走れメロス:Beyond the Believes

雨瀬くらげ

 セリヌンティウスは激怒した。此の男はこれほど脆弱ではなかったと嘆いた。ディオニスはそれを諌めると、再びメロスに問いかけた。


「わしは今でも忘れておらぬぞ。おまえがわしに信じる事の大切さを教えるため、この場所からシラクスまで走って来たあの気高き勇姿を。」


 メロスもそれは忘れていなかった。あの後、メロスとセリヌンティウス、その弟子であるフィロストラトスは城の役人としてディオニスの下で働き始めた。更に、メロスは緋のマントをくれた少女を女房にした。あの日からメロスの一切が変わったのだ。少女は慣れぬ城暮らしを懸命に支えてくれた。ディオニスは政治がわからぬメロスに一から城の仕事を丁寧に教えてくれた。そして、初めて人を疑ったことも忘れられずにいた。自分への扱いが変わったことが異様に思えたのだ。生活が変わったのだ。違和感は当たり前のものである。しかしメロスはそう思えなかったのだ。何かがおかしい、周囲の人間が何を考えているかわからぬ。一度疑い始めるとやがて心が恐怖で支配された。シラクスの街が戦争を始めると、メロスの心は恐怖で爆ぜてしまった。そして故郷エトナでの療養を命じられたメロスは今、妹夫婦と共に暮らしている。


「メロス、何故だ。あの日から変わった王をおまえも見てきただろう。」


 セリヌンティウスもメロスに詰め寄った。


 彼とディオニスは戦場まで戦争を止める旨の手紙を届けて欲しいとメロスに頼みに来た。馬よりも早い健脚の持ち主はメロス以外にいないと彼らは考えているのだ。メロスはばかげた事を言っていると愍笑した。


「私はもう長くこの家を出ていない。この脚も硬く凝り固まっている。それを健脚だと言うのですか。」

「その通りだ。わしはおまえの脚を信じている。」

「疑うのが正当な心構えだと、前は言っていたではありませぬか。」

「わしは変わったのだ」

「あなたは変わっていませぬ。罪のない人を殺して、何が平和だ。変わったのなら戦争など起こしまい。変わったのは私です。人間は私欲の塊。信じるなど愚かな行為だと思い直しました。」


 彼らと目を合わせないメロスを見て、セリヌンティウスはディオニスに耳打ちをした。


「もう行きましょう。彼を説得するより、馬を出す方が早いに違いない。」

「そうか。残念だ。」


 そう言って彼らは立ち上がり、家を出て行った。


「兄上様、よろしいのですか。」


 妹は水の入った器をメロスの手元に置いた。メロスはそれを一飲みすると、深く頷いた。


「私はかつてのメロスではない。正直者で真っ直ぐなメロスはもうおらぬのだ。ああ、ゼウスも失望しておられるだろう。勇猛果敢な男のこの有様に。」

「確かにそのお姿には誰もが失望しておられるでしょう。しかし、信じる心は何もお変わりないではありませんか。」

「何を言う。あの王はおろか、友セリヌンティウスまでも信じられぬのだぞ。」

「では何故、人を信じられぬ自分を疑わないのです? まだご自分だけは信じることができるのではありませんか。」

「それは屁理屈ではないか。」


 メロスは器に残っていた水を飲み干すと、力強く器を机に叩きつけた。大きな音に妹は驚き、彼女の亭主も様子を見に奥から顔を出した。愛する妹を怯えさせ、メロスは罰が悪い顔をしたが、謝罪をする気にもなれずに二階にある自分の部屋へ戻った。


 藁で作った寝床に寝そべり、傍にある小窓から外を覗くと、シラクスへ帰って行くディオニスらの姿があった。彼らの後ろ姿を見ながら、メロスは妹の言葉を反芻する。


「私はまだ信じることができるのだろうか。確かに邪智暴虐の王は変わった。シラクスの街をより良くしようと市民に優しくするようになった。しかし戦争が起きた。そして兵に敵兵を殺せと命令し、戦場に送り出している。これではかつての暴君と変わりない。ああ、メロスよ。あの後ろ姿を見てみよ。本当に王は暴君に戻ったのだろうか。いいや、違うだろう。かつての王なら私を訪ねて来ることなどありえない」


 メロスは寝床から飛び降りると、先程上って来た階段を駆け降りた。妹もその亭主もメロスの様子に目を丸くしていたが、やがて悟ったように優しい目で頷いた。メロスは「ありがとう」と妹と抱擁を交わすと、長い間開くことがなかった扉を開け、家の外に出た。


 メロスにとって久しぶりの芝生だった。彼は裸足だったので、素肌で大地を感じていた。メロスはその大地を力強く蹴って走り出した。しかし、暫く動かしていなかった脚は彼の言うことを聞いてくれはしなかった。前に出したはずの右脚は左脚にぶつかり、芝生の上にメロスは倒れた。


「倒れても諦めてはならぬ。かつてのメロスがそうだった。」


 メロスは自身にそう言い聞かせると、地面に突いた手に力を込め、揺めきながら立ち上がった。そしてまた一歩、また一歩と走り出す。


「王よ! セリヌンティウスよ!」


 脚を動かすことだけで精一杯だったが、まだ見えている背中に向かって声を絞り出した。その声にセリヌンティウスが気付き、王も馬を止める。セリヌンティウスは馬から飛び降りると、蹌踉めくメロスに駆け寄り、強く抱き留めた。


「ああ、メロス! よくぞ追いかけてくれた! 私はお前を信じていた!」

「友よ、先程はすまなかった。私としたことが、我を忘れていたのだ。許してくれ。また頬を殴ってくれても良い。」

「そうさせてもらおう。しかしそれはお前が戦場から帰って来た後だ。」


 馬から降りたディオニスも倒れ込んでいるメロスに視線を合わせるように膝を突いた。「王よ、ご無礼をお許しください。」と、メロスは更に額を大地に近づけようとした。しかしディオニスは彼の肩を掴み、上体を起こした。


「メロス。お前が来てくれた。それだけで良い。免罪ではない。そもそも罪に問うてはおらぬ。」

「王様、正直、私はまだ信じる心を取り戻したわけではありません。しかし、あの日のことを思い出したのです。必ず戻ると誓った私を待ってくれた友と王様、あなたのことを。私を信じてくれている人がいるのならば、私に出来ることをしてみようと思ったのです。」

「そうだ、それこそ我が友メロスだ!」


 セリヌンティウスは声高らかに拳を空へ突き上げた。


 ディオニスは胸元から一通の手紙を取り出すと、土に汚れたメロスの手にしっかりと握らせた。


「メロス。わしはお前を信じている。わしのために、戦場の兵士のために。そしてお前のために、走ってくれるな?」

「はい。見て頂いた通り、かつての健脚ではありませぬが。」

「老いてなお、馬に追い付く脚だ。手前の脚くらいは信じてやれ。」


 メロスはディオニスから差し出された手を取り、立ち上がった。そして受け取った手紙を胸に当て頷いた。


「戦場は真東だ。日暮れまでに頼んだぞ。走れ! メロス!」


 その声と同時にメロスは矢の如く走り出た。

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