第7話 むーちゃんの弟と清楚系とインテリヤクザと
五月九日 午後六時十五分
今、私は玲緒奈さんの義弟であり、むーちゃんの末の弟である松永理志さんが勤める美容院に来ている。
理志さんはむーちゃんに似ておらず、兄の
「いらっしゃいませ。今日はシャンプーとトリートメントとセットで、よろしいですか?」
理志さんは声も敬志さんによく似ている。
二十一歳の玲緒奈さんが理志さんと初めて会った時、理志さんはまだ十歳だったという。自分を慕って一生懸命話をする理志さんが可愛くて、今でも玲緒奈さんは溺愛している。だがもう一人の義弟の敬志さんは警察官になったからよく叩かれている。
七年程前、玲緒奈さんに理志さんが勤めていた美容院へ連れて行かれ、理志さんを紹介された。
それから私は理志さんがお店を変えてもずっとお世話になっている。
当時二十一歳で、まだ美容師としての腕は少し不安になることはあったが、今では信頼してお任せをしている。
「ええ、お願いします」
席に通されて鏡越しに理志さんと目が合った。
私が警察官であることはもちろん知っているから、仕事に関する話は絶対にしない。店内の客、そして他のスタッフが聞いているのだ。そういう点でも、私は理志さんがお店を変えてもずっとお世話になっている。
「えっと、今日はセットですけど……」
理志さんが問いたいのは、この後は『運動量が多いのか』ということだ。
走ることを想定した場合、髪型が崩れないようにしなければならない。だがそれを想定していないのなら理志さんは別のヘアアレンジを提示してくれる。
「お任せします」
運動量は多くないと言うより、プライベートだから何でもいいと言う意味だ。
今日の私は襟ぐりにパールのビジューがついた白いアンサンブルとロイヤルブルーのフレアースカート、靴は三センチのパンプスだ。理志さんにその服に似合った髪型にしてもらうことになった。だが岡島の好みに合わせないとならないなと思い、注文することにした。
「あの、すみません、やっぱり、可愛い、清楚系でお願いします」
「おおっ!? 珍しい、指定があるなんて」
「ふふっ……」
ほくそ笑む私の顔を鏡越しに見た理志さんに二度見されたが、私は笑いが止まらない。
清楚系詐欺女にいつも引っかかる岡島を抹殺するチャンスがついにやって来たのだ。チンピラめ、待ってろよ――。
◇
午後七時四十五分
岡島との待ち合わせは八時だが、早く着いてしまった。それに岡島は仕事を切り上げてやって来ると言っていたから、遅くなることも考えられる。
平日の駅は混雑している。私は自販機の脇で改札口を見ながら、岡島に電話をかけた時のことを思い出していた。
岡島は私に何の疑いも持たなかった。だがさすがに気づいているだろう。そうでなければただのバカだ。
――あ、あれかな。
岡島らしき男が視界の端にいた。こちらへやって来るが、いつものチンピラじゃないことに気づいた。
普通のスーツだが、いつもと違うスーツだ。ネイビーでピンストライプの細身スーツ。それに髪型も変わっている。いつもはオールバックで昭和のチンピラだが、今日は――。
「お待たせ、奈緒ちゃん」
そう言って微笑む岡島は令和最新版のインテリヤクザ――。
「ごめんね、無理言って」
「いいんだよ……奈緒ちゃん今日は可愛いね」
「ありがとう。直くんも、今日はカッコいいね」
褒められたことなのか私が名をくん付けして言ったからなのか、はにかむ岡島はバカなのかなと思った。それに岡島が本気でカン違いしていることに愕然とした。
――なんでそんなにお洒落してるんだ。
だが昭和のチンピラが令和最新版のインテリヤクザになるとは岡島もやれば出来る子なんだなと思った。
◇
午後七時五十五分
初夏の陽気が続いているが、日が落ちると肌寒く感じる。
不意に吹いた風に乗る香りを覚えて、私は岡島に顔を向けた。私の視線に気づいた岡島は口元に笑みを浮かべ、私の服装やヘアスタイルを褒める。前髪と横の髪の間にある、長さが耳の下くらいの髪が好きだと言う。隙あらば口に入り込もうとする邪魔なあの部分だ。
――清楚系なんて男ウケ狙いなのに。
相澤もそうだ。ロングの黒髪ストレートや毛先がカールしてる清楚系が好きだという。相澤に会う時は清楚系の格好をしているが、相澤は私のことは眼中に無い。
それは私の背が高いからだ。相澤は小柄な可愛い女の子が好きだから。
一メートル六十八センチの私にはそもそも可愛い清楚系など似合わないのだ。ハイウエストの切替ワンピースはデザイナーの意図しない着こなしになる。何度、試着室で涙を呑んだか――。
「奈緒ちゃん、どうしたの?」
試着室の切ない過去――パフスリーブを着たらガンダム――を思い出したからなのか、私に元気が無いように思えたと岡島は言う。
またふわりと、香りが舞った。
岡島の纏う香水はいつもと違う。柑橘とジャスミンの香りだろうか。岡島の問いに『いつもと香りが違うね』と言うと、また岡島ははにかんだ。『違うのをつけてきた』と言うが、私は知っている。
――お前、葉梨の香水、パクっただろう。
これは葉梨の香水だ。今はミドルノートに変わる頃だ。この後はサンダルウッドやラストのムスクが香るだろう。だが私は思った。今日の岡島は本気なんだ、と。
私は岡島に、『似合ってるね、私の好みだよ』と言うと、岡島が急に私の右肘の上を掴んで引き寄せた。驚いて身動き取れないでいると、耳元で囁かれた。
「奈緒ちゃん、そういうの、俺、本気にしちゃうからやめておきなよ」
――バレてた。
私は岡島の肩に手を置いて少し押し返して、『いつからわかってたの?』と聞くと、目を伏せた岡島は頬を緩ませて、左肘も掴んで、私を正面に向かせて言った。
「最初から。だって奈緒ちゃんが俺に『会いたい』なんて、天変地異の前触れかと思うよ」
私は思わず吹き出してしまった。
私は岡島の腕を解き、後退して岡島の顔を見た。そして、言った。
「バカなの?」
その言葉に、岡島は嬉しそうに笑った。
◇
午後八時九分
岡島と私の行きつけのバーに来たのだが、そこにむーちゃんのもう一人の弟である松永敬志さんがいた。
このバーは四年前に松永さんに連れて来られた店で、松永さんの息がかかっているバーだ。松永さんがいてもおかしくはない。
扉を開けた瞬間、店の一番奥にあるハードダーツボードの手前にあるテーブル席にいた松永さんに気づいた。カウンターの中にいるバーテンダーの望月さんを見ると、少し様子がおかしい。彼と目が合うと、彼は松永さんに目をやった。
松永さんは私にハンドサインを送っている。岡島は松永さんに気づくと体を強張らせたが、ハンドサインには気づいていない。松永さんは、『三十分で終わらせる』という意味のハンドサインを私に送っているが、むーちゃんの弟は完全にキレている――。
◇
「俺ロングアイランドアイスティー、お前らは?」
松永さんは私たちが来るまでに数杯のカクテルを飲んでいたようだが、今注文したロングアイランドアイスティーはノンアルコールだろう。私が教えられたハンドサインと似たような指の動きをしたから。
この状況でアルコールを注文出来る程、私の神経は図太く無い。だがここはバーだ。ビールかカクテルを注文せねばと思うが、頭が働かない。
「早くしてよ」
「はい、えっと、同じのをお願いします」
「かしこまりました」
バーテンダーの望月さんは灰皿を替えてカウンターへ戻った。
そして、三十分間の説教タイムが始まった――。
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