第16話 熟女と壁ドンと偽ザイルと

 席を立った去り際の吉崎さんに促されて自己紹介を始めた岡島は私だと気づいていない。バカなのかな。私はそう思った。


 ――今、この場で抹殺出来ないだろうか。


 私はそんなことを考えながら偽ザイル松永と岡島のわりとどうでもいい会話へ適当に相槌を打ちつつ、岡島の足や腕にボディタッチしたり、耳元で囁いたりして岡島の機嫌を取っていた。


「リナちゃんはどこの店なの?」

「吉崎さんのお店でーす」

「そうなんだー」


 声音を変えて無理をしているせいで喉が痛い。

 松永さんはそれに気づいて助け舟を出してくれた。


「岡島、リナはキャバじゃねえよ、熟女パブの方だよ」


 ――熟女。そうか、アラサー女は熟女だ。


 熟女パブ嬢の年齢下限は二十八歳――。



 ◇



 吉崎さんが戻って来たが、少し、表情が固い。

 それを見た松永さんと岡島は目が鋭くなった。

 吉崎さんは元の松永さんの隣の席に座り、耳元で囁いた。そして私は松永さんに促されて立ち上がった。


 個室の外に行くと、松永さんからカウンター席で待っていろと指示されたが、もう一つやることを指示された。

 私はそれが不満で目をそらしたのだが、松永さんが見逃すはずもなく、私は肩を押された。

 松永さんは膝で私の足を押して後退りさせ、背後の壁と松永さんの腕に私は逃げ道を塞がれた。


 ――壁ドンだ。腕を曲げるタイプで顔が近い。


「確かにね、覚えるのキツい。それが無理ならさ……」

「…………」

「岡島に膝カックンされたこと、許すのは?」

「私やります! 頑張ります! やらせて下さい!」

「うん……」



 ◇



 午前零時三十五分


 平日のせいか、店内の客は一組のカップルだけになった。


 私はソフトドリンクといくつかの料理を食べながら、松永さんに指示されたことをやっていた。

 松永さんは壁に貼られた写真と番号を記憶しろと言っていた。無理だろう。

 松永さんは岡島を認めたから膝カックンを許すように仕向けたのだろうが、私は岡島に膝カックンされたことを許すわけにはいかない。だから頑張ろう。私はそう思った。でも、無理だな。共通点があるようで無いのだ。とても覚えづらい。


 仕方ない。全てを記憶するしかないと壁全体を視界に収めていると、端に葉梨がいた。

 ガラス扉の向こうにスラックスに長袖ワイシャツを腕まくりした葉梨が入店しようとドアに手をかけていた。


 店内に入った葉梨は視界に私を認めたが私だと気づかずに店長に奥の個室へ案内されていた。

 横顔を見ていたが、私に気づいたようには見えなかった。

 葉梨はギャルの服を着た私を見たこともないし、髪型も違うし、何よりもギャルメイクで自分でも自分だと認識出来ない程だから、わからなくても無理もないなと思った。



 ◇



 追加のドリンクの注文をした時、葉梨が個室から出て来て私の元へやって来た。


「リナさんですか?」


 優しい笑顔の葉梨はそう言って名乗り、隣に座った。

 店員が葉梨の注文を聞き、背を向けて歩き出す姿を横目で見ていた葉梨は、正面に並べられた酒のボトルの背面にある鏡越しに私を見て、笑った。


「加藤さん、凄いですね」


 葉梨は気づいていた。誰も気づかなかったのに、なぜ葉梨はわかったのか。

 私は耳を髪で隠しているし、ギャルメイクだ。葉梨は私のどこを見たのだろうかと考えていると、葉梨は私の首にあるホクロを見たと言った。


「それと、スマートフォンの傷です」

「傷」

「あと、今日は服装に合う香水を多めにつけてるようですけど、髪の毛はいつもの加藤さんの香りです」

「凄いね」


 私はただそう言うしか無かった。

 本当に葉梨は有能だなと、心から思った。



 ◇



 葉梨も岡島から壁の写真に振られた番号を記憶しろと言われたという。

 全ての写真をスマートフォンで撮影すればさっさと終わるのたが、そうもいかない。

 葉梨はドリンクを飲みながら笑っている。私の肩越しに壁の写真を見ながらだが、葉梨は全てを記憶している。

 私はその笑顔を見ながら、葉梨はどうしてこんなに完璧なのだろうと思っていた。私が何も言わずとも全てに気づく。私がやることを先回りして行動する。私よりずっと大人だ。


「あの、加藤さん」

「なにー?」

「岡島さんは加藤さんに気づいていないですよね?」

「んふっ……うん」


 私は笑いを堪えながら答えたが、葉梨の顔を見ると、葉梨は急に真面目な表情になり、俯いた。

 私はどうしたのだろうと葉梨の次の言葉を待ったが、なかなか口を開かない。


「どうしたの?」

「あの、岡島さんに『リナちゃんに連絡先を伝えろ』と言われたんです。どうすればいいんでしょうか」

「それって完全にプライベートの?」

「そうです」


 眉根を寄せて唇を噛む葉梨を見ながら、私は手を汚さずに抹殺するチャンスがやって来たと思った。


 ――偽ザイル松永にバラしてやる。



 ◇



 午前一時十三分


 私は今、偽ザイル松永から説教を食らっている。


 ソファにもたれかかり、右脚を左膝に乗せてソファの背もたれに腕を乗せた松永さんはそこそこのキレっぷりだ。睨める視線は私たちに注がれている。正座する私たちへ――。


 隣のインテリヤクザ岡島はがっくりと肩を落としているが、私の方を横目で見ている。

 タイトな黒いワンピースで正座をしているからパンツが見えるとでも思っているのだろうが、見せパンだから問題は無い。


 そう、私は見せパンを履いている。

 パンツの話で盛り上がっている吉崎さんと松永さんに、『見せパンだから見えてもいいんですけど』と言うと、眉根を寄せた松永さんから、そもそもパンツは見えてはいけないと言われた。パンツが見えたら恥ずかしいという女性の恥じらいがあってこそのパンツなのであり、見せパンなど言語道断だと。恥じらいの無いパンツはただの布だと。


 私は、パンツについて熱く語る松永さんは警察職員の職務倫理を忘れてるな、と思いながら眺めていた。

 第二条だ。五の『清廉にして堅実な生活態度を保持すること』だ。

 よくあるフワッとした表現だから、パンツについて熱く語るのは個人の守られるべき権利なのかも知れないなと納得しかけたが、偽ザイルの格好で女のパンツを語る警察官が我が国の治安維持に奉じていていいのかと、私は思った。

 

「奈緒ちゃんさあ……」


 松永さんの溜め息混じりの声が聞こえてきた。

 この呼び方ならまだ大丈夫だと思ったが、フワッフワなカーペット上だから痛くはないものの正座をさせられている。私は怒られている。それも至極真っ当な説教を食らっている。


 松永さんから教わった、岡島にお見舞いした新技はあの場で使う技ではないだろうと。その技を披露するために岡島に抱き締めさせた時点で間違っているだろうと。


「バカなの?」

「すみませんでした」


 岡島はいくら私から言われたとは言え、応じてはならないだろうと怒られている。

 確かにそうだ。だが私は思った。お前が言うなと。私に四回目の土下座をした原因は何だったのか忘れたのかと。


「岡島さ、お前本当に大丈夫かよ」


 その言葉を聞き、私は松永さんの目を見ると、気づいたのだろう。目をそらした松永さんをじっと見つめていると、松永さんは話題を変えた。


「あ、そーだそーだ。奈緒ちゃんさ、体、絞ってよ」

「ん……?」

「また、アレやるから。月末に」


 松永さんが言っているのは、体が細くて体力と筋力がある私がたまにやる任務だ。

 その都度私は計量前のボクサーかなと思いながら体を絞るのだが、月末のことを今言うのはどういうことだと思った。


 ――食った後に言うな。


 カウンターに並べられた料理を葉梨から若干引かれながらたらふく食った後に言うな。

 松永さんは女の舞台裏がどれだけ大変かわかってない。ヘアメイクが大変だとは理解したが、体力を維持したまま体を絞るのが男より大変だとわからないのか。この偽ザイルめ。


「松永さん」

「あっ! はい……」

「話、あるんで。外、出ません?」


 きっと、私は露骨に不機嫌になったのだろう。松永さんが怯えている。

 隣の岡島を横目で見ると、岡島はこう言った。


「奈緒ちゃん奈緒ちゃん! 俺が外へ出ればオールオッケー! うん、じゃ! アディオス!」


 逃げ去るチンピラを泣きそうな顔で見る偽ザイルと、正座する熟女ギャルの二人だけの時間が始まった。





 

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