第35話 ババアと白い薔薇といい肉と
午後九時五十二分
私は今、地下鉄のホームを歩いているが、すれ違う人が皆、私を見ている。
無理もない。
ワンピースとパーティドレスの間くらいのピンクの総レースワンピースを着て、白い薔薇の花束を持ってニヤニヤしている熟女だ。不審に思うだろう。
――こう見えても後輩に慕われるいい女なんですよ、私。
緩む頬に力を入れて、私は地下鉄に乗り込んだ。
空いている車内の乗客は等間隔で座っている。私は中年女性の隣に座った。
「うふふ、素敵ねー」
「えっ、ああ、頂いたんです」
どうしてこう、オバさんは当たり前のように話しかけて来るのだろうか。迷惑なのではない。警戒心を抱かせずに話しかけられるオバさんの技術はすごいなといつも思う。
「パーティか何かだったのかしら? もしかしてモデルさん? 芸能人かしら?」
――グイグイ来るな。
「とんでもない、普通の会社員ですよ」
「あっらー、そうなの? お姉さん、すっごく美人だからー」
――やめろ。他の乗客がこっちを見てるじゃないか。
「後輩がプレゼントしてくれたんです」
「あっらー! いいわね、私も以前ね、白い薔薇を――」
――話、長くなるのかな。
「――転勤する上司に皆で渡したのよ」
「そうなんですか」
「意味は『心から尊敬しています』だからね」
――葉梨もそうやって選んでくれたのかな。嬉しいな。
「後輩って女性でしょ?」
「いえ……」
「あっらー! やだ男性なのー!?」
私の動揺を見た乗客は私の次の言葉を待っている。視線を感じる。
地下鉄は次の駅に到着しようとしていた。
「男性です」
「そうなの……うふふ、なら別の意味があるのかも知れないわねー」
「別の意味」
「んふふっ、素敵なお話をありがとうね、幸せのおすそ分けをありがとう。それじゃ、おやすみなさいね、うふふ」
――おいババアどこ行くんだ。いい所でやめるな。
ババアは颯爽と下りていった。
私は他の乗客からガン見されているわけではないが、視線が突き刺さる。それに乗客は皆スマートフォンを見ていたのに指先が動いている。白い薔薇の意味を検索しているのだろう。私も検索してみようか。だが調べたら負けだ。
私は大人しく、すました顔をしてやり過ごした。
◇
午後十一時三十五分
家に帰ってきた。
白い薔薇の意味を検索したかったが、必死に耐えた。耐えたというか、カバンに花束を入れられず、両手が塞がっていたから検索出来なかった。だから検索してみよう。そう思った。
『白い薔薇 五本 意味』
検索したものの、やはりあのババアが言った通りだ。別の意味はある。だが別の意味どころか意味がたくさんあり過ぎる――。
葉梨は白い薔薇の意味だけを言っていた。『心からの尊敬』だと。
私は葉梨から口説かれたことに嫌悪してキレたのではないのだ。
岡島から、『葉梨は奈緒ちゃんを女として見ない』と言われ、その通り葉梨はずっと先輩として私を見ていた。だから変わってしまった葉梨にムカついたのだ。
葉梨は昨夏に恋人と別れたと言っていた。
ならなぜ、今、私を口説いたのだろうか。
『俺の誕生日も一緒に過ごしてくれますか?』
葉梨は私を口説けると、いけると思っていたのだろう。誕生日当日の夜に会う男が葉梨でいいと私が言ったのだから。そう思うのも無理もない。口説ける自信があったからホテルで食事だったのだろう。
ということは、葉梨はもっと前にサインを送っていたはずだ。そして私が承諾のサインを返していたのだろう。
――カフェの白い薔薇か。
あれは一周年記念のプレゼントと言っていたが、葉梨が手配したものだったのかも知れない。
そもそも薔薇は、クリスマスに須藤さんの恋人へ渡す薔薇の本数を葉梨に決めてもらった時から始まっている。
私は、『相手は自分に悪い印象は持っていない女性に渡す薔薇の本数』を決めてもらった。私が葉梨に対して悪い印象は持っていないと、何で判断したのだろうか。
白い薔薇一輪の意味は『あなたしかいない』だ。葉梨に意味を聞いた時、目が動いた。そうだ、賢い葉梨が意味を忘れるわけがない。忘れたふりをすれば、私が意味を調べると思ったのだろう。
私の誕生日だと告げた時、葉梨は誕生日の夜に会う男が自分でいいのか確認した。
当日現れた私は気合いの入った服とヘアメイクだった。そしてハンカチだ。
私は今日、白地に赤い薔薇のハンカチを使った。それを葉梨は見ていた。だから……。
――あの時、葉梨は……。
ウエイターが来た時、窓際に置いたおしぼりで手を拭いて、元の位置ではなく手元に置いた。あれは符牒だったのかも知れない。
だとしたら、もし私が承諾していたら白い薔薇では無かったかも知れない。
もし承諾していたら今頃私は葉梨の部屋で――。
画面をスクロールしていると、ある言葉に私は釘付けになった。
『何色にも染まっていない白い薔薇はあなたの色に染まる、あなたにふさわしい人になれるという意味があります』
――あなたしかいない。あなたの色に染まりたい。
何色にも染まっていない葉梨が、私の色に染まりたい、私にふさわしい人になりたいと思ってくれたのか。
――私、何してるんだろう。
先輩としてではなく、女として見ていることを意味する言葉を探している。私は葉梨に想いを寄せられて嬉しかったということか。
葉梨は、『お相手の女性の心が決まっていないのなら、白い薔薇がいいと思います』と言った。
――葉梨は私を諦めていないということか。
◇
葉梨へ家に着いたことと今日の御礼をメッセージで送ると、返事がすぐに届いた。
『遅くまでお付き合い頂いてありがとうございました。喜んでいただけて何よりです』
――葉梨は薔薇の意味を、聞いて欲しいと思っているだろうか。
でも、聞いたら負けかなと思う。ならば薔薇一輪のことを聞いてみよう。
『カフェの白い薔薇一輪は本当に女性客へプレゼントしていたものなの?』
あのカフェが本当に一周年記念で女性客に配っていたのなら、前提は崩れる。もしそうなら、私は後輩に慕われる先輩として、今日のことはいい思い出のままに出来る。そうでないのなら――。
『違うと言ったら未来は変わりますか?』
――そう来たか。
『葉梨の誕生日はいつ?』
白い薔薇に葉梨は意味を込めた。ならば私のメッセージだって、意味を込めてもいいだろう。
『十一月二十九日です』
『いい肉』
葉梨の誕生日はもちろん一緒に過ごすつもりだ。私の誕生日を祝ってくれたのだから。だが、その時の私たちの関係がどうなっているのかは、わからない。
――だって、未来は誰にもわからないのだから。
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