第5話

 アリアは剣を抜き、大地を蹴った。

 白い何かが地面についたときが開始の合図。それまで剣闘士は、武器を抜くことも動くことも許されない。

 そんなことは常識だ。もちろんアリアだって知っている。何年もそのルールの下で闘ってきたのだから。

 だけどそんなことはどうでもよかった。

 呆気にとられる三人の仲間と観客を置き去りにして、アリアは高く跳ぶ。

 そして、支配人が投げた白い何かを真っ二つに切り裂いた。中身らしい白い粉が降る。

「……っ、アリア!?」

 着地した直後、我に返ったサラが叫ぶ。観衆と支配人の罵声が、闘技場を満たす。

「衛兵、捕まえろッ。規則を破った奴隷どもは、みなもろとも死刑だッ!」

 支配人の野太い声に応えて、今出てきたばかりの四つの門から何十人もの衛兵が現れる。

 そのすべてが、アリアにとっては雑音で、どうでもいいものだった。

「ねぇ、ヒカ、サラ、ユーリ」

 抜き身の剣を鞘にしまうことなんてせずに、ふと呟く。振り返ると、三人の瞳には飾らない感情が輝いていた。

 驚き、呆れ。

 そんな光を受け止めて、アリアは口を動かす。

「私は、みんなで生きたいよ」

 そのとき、一人の衛兵が斬りかかる。しかしアリアの鮮やかな剣筋に、防御もままならず血の花を咲かせて倒れた。分厚い鉄の鎧に身をかためていたとしても、そのわずかな継ぎ目を的確に狙うアリアの剣に、周囲の衛兵は半歩退く。

「みんなを殺すくらいなら、まわりにいる衛兵と観客と支配人を全員殺して自由になりたいよ」

「アリア……あなた、何を言ってるかわかってるの?」

 サラが目を見開いて尋ねる。微笑んで、首を振った。

「この先にどんなことがあるのかだなんて、私は知らない。何もわかってないよ?」

「ならどうして!?」

「でも、みんなと闘いたくない」

 それだけ、わかってるから。

 今度は二人の兵士が同時にアリアに斬りかかる。またもやきらめいた両刃の剣により、血飛沫を上げて倒れた。

「ごめんね、巻きこんじゃって」

 ここまで啖呵を切っておいて何を今更と言われるかもしれないが、知識がないことが裏目に出ていた。さすがに闘技のルールを破ればただじゃすまされないだろうとは思っていたが、まさか剣闘士全員の死刑になるとは。

 それじゃ、誰かひとりが生き残る闘技よりもタチが悪い。

 ひとりでこの衛兵を全て片付ければ、まだ可能性はあるけれど、そうこうしているうちに街の憲兵やお偉いさんの側近たちが参戦してくれば厳しい戦いになる。

 どうしようか。

 内心、アリアは焦っていた。開始の合図を知らせる白い何かを切って周囲が騒然としている間に、さっさと支配人を殺して闘技自体を中止にさせる予定だったけれど。

 つう、と頬を汗が伝う。

「何をしている、衛兵ども! さっさとこいつらを殺せッ!」

 支配人と観衆からの罵声に近い声が、恐怖に動かなかった衛兵の足を動かす。十人を超える数の衛兵が一斉に襲い掛かってきた。

 まずい。十対一は、さすがに。

 降りかかる剣の雨を避けて、一歩、二歩と踏み出す。重みを利用して左右に波打った刃は、二人の命を散らす。

「終わりだッ!」

 次の敵は、と振り返った途端、頭上から大振りの剣が降ってきた。白く輝く刃、鬼のような形相の兵士、その背景は同じように顔を歪ませた観客と、青い空。

 昨日殺したシュヴァゲイルの顔を思い出す。

 これが、最期の景色というやつなのだろうか。

 死を自覚すると、体がぴくりとも動かなかった。ただ迫りくる剣を見つめて、最期を待つだけのコンマ数秒がこんなに長いなんて。

 まぶたさえも動かず、開かれたままのアリアの瞳が捉えたのは。

「アリア!」

 空を飛んだ、ヒカの影だった。

 硬直からとけて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。目の前にいた衛兵はすでに事切れて地面に血だまりを作っていた。

 血だまりを挟んで立つヒカの短剣は赤に染まっていて、鈍く光っている。ヒカ自身はいつもの柔らかい笑顔を湛えて、まるで太陽のように佇んでいた。

 ザン、ザシュ、なんて剣が何かを切り刻むような音が聞こえて後ろを振り返ると、サラとユーリも華麗な立ち回りで衛兵を葬っていた。

「アリア」

 ヒカが側に来て、耳元で囁く。

「アリアは強いねぇ。ボクたちがとっくの昔に無理だって諦めてたこと、やっちゃうなんてさぁ……ありがとう」

 今だと飛び掛かってきた衛兵は、ヒカが鋭い突きをお見舞いして殺される。

「やっぱ死にたくないし……殺したくもないよねぇ」

「……うん」

 背中に触れた手のひらが、なんだかとても温かくて、自然と笑みがこぼれる。

「アリア!」

 サラが器用にウインクをしてくる。もちろん敵を切り刻みながら。

「絶対に生きるぞ!」

 ユーリが剣を鞘にしまって両手を広げる。背中を向けた格好の的だと衛兵が多数ユーリを標的にするけれど、まさかの拳でノックアウトしていた。

 ユーリの意図をくみ取って、アリアも一度剣を鞘に納める。

「アリア、よろしくぅ」

「わかった」

 ヒカが敵兵に襲い掛かるのと、アリアがユーリに向かって走ったのはほとんど同時だった。

 全速力で駆けて、ユーリの少し手前でジャンプする。右足がユーリの丸めた背中に触れた瞬間、アリアはまた強く蹴った。

 わずかな滞空時間の間にアリアは剣を抜き、着地の体勢を整える。

 支配人が立つ、舞台にせり出した少し高い場所。一度のジャンプでは届くはずのない高さだけれど、こうすれば。

「ひぃぃいぃいいいっ」

 柵を乗り越えて、支配人と距離二メートルでアリアは対峙した。観客席からも、先ほどとは比べ物にならないほどの悲鳴が聞こえる。

 アリアはふと下を眺めた。ヒカ、サラ、ユーリは、剣闘士として培った動きで衛兵を翻弄している。ただ、それも長くは持たないはずだ。

 視線を丸々と太った支配人に戻す。腰が抜けたらしく、情けない悲鳴を上げながら地面でバタバタしている姿は、奴隷部屋の隅で足掻く死の縁のネズミとよく似ていた。

「……」

 別に特段言いたいこともないしなぁ、なんて考えながら剣の切っ先を支配人の鼻に向ける。まぁでも、しいて言うなら。

「私が生まれたのは、剣闘士の両親がいたからだし、みんなと出会えたのも闘技場があったからだし」

 両手で剣の柄を握り、振り上げる。

「ありがとうございました!」

 ザンッ、と肉を断ち切る感触の後、支配人は動かなくなった。

 アリアは柵の上に立つ。観客たちは次は自分かもしれない、なんて恐怖におののいて、みな席を立って出て行ったのでほとんど人はいない。

「アリア!」

 見下ろすと、舞台にやって来た衛兵たちも片づけ終わったらしく、多数の死体と三人の姿があった。

 生まれてからずっと過ごしてきたこの闘技場ふるさとにはもう帰ってはこないだろう、なんて感傷に浸っている余裕はない。きっとすぐに町の憲兵もやってくるだろうから。

「よし、行こう!」

 行先はない。ただ、みんなと笑って過ごせる場所を求めて。

 快晴の夏の、昼下がりのことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る