでいいはずだ。

 ミレイアは少し長く息を吐き、言葉を選んだ。

《力の刻印》を求めた理由。その動機。


 国を守るため。王に仕えるため。忠誠。愛国。

 聖女としての、正しい理由はそうだった。


 だがいま、貫くように直視してくる男に対して、その理由はあまりにも薄く脆いものに思えた。後からきれいに被された作り物の理由であることがすぐに見抜かれる。そんな気がした。


「……他に、選択肢がなかったからです。何の地位も権力も才能もない女が、戦うためには常軌を逸した力が必要でした。私には、守りたいものがありましたから」


 ――心配性な、子煩悩な両親。親しくしてくれた友人。サリタ。エミリオ。自分の身の回りの平和な世界。


「それだけか?」


 ラウルが短く追及する。

 はっとミレイアは顔を上げた。

 言葉だけ聞けば侮辱されているようにも思える。だが、男の目は深く吸い込むような色のまま、ミレイアをうかがっていた。


 もっともらしい、表層の言葉では納得しない。

 ラウルの眼差しや声は、無言のうちに迫り、ミレイアのうちをかき乱す。

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