第3話 日本酒とビールと可愛い犬と

 一月二十三日 午後六時三十七分


 いつもの居酒屋に来た。

 表の通りから一本入ると人通りも少なく、個人経営のこの店はそんなに騒がしくなくて私は好きだ。

 料理は美味しいし、日本酒が豊富で私は冷蔵庫に並ぶ日本酒を上段左手から順に飲み続けていて、今日は中段右手のあたりからのスタートだった。


「あらっ! いらっしゃーい!」


 明るくて朗らかな声の主は女将さんだ。

 色白でぽっちゃりとした女性で、甘えたくなるような笑顔の女性だ。


 ――私の対極にいる女性。


 いつか彼女の柔らかそうな二の腕をムニムニしてみたいと思っているが、機会に恵まれずに今に至る。


「新しい日本酒、入ったのよ!」

「えっ本当に?」

「三種類よ」

「頂きます!」

「三種類とも一回で出していいのよね?」

「はい!」


 私は新しい日本酒にワクワクして頬が緩んだ。

 いつものお座敷に入りコートを脱いでいると、三人はコートを脱ぎながら私を見ていた。葉梨は目を彷徨わせている。なぜだろうか。赤いワンピースは派手だったのだろうか。


「なに?」

「あの、俺ら、ビールでもいい?」

「うん」


 そう言った岡島は女将さんに『俺らビールで!』と元気に言った。


 ――おそらく瓶、だろう。


 この居酒屋は岡島ではない誰かの息がかかってる店だ。だが、それを私は知ろうとはしない。多分、知ってはいけないと思うから。

 この女将さんは信頼出来る女性、私はそれだけでいい。


「カニあるよ? どう?」


 女将さんは次々とおすすめメニューを言うが、全てに共通するものがある。


 ――食べるのが面倒なメニュー。


 そうか、葉梨を試しているのか。

 だが、すでに葉梨はそれに気づいている。


 ――使える、かも。


 性差はあれど、警察官としての仕事は同じだ。岡島が葉梨を仕込めと言ったのは私が女だからか。


 ――何事も経験だ。私も葉梨も。


 オールラウンダーになると疲れるだけだ。利用される。重圧もある。だが葉梨ならやれると岡島は思ったのだろう。


「葉梨はお酒は強いの?」

「弱くはないと思います!」


 葉梨のことは調べてある。彼はとても有能らしい。警察官としての能力はもちろんのこと、彼は性格も良くて温厚だそうだ。


 警察官になったきっかけは高校生の時に駅の改札口で警察官にスカウトされ、警察官を目指したのだという。

 私はそれでいいのかと思ったが、警察官によるスカウトは大切だ。私も新人の頃にスカウトして来いと言われて女子高生に話しかけたが、親と学校からクレームを食らった。少し、悲しかった。


 葉梨は元々刑事課所属だったが、ある事件をきっかけに生活安全部への転属が決まった。松永さんの兄である敦志あつしさんの事件だ。



 ◇



「じゃあ、乾杯しよう」


 岡島が音頭を取り、私達はグラスを合わせた。

 それから暫くすると、女将さんは料理を持ってきた。


「はい、どうぞー!」


 テーブルの上に並べられた皿を見て、皆驚いた。


 ――これは、多すぎだろう。


 カニが丸ごと置かれ、さらに刺身が山のように盛られている。他にも薩摩揚げや揚げ物、大きなエビフライも添えられている。


 ――でも全部、人数分、無い。


 岡島は意地悪だなと思うが、葉梨がなんとかするだろう。



 ◇



「女将さん、日本酒を……」

「もう三合飲んじゃったの!?」

「はい」


 困ったように笑う女将さんはちらりと葉梨を見たが、すぐに私の目を見た。そして『中段右手あたりだったわよね?』と言った。


「はい、お願いします」


 正面の葉梨を見ると、すでに岡島から睨まれていて小さくなっていた。だがそれは比喩だ。背の高い葉梨は正座をしていて凄くデカい。


「あの、加藤さん、気づかなくて申し訳ございませんでした」

「なにが?」

「お酒が無くなっていたことです」

「ああ、いいよ、そんなの」

「本当にすみません」


 官舎の同室で先輩に連行されて来た葉梨は可哀想だと思う。だが警察官などそんなもんだ。組織はそうやって機能しているのだから。



 ◇



 私が六合目の日本酒を飲み始めた時だった。

 相澤がトイレに行き、岡島は葉梨にハンドサインを送った。席を外せ、三分以上経ってから四分以内に戻って来い――。

 私はそれに気づかないふりをしてカニを黙々と食べていた。葉梨が食べやすいようにしてくれたから私は黙々と食べていた。美味しい。


 葉梨が座敷を出て歩き始めた時、岡島は口を開いた。


「ねえ奈緒ちゃん、結婚しようよ」

「離婚歴のある人は嫌だよ」

「じゃ、誰かに養子縁組してもらって戸籍をまっさらにする」

「バカなの?」

「ならさ、そろそろ俺のことを『くん付け』して呼んでよ」

「やだよ」

「奈緒ちゃんと直くん、いいじゃん、お願い」

「殴るよ?」


 いつものやり取りだが、同じくカニを食べている岡島は私と岡島しかわからない符牒を送ってきている。

 誰もいないのだから話せばいいと思うし、この店でもそれをやるということの意味は――。


 ――もうこの店には来れないのか。


「葉梨に会ったら、聞いてみてよ」


 岡島は私に意味が通じたと思ったのだろう。葉梨は知っている――。

 ということは葉梨が気づいたということか。そんな後輩を私が仕込むよう岡島は指示した。面白そうだなと私は思った。

 口元に笑みを浮かべると岡島も同じようにする。

 そこに相澤も戻って来て、すぐに葉梨も戻って来た。


「ねえ裕くん、手羽先の甘辛いやつ食べる?」

「奈緒ちゃんまだ食べるの!?」

「うん。あ、ねえ葉梨」

「はい!」

「あんたが食べたいもの注文してよ。私それ食べるから」

「わかりました!」


 葉梨は手羽先の甘辛いやつとエビフライと焼き鳥とピザと朝採れ野菜のなんたらとオムライスと餃子とフライドポテトと豚串とイカリングと厚焼き玉子とサラダとチーズの何かとビールとハイボールと焼酎のお湯割りと烏龍茶を頼んでいた。


 さすがに多すぎるのではと思ったが、葉梨は全部食べた。私はそれぞれ少しずつもらった。

 葉梨は凄く美味しそうに幸せそうに食べるし、食べ方が綺麗だ。


 葉梨は見た目は熊で体格もいいが、意外にも健気で素直で可愛いと思った。相澤も葉梨も、警察官としてはどうかと思うくらいに純粋で真面目で優しい。

 岡島もチンピラだが優しい。しかし私は十四年前の膝カックンが許せないから物理的に抹殺したいと思う気持ちは変わらない。



 ◇



 会計を済ませ、女将さんと大将に挨拶をして店を出た。


 ――お気に入りのお店だったんだけどな。


 少し、嫌な気持ちになった。

 それを見透かしたのか、岡島は相澤と肩を組んで先を歩いていった。ゴリラと普段着のチンピラの向こうに人がいる。前方にいたその人は道の反対側へ行った。ナイス判断。二人は警察官だが。


 葉梨と私は取り残されたが、私は葉梨に連絡先を聞かなくてはと思い、言った。


「ねえ葉梨。連絡先教えてよ」

「えっ……」


 見上げる葉梨は不安そうな顔をしている。なぜだろうか。


「あのさ、今後は二人で会おうよ」

「えっ!?」

「いろいろ教えるから」

「……はい」


 葉梨は相変わらず不安そうな顔をしているが、岡島が言う通りだった。葉梨は私を女として見ていない。私にとってはいいことだ。ただの先輩と後輩――。


 電話番号を言う葉梨の声を聞きながら、私はスマートフォンを操作して、電話をかけた。

 メッセージアプリのアカウントは後日でいいだろう。



 ◇



 葉梨は官舎に戻った時間だと思料される時刻にショートメッセージを二通送ってきた。

 今日のお礼と、メッセージアプリのアカウントIDが書いてあった。


 私はすぐにメッセージアプリで葉梨を検索するとアイコンが可愛い犬だった。ふわふわした毛の、名は何だったか。

 思わず頬が緩んだが、私は『おやすみなさい』とだけメッセージを送った。





 

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