#4「怪奇現象」


「嘘だろ……なんで開かないんだ!?」


 まさか、閉じ込められた……?


 その事実を理解した途端、すーっと血の気が引いていくのを自覚した。頭の中には嫌なイメージばかりが浮かんできて、全身の毛穴からひえびえとした汗が湧き出してくる。


 待て、一旦落ち着こう……。こういうときにこそ冷静であるべきだ。取り乱したって問題は解決しないんだ。ステイクール、と母さんから常々言われているはずだ。


 一度ゆっくりと深呼吸をして状況を整理する。


 単に家主が遠隔で扉を閉めただけというのが有力だ。


 最悪の場合には窓から外に出ればいいし、とにかく人を探してファイルを届けるべきだろう。


 冷静に考えれば、なにも問題はない。


「さて……」


 なんとか平静を取り戻し、俺は周囲をぐるりと見回した。


 どうやらエントランスの天井がいわゆる天窓になっているらしく、降り注ぐ淡い陽光が埃をちらちらと反射させる。


 ふとそのとき、視界の端――一階の廊下に人影を見た。


「あ、すいません……!」


 廊下の奥の方に遠ざかっていく人影に向かって咄嗟に声をかけたが、気付いてもらえない。


 俺がその人影を追って、廊下の全貌を視界に収められる位置に移動した頃にはすでにそこに人の気配はなかった。


 しーんと耳鳴りがするほど静寂の張りつめたその廊下は遠近感がおかしくなりそうなほど長く、殺風景を誤魔化すように絵画や壺などの美術品がいくつか飾られていた。


 無人の廊下はどこか芸術じみていて、そこに人が踏み入る余地などないようにすら思えた。


 しかし、たしかに誰かがいたはずである。


 へっぴり腰で廊下を歩いていくと、不意に半開きの扉が目に留まった。


「ご、ごめんくださーい……」


 廊下に自分の弱弱しい声が反響する。


 おそるおそる扉の隙間から中を覗き込めば、部屋の中心辺りに八脚の椅子を納めた長机が見えた。テーブルクロスが敷かれていることからおそらくはダイニングテーブルなのだろう。


 だが、そこに人の姿は見当たらない。


 ゆっくりとダイニングに立ち入ると、ふと部屋の最奥に設えられた扉の向こう側からざらざらと何かが流れるような音が聞こえてくる。


 思わず、その不気味な音に驚いてしまう。


 やはり誰かいるみたいだ……。


 俺は扉に近付いて、躊躇いがちにノックした。


「すいません、怪しい者ではないんですけどー……」


 ガチャッと扉を開けると、そこはキッチンだった。


 いや、厨房という表現の方が正しいかもしれない。調理台や食器棚が置かれていても風数人が動き回れるような充分な広さがある。


 電気が点いていないため薄暗く、厨房を照らすのは窓から差し込む頼りない外光だけだ。


 厨房に視線を這わせるが、そこに人の姿はなく、代わりにぽつぽつと蛇口から水が垂れてシンクを打つ音だけがあった。


 蛇口を閉めようとすると、ハンドルがわずかに濡れていることに気付く。


 もしかしたらさっきまでここに誰かがいたのかもしれない。


 なんだか、かくれんぼをしているような気分だ……。


 思わずため息を漏らしたそのとき。


 突如、頭上からガタガタガタッ――という物音が聞こえた。


 顔を上げた瞬間、勝手に戸棚が開いて調味料のボトルや袋が雪崩のように降り注いできた。


「うわあああッ――!?」


 幸いにも咄嗟に飛び下がったおかげで直撃は免れたが、なぜ急に戸棚が開いたんだ……?


 ストッパーが壊れていたか、ネズミでも潜んでいたのだろうか。それとも――。


 まさかそんなわけはないと思いながらも、不安で心臓の鼓動が加速していく。


 ぞわぞわと首から鳥肌が広がっていくのがわかった。


 俺はこわごわと戸棚に視線を上げていく。


 そして――。


 チュー、というか細い鳴き声が聞こえてきた。


 な、なんだよネズミか……。


 安心して体の力が抜けてしまう。呼吸を止めていたせいか、息が乱れていた。


 心霊的なものは一切信じていないが、屋敷の雰囲気も相まってさすがにびっくりした。


 徒労感が肩にのしかかる感覚を担ぎながら地面に転がった調味料を片す。


 と、そのとき。


 ふと視線を感じて顔を上げると、キッチンの入り口からこちらを覗き込む人影があった。


「おわっ、びっくりした……!」


 俺がビクッと肩を跳ね上げると、その人影は首を引っ込めてしまった。


「あ、待って!」


 咄嗟に呼び止めたが、ぱたぱたとダイニングから出ていく足音が聞こえる。


 しかし、今度はさっきよりもはっきり見えた。


 顔までは分からなかったものの、おかっぱ頭に和服型をした五歳くらいの少女のようだった。


 俺は慌てて少女を追いかける。


 廊下に出ると、角を曲がる和服の裾が見えた。


 だが、俺が角を曲がったときには少女の姿は消えている。


 けれど、その先はすぐに突き当りとなっており、扉はたったのひとつしかなかった。


 必然的にあの子が逃げ込んだ先はこの部屋しかありえない。


 俺はドアノブに手をかけ、できるだけ少女を怖がらせないようゆっくりと扉を開いた。


 部屋の中は十畳ほどの洋室。


 特筆すべきは部屋の中央付近にグランドピアノが置かれているくらいで、他はほとんどなにも

ない質素な部屋である。ピアノ部屋という感じだろうか。


 俺が部屋に踏み入った瞬間。


 ――ダダァーンッ!


 出し抜けに脳髄を貫かれるような不協和音が鳴り響いた。


 乱暴に鍵盤を叩いたような雑音は次第に大きくなっていき、鬱々の螺旋に取り込まれるような感覚に襲われる。


 なんとかそれを振り払い、グランドピアノに視線を移すが、鍵盤の前には誰も座っておらず、ただひとりでにピアノの音が鳴っているようにしか見えない。


 それに、部屋中を見回してみても少女の姿はなかった。


 ――コノ部屋カラ立チ去レ……ッ!


 不意に、脳に直接鳴り響くような鬼気迫る老婆の声。


 さらに内臓に重くのしかかるような重点音が響いた。


「う、うわあああああああああ――ッ!? すいませんでしたァ……!!」


 俺はとにかく絶叫しながら部屋を飛び出した。


 これはもはや疑いようもない。


 心霊現象だ。俺はとうとう遭遇してしまったんだ……!


 廊下をひた走りながら背後の様子を見れば、ピアノ部屋からこちらを睨み付ける眼光が縦に三つ、合計六つの目玉が光っていた。


 ぞわぞわと背筋に寒気が走る。


 あの部屋には間違いなく誰もいなかったはず……。


 俺は意識が遠くなるのを振り払うようにかぶりを振った。


 だが、上手く呼吸がままならず頭が思うように動いてくれなかった。


 とにかく、まったく歓迎されていないことだけはよくわかった……。


 全速力でエントランスに繋がる廊下を疾走していると、不意にドンッ――と。


 なにか硬いモノと衝突してしまった。


 尻もちをつき、おそるおそる顔を上げると、西洋の甲冑が仁王立ちでこちらを見下ろしている。


「……タチサレ」


 ドスの効いた低い男の声。


 そして、目の前の甲冑が腰の鞘から長剣を抜き放った。


「わ、わかったから……それ、引っ込めてくんない?」


 しかし、お構いなしに甲冑は剣を振り上げた――。


「ちょ、ちょっとッ! 問答無用かよォ……!」


 俺は間一髪で斬撃をかわしながら逃げ惑う。


 後ろからガチャンガチャンと金属の擦れる音と重量感のある足音を響かせながらすさまじい迫力で追いかけてきた。


 甲冑の男はブンブンと剣を振り回し、カーペットを斬り裂き、壁を傷付け、絵画や壺をズタズタに破壊する。


 俺はひたすら腕を振って逃げ回るしかなかった。


「オレタチノ住処、アラスナ……!」

「荒らしてるのはそっちじゃねぇかッ……! 俺はただ、学校のファイルを届けに来ただけなんだよ、にッ――!」


 その名を叫んだ瞬間、ふっと背後の気配が消えた。


 ほんの一瞬前までの出来事が嘘だったかのように廊下に静けさが戻ったのだ。


 しかし、ボロボロに散乱した廊下を見れば、さっきまでの甲冑男が幻覚でなかったことは明白である。とにかく、生きててよかった……。


「ん、ここは……」


 気が付けば、逃げ回っているうちにエントランスまで戻ってきたようだ。


 俺はぜぇぜぇと肩で息をしながら大階段に腰を下ろす。


 一体なんだったんだよ、さっきの奴は……。


 警備員? いや、いい加減認めるべきだ。


 この屋敷は呪われていて、幽霊は本当にいるんだ……。


 今すぐにでも窓から脱出すべきだ。


 そう思いながら廊下の窓に目を向けたとき。


 またしても背中に視線を感じた。


 その眼差しはどこか暖かく、太陽の光を浴びているような不思議な感覚。


 振り向けば、階段の上から和服の少女がこちらを眺めている。


 その姿はぼんやりと薄れていて、はっきり視認することはできない。


 明らかに人間ではない様子だ。


 しかし、不思議と悪いものでもないという直感があった。


 ふと、少女はくるりと体を翻し、二階の廊下を歩いていく。


「あ、待ってくれ……!」


 少女を追って、大階段を駆け上がる。


 二階に上がると、一階とはまた違った雰囲気だった。


 廊下の窓が黒い遮光カーテンに閉ざされ、天井から照明で照らされている。


 だが、一階に漂っていたような肌で感じる陰鬱さみたいなものは感じられなかった。


 少女の後を歩いていると、不意にふるふると身震いしてしまう。


「うぅ、なんか寒いな……」


 季節外れにも底冷えするような冬の寒さが廊下に張りつめていたのだ。


 腕を抱きながら和服の少女についていくと、いつの間にか少女を見失ってしまう。


 気付けば廊下の突き当りまで来ており、目の前には一枚の扉があった。


 扉の前に立つと、一層強い寒気に襲われる。


 俺はキンキンに冷えたドアノブに手をかけ、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。


 部屋の中は八畳ほどの広さでベッドと机、びっしりと本が詰まった本棚の他にはほとんどなにもない質素な部屋。窓は遮光カーテンで閉ざされており、天井から吊るされた電灯は暖色の明かりを灯していた。


 そして部屋中に視線を巡らせると、部屋の片隅でぴんと背筋を伸ばした綺麗な姿勢のまま椅子に腰かけ、静かに読書をしている少女の姿があった。

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