4. 女神

 不破嶺衣奈と出会ってから、一年半ほどになる。

 田場之成紀と接点を作るのはそれほど難しくなかった。メンデル社の名前を出せることで、正攻法が取れたからだ。嘘をついていないのに嘘をついている気分になるのは、詐欺師の職業病だろうか。いくつかの障壁はあったものの、「正しい情報を使える」というのは非常に有用だ。

「志田狭さん、あなたのような方が居て、メンデル社は本当に幸運ですね」

 田場之成紀は既に私のことを強く信頼しているように見える。少なくとも、身の上話をするくらいの仲にはなったし、遺伝子工学の活用のための政府の分科会に不破嶺衣奈の名を連ねることにも成功した。

 ――人工の精子と卵子で子供を作るにあたり、最も障壁となるのがアディスアベバ条約により規定された「遺伝子工学における種の繁栄に類する技術の倫理規定」、通称「繁栄規定」である。

 これは人工的な生殖細胞の利用を研究目的にのみ限定する細則などをまとめたものだ。iPS細胞やES細胞などを用いたヒトの生殖細胞を母胎に戻すことは日本でも禁止されていたが、それを明確に禁止する国際的な取り決めだ。ただし、アメリカと中国はこれを批准していない。

 カルタヘナ法については他国との競争もあり、改正自体には積極的に動く節もあるが、ヒトの生殖細胞に関することは、世界的にもあまり積極的に前に進めようとはしていない現実がある。

 不破嶺衣奈の目論見の先行きは明るいと言えないが、様々な根回しを進めるという趣旨に関して言えば、順調すぎるほどに進んでいた。

 しかし不破嶺衣奈は、いつも何かに焦った様子だった。明確な成果はないが着実に進んでいるというのは間違いない。私には彼女の焦りの原因がわからないでいた。

 そんなある晩、私は不破嶺衣奈から食事に誘われた。郊外の小さな、隠れ家的な小料理屋だ。普段は入りやすいフレンチやバー、時には居酒屋で飲むこともあったが、このように畏まった店に呼び出されるのは珍しかった。

 料理屋では個室に通され、食事も一通り終えたところで、不破嶺衣奈は話し始める。

「――田場之とは、良好な関係を築けているようだな」

「ええ、少なくとも『会って話せる』関係にはなりました」

「それで……今後の算段は?」

「田場之の官僚の人脈を洗っています。政党との繋がりも大事ですが、地盤を固めるなら官僚との繋がりを意識しておきたい」

「分科会の繋がりでいくらか知り合いはできたが……」

「重畳です。私が切っ掛けを作り、社長が道を広げる。これが正攻法でしょう」

「地道なことこの上ないな。――なあ周子、あんたはどれくらいで計画が成就すると見ている?」

「……建前の話をして欲しいですか?」

「本音で頼む」

 今まで聞かれたことのない問い……いつもより、踏み込んだ話だ。私はそれでも少し建前を入れようかと思案したが、結局、正直なところを話すことにした。

「……そうですね。これまでやってきて、まず不可能だと考えています。最初に話を受けたときは途方もない計画だと感じましたが……進めれば進めるだけ、この計画の目的地が遠のいているような感覚さえある。闇を進むような心地です。裏から手を回して地道にことを進めても倫理は人の数だけありますから、これを塗り替えるのは難しい。ゲノム編集した子供でさえ認められていない世界で、いくら同性子という可能性を提示したところで、いわばを認めるのは無理でしょう」

「そう、思うか、やはり。……ならば君はなぜ、この計画を進めてくれている?」

「――社長ほどの人間が、この計画の実現性のなさに気付いてないとは思えない。だからこの計画は、やるということなんだと理解しています。それに――私はあなたのことが好きですから、

「そう……か」

 不破嶺衣奈は表情なく、酒をあおった。

 そしてその晩、私は不破嶺衣奈を抱いた。

 彼女を抱くのはもう十三度目だった。

 不破嶺衣奈は仕事になると苛烈な方で、激昂するようなことは滅多にないものの、部下に対する態度は基本的に厳しい。それでも離職率が低いのは、そのカリスマ性にも由来するのだろう。彼女についていけば違う世界に行けるだなんて……皆そんな風に思ってしまうのかも知れない。皆が皆、彼女の背中を見ている。彼女の顔色を下から窺っている。

 不破嶺衣奈はある種の孤独を患っている。

 だから彼女の目には、私は理解者のように映っているのかもしれない。――いや、彼女は私をしているのかも知れない。彼女は私に、時折弱みを見せた。私が詐欺師であることも忘れたように、身体を求めた。

 その度に私は彼女に囁く。

「大丈夫ですよ、嶺衣奈さん――私がいますから」

 そして彼女は私の名を呼ぶ。

「ありがとう、周子」

 その偽物の名を呼ばれるたびに、私は自分が何者なのか、分からなくなる。

 私はどこまでいっても、所詮は偽物だ。

 名前も年齢も何もかもが偽物。本物の私はもはやない。

 

 あるいは不破嶺衣奈も、志田狭周子を愛しているのかもしれない。

 所詮、全ては愛の偽物。

 それが分かった上で、それでも――。



 私は人工精子の存在を明かすことは、未だ時期尚早だと考えていた。

 しかし田場之成紀が人工精子の話に興味を示したのは、それからさらに半年ほど経ってからのことだ。

 田場之成紀の親戚筋の官僚が、同性婚をするということだった。子供が欲しいから養子を取ろうと言うが、家庭観が古風だったのだろう、それは両親が許していないのだと言う。

 なんとかしてあげたいという田場之に、私は不破嶺衣奈の命令で人工精子の話を持ち出した。もしもその官僚が望むなら願いを叶えられる、と。

 ほどなくして私たちは、田場之成紀を丸め込み、彼女の親戚筋の閣僚と接点を持った。

 官僚の名前は桐脇公歌きりわききみか。日本の大財閥、桐脇グループ創始者の直系の子女である。古い家系ほど血筋にはこだわるものだが、同性婚が認められて以降、そういった旧態依然とした考え方は時代に追いつかなくなった。

 そして人工精子の存在に最も興味を持ったのは桐脇公歌本人ではなく、その祖父であり桐脇グループの総裁である桐脇公彦だった。直系の血筋への強いこだわりはまるで呪いのようであり、桐脇公歌が子を産むことが大事なのだという。

 血統への執念は、権力の馬車で倫理を踏んでゆく。

 ――結果として私たちは、桐脇公歌とその配偶者の人工精子を製造したのだった。

 そして繁栄規定は無視され、桐脇公歌は子を産んだ。

 この話は一切箝口とされ、それを知るのは当事者のみとなった。


 桐脇公歌の夫妻の間に健康で優良な男児が生まれたという報せを聞いたとき、不破嶺衣奈が笑いながら言った。

 それはいつか見た、邪悪なほど無邪気な笑みだった――。

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