第33話 ハンカチと香水とマティーニと

 バーラウンジに入ると、スタッフが葉梨の元へ案内してくれた。


 窓際のカウンターに座っていた葉梨は立ち上がり、私を見た。ピアノの調べが流れ、心地よい雰囲気で満たされた店内は淡い照明に包まれている。夜景を背にした葉梨がなんだかイイ男に見えた。飲み過ぎたのかも知れない。


 葉梨とエレベーターに乗った時、スーツがものすごく上質だと気づいた。葉梨は背が高く大柄だから普段のスーツはセミオーダーだと言っていたが、今日のスーツはフルオーダーだ。ワイシャツもだろう。袖から出るワイシャツが完璧なバランスだ。


 ――私の誕生日だから、ここまでしてくれたんだ。


 頬が緩む。

 後輩が私を慕ってくれているのだ。

 警察組織にいる者として、求められることから逃げていた私は逃げないと決めた。葉梨を育てると決めてなんとかやってきた。

 その結果が今日なのだろう。

 これでいいのだと認められた気がした。


「お待たせ」

「お待ちしておりました」


 カウンターの椅子を引き、私を座らせた葉梨は右隣に座ったが、あることに気づいた。


 ――ここでも、葉梨しか見えない。


 レストランで私が座った席は上座だった。それは当たり前だが、向かいに座る葉梨の背後に大きな絵画があり、私の視界には葉梨しか入らなかったのだ。

 そしてバーラウンジでは窓の向こうに夜景が広がるが、葉梨に視線を動かすと葉梨しか見えない。


 ――ここで口説かれたら、女は落ちるだろうな。


 新たな恋に向けての予行練習か。葉梨に良い出会いがあればいいなと心から思う。

 警察官は仕事柄、恋が始まっても長続きしない。警察官と付き合うことを目的として、人としての自分を見てくれない女性に惑わされることもある。


「お待たせいたしました」


 その声に振り向くと、ケーキとカクテルを持ったウエイターがいた。

 私の前に置かれたレアチーズケーキには小さく切ったフルーツも盛られ、そこにチョコレートで『HAPPY BIRTHDAY』と書かれている。


 葉梨はモスコミュールだが、私にはレアチーズケーキに合うカクテルを選んでくれていた。


「乾杯、しましょう」

「うん」


 グラスを持ち上げる。

 シャンパンゴールドのカクテル越しに見える葉梨の顔は優しく微笑んでいた。


 グラスを合わせ、一口飲む。爽やかな酸味のあるカクテルは、さっぱりとして美味しい。レアチーズケーキを一切れ食べてから、葉梨を見ると、優しい眼差しで見つめ返された。


 こんなにも充実感を感じる誕生日は初めてだ。

 モスコミュールを口にする葉梨の横顔は、カウンターに置かれたキャンドルの淡い灯影を受けて、大人の色気があるように見える。完全に、飲み過ぎだ。


「ハンカチ、使っていただけているんですね」


 葉梨にバレンタインのお返しにもらったハンカチを今日は使っている。ピンクの総レースのワンピースだから、白地に赤い薔薇のハンカチを持ってきた。


「加藤さん、今日の香水はいつもと違います、よね?」

「えっ……ああ、うん……」


 ――やっぱり合わないのかな……。


「誕生日プレゼントでもらった香水なんだ」


 昨年父がプレゼントしてくれた香水は若い女性向けの香水だった。デパートの店員に『娘の誕生日なんです』と伝えたという。父にとっては私はいつまでも可愛い娘なのだろう。三十三歳の誕生日だったのだが。


「プレゼント、ですか」

「うん、父からね」


 葉梨はこちらを向いた。

 私の顔を真正面から見て、『お父様、ですか?』と言った。


 ――疑われている。


 確かに三十四歳のババアには甘過ぎる香水だ。仕事ではつけられないから、寝る時と休みの時につけて消費しているが減らない。今日ならいいかとつけて来たが失敗だったのか。


「加藤さんは、お付き合いしている男性はいるんですか?」


 ――ああ、そっちだと疑われたのか。


「いないよ」

「……どれくらい?」


 ――どれくらいもなにもゼロです。


「あー、ふふっ……どれくらい、だったかな」


 私はこの質問にいつも適当にはぐらかしている。事実を言えば引かれるし、宗教上の問題かとあらぬ噂を立てられるから、私は適当にあしらっている。


「今、お付き合いされている方がいらっしゃらないのは、事実ですか?」

「えっ、うん。いないよ」


 葉梨は初めて私のプライベートを聞いてきた。私も葉梨のプライベートを聞いてもいいということか。

 山野のことを聞いてみたいが、話してくれるだろうか。

 少し体を傾けて葉梨を見ると、葉梨は既にこちらへ体を向けていた。


「加藤さん」

「ん?」

「恋人がいらっしゃらないなら――」


 葉梨は真っ直ぐ私を見ている。私には葉梨しか見えない。

 キャンドルの灯影は葉梨の瞳を照らし、まるで瞳の奥に炎を湛えているような、これまで見たことのない目で私は見つめられている。


「――俺の誕生日も一緒に過ごしてくれますか?」


 ――うん、予定が合うならお誕生日会をって……違う……。


 これは仕事の話じゃない。

 私は口説かれているんだ。

 私は葉梨に口説かれているんだ。

 誕生日プレゼントは父からだと嘘をついていないか見られたのか。

 付き合っている男はいないと二度確認したのはこのためだったのか。

 どうして。

 どうして今日、そんなことを言うんだ。

 後輩に慕われていると私は自分に自信がついたのに。

 葉梨のおかげで先輩方に認められたと思えたのに。

 どうして。どうして。


「葉梨……」

「あの、すみません、本当にすみません……俺みたいな奴が加藤さんに――」

「いい」

「お皿をお下げいたします。お飲み物のご注文もございましたらお伺いいたしますが」


 ウエイターが背後にいた。

 よかった。このままでは手が出そうだった。ウエイター、ナイス。さすが高級ホテルだ。


 葉梨は窓際に置いてあったおしぼりを手に取り、手を拭いて横に置いた。

 私がマティーニを注文すると葉梨は私を二度見して、小さな声でモスコミュールを頼んでいた。





 

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