第9話 カスタネットと二万円とイイ女と

 午後八時四十三分


 松永さんによるお説教はきっちり三十分で終わり、会計を済ませた松永さんは店外に岡島を呼び、話している。


 バーテンダーの望月さんはテーブル席に残された私のそばへ来て、『松永さんから二万、預かってます』と言った。続けて『食事は?』と問うが、今は何も考えられない。『連れと相談します』と伝えると、笑顔の望月さんは『はい』と答えてカウンターへ戻った。


 ――カスタネットも、バレていた。


 三回目の時だった。私はカスタネットを右手に持ち、右腕を上げて、曲に合わせてひたすら叩いていた。やはりカスタネットも報告されていたのか――。


 だが後輩がカスタネットを叩いていたと報告された松永さんの哀しみを考えたら、少しだけ、恥ずかしさは減った。



 ◇



 岡島が戻って来た。

 松永さんが座っていた椅子に岡島が座り、私の真正面にいる岡島はテーブルに左肘をついて、笑っている。


「いろいろ聞きたいことあるだろうけど、まずはメシ、食いたい。朝から何も食ってないんだよ」


 そう言って、目を伏せた岡島は灰皿を引き寄せた。

 ジャケットの内ポケットからタバコとライターを取り出して、フラップを左手人差し指で開けてタバコを取り出して、口に咥えて、火を付けた。

 タバコの銘柄が変わったなと、テーブルに置かれたタバコを眺めていると岡島は言った。


「今、松永さんと話した内容なんだけど、松永さんは全て奈緒ちゃんに話せって言ったけど、俺、全ては話さないから」


 燻らす紫煙の行方を目で追っている岡島の目は、優しさと怒気が共にあった。

 きっとそれは、私を守るためなのだろう。そう考えると、私の行動によって松永さんや岡島、玲緒奈さんに迷惑をかけてしまったことが申し訳無く思えてくる。


「あの、ごめんね、本当に、ごめんなさい」

「えっ……いや奈緒ちゃんさ、『バカなの』とか『殴るよ』とか、いつもの言わないの?」

「……言えないよ」


 私は岡島の顔を見ることが出来なかった。普段なら、岡島の言う通りにいつもの言葉を言うが、今はそんな気持ちになれない。


 私が下を向いていると、視界に岡島の指先が入った。テーブルを指先で叩いている。私はゆっくり顔を上げて岡島の目を見ると、岡島は少し眉根を寄せて困ったような表情をしていた。


「奈緒ちゃん、そんな顔してるとさ、俺、弱みに付け込んで、襲うよ?」


 ――岡島はいつもの言葉が返ってくることを期待している。でも……。


 私は十四年前に警察学校で膝カックンされたことを今だに恨んでいて許さないが、もし、膝カックンされていなかったらと考えたことがある。

 多分、私は岡島と付き合っていたと思う。背が高くて足が速い私が好きなのだと言ってくれたから。真っ直ぐに気持ちを伝える岡島の姿は私の心に今もある。岡島はどんなことにも一生懸命で賢くて優しい男の子だった。だから膝カックンさえ無ければ私は――。


「いいよ、ホテルに――」

「奈緒ちゃんやめて!」


 少し、大きな声だった。岡島は怒っている。何かを言おうとして、我慢している。

 見つめ合ったまま目が離せなくなった。


 岡島が目を伏せて小さく息を吐いた時、『メシ、食おう』と呟いた。



 ◇



 次から次へと運ばれてくる料理を私たちは黙々と食べた。だが合間合間に挟まれる岡島の話は興味を惹かれるものだった。


 あの日、居酒屋には件の保険金詐欺の事案で内偵していた男がいたという。だが葉梨はそれを私に話さなかった。その理由はおそらく、私が過去に関係した事案に関わることだろうと岡島は言う。


「葉梨も、奈緒ちゃんを守りたいんだよ」


 カラオケ店で私が『葉梨を必ず守り抜く』と言った時、葉梨は私の目を見たまま返事をしなかった。歌った後で居酒屋の件を聞いた時は、淀みなく状況を説明していた。私は葉梨の隠し事に気づかなかったということだ。


「あのさ、私が葉梨に教えることって無いよ。だってもう出来上がってる」


 私は葉梨と三度会っただけだが、二年先輩の私はすでに葉梨と差がついている。もちろん私の手持ちの知識や経験はある。あるが、それを教える必要が無い程に葉梨は完成している。


「あー、でもさ、少なくとも警察法はあやしかったんでしょ?」

「そんなの個人で勉強するものでしょ」

「あのー、あのさ……」


 言い淀む岡島は大きく息を吸い込んで、さっき店外で松永さんから私に話せと言われたことを話し始めた。私に葉梨を仕込むように仕向けたのは玲緒奈さんだという。


「あのね、俺は言いたくないんだけど、あの、言う……奈緒ちゃんは……」


 岡島は私と目を合わせない。気を遣っている。そうさせてしまうことを申し訳無いと思った。


「山野の件もそうだったけど、奈緒ちゃんは後輩を全く、面倒見ない。それはよくないって、玲緒奈さんは考えて、葉梨をってことになったんだよ」


 胸が痛い。私は仕事は仕事、プライベートはプライベートだと考えて、プライベートまで同僚と関わりたくないと思っている。だが警察官は、それが許されない。組織はそうやって成立しているから。でも私は嫌で逃げていた。ずっと。


「でも奈緒ちゃんは葉梨のことを嫌がらなかったよね。何か思うことがあったのかな?」

「……葉梨は面白そうだな、って思った」

「そっか」


 髪をかき上げた岡島は頬を緩ませている。葉梨はまだ吸収出来る、まだ白いと繰り返す岡島は葉梨が可愛くて仕方ないのだろう。だから私に託すことに不安は無いし、私に期待をしている。私は岡島のためにも、やらなければならない。


「ねえ、私さ、葉梨に『葉梨を必ず守り抜く』って言ったよ」

「……どういう経緯で?」

「それは言えないよ」


 目が合った時、岡島が笑ったから私も笑った。



 ◇



 午後十時八分


 会計をしようとしてバーテンダーの望月さんに声をかけると、トレーに載せた紙を持ってきた。それは伝票で注文したメニューと金額が書いてあり、合計額が二万を少し超える金額だった。食べ過ぎだろう。

 望月さんは、『超えた分は松永さんからお預かりしている分から引いておきますから』と言う。

 それでは困るのだが、松永さんからそう言われているとも言った。続けて『とばっちり食らったんだから、いいんじゃない?』と笑いながら話した。

 私たちはその言葉に不思議に思っていると、望月さんは笑いを堪えながら、松永さんが私たちが来た時に不機嫌だった理由を言った。


「松永さんね、女待たせてたんだよ。だからなんでこんなことしなきゃいけないんだって、かなりキレてた。飲むペース早かったし」


 松永さんは、お上品な言い方をすれば女性とはワンナイトだ。だがあの見た目だし、女などいつでも捕まるだろうからそこまでキレるものなのだろうかと思っていると、望月さんは言った。


「すっごいイイ女なんだって。松永さんがそんなこと言うの珍しいなって思ったけど、二ヶ月ぶりに今夜会うって言ってたから、まあ、それなら、ねえ? ふふっ」


 私が食らったお説教はむーちゃんの弟の性欲分も上乗せされていたのかと思ったが、悪いのは私だから我慢した。





 

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