第38話

 宣美は集会所の前の自動販売機の横にあるベンチを指差した、張本が「はい!」と返事をしてついてくる、温かい珈琲のボタンを押すとガシャンとアルミ缶が落ちる音がする、この自販機はお金を入れる必要がない、費用は国の利益から出しているからだ。


「張本くんは? 珈琲でいいかな」


「はい、ありがとうございます」


 温かい缶を渡すときに触れた指先が冷たかった。


「仲が良い兄弟だったの?」


 宣美が話を促すと張本は楽しそうに兄との思い出を語った、三つ年上のヒョンは大世を可愛がり毎日遅くまで二人でサッカーをした。


 才能があったヒョンは八歳の時に地元のクラブチームに入る。そこでも才能を開花したヒョンは友達や先生にも一目置かれる自慢の兄だった、体が小さくイジメの対象になりがちな大世もヒョンのことを知るとみな仲良くしてくれた。


 将来はjリーガー、そんな夢を見ていたヒョンは中学でプロを育成するユースチームにスカウトされる。すぐにレギュラーになったヒョンの試合を観にいった時に異変に気づいた。


 ヒョンの後を追ってサッカーに励んでいた大世じゃなくてもその試合は異様に映っただろう。だれもヒョンにパスをしないのだ、フォワードなので点をとるのが役割の彼に誰もパスを送らない。前線でポツンと一人立っているヒョンはまるで一人だけ別の競技をしているかのようだった。


「やべー、張本。完全に空気じゃん」


 混乱する大世のすぐ隣から声がした、どうやらだれかの応援にきている友達だろうか。なぜか心臓がドキドキした。


「あいつ、朝鮮人らしいぜ、やばくね」


 結局その試合でヒョンがボールに触れたのは一度だけ、ハーフタイム中に仲間と喧嘩になったヒョンは前半で交代になった。


 それからヒョンに何があったのかはわからない、あんなに活発だったヒョンがサッカーにも学校にも行かなくなり家に引きこもるようになった。そしてある朝、オンニが部屋に入ると首を吊って死んでいた。


 オンマ、アボジ、大世、ごめん――。


 遺書にはそれだけ書かれていた。


「中学生になって、やっとヒョンに何があったか理解できました、もっとも僕はずっと朝鮮学校だったので日本人に虐められる事もありませんでしたが」


 宣美は何も言えなかった、家族を失う悲しみは分かるが、それが事故や病気であれば時間と共に心の整理も出来るかもしれない。しかし、自殺の後に残された家族はどうだろうか。


 気がついてあげられたら何かできたんじゃないか、そんな後悔が一生ついて回るのかも知れない。さらに原因がイジメである場合、復讐の対象が明確なだけに怒りの矛先が向くのは容易に想像できる。


「復讐なんてしたらヒョンがいる天国には行けないかなあ」


 自虐的な表情で大世は呟いた。


「張本くん、天国なんてないの、でもヒョンは永遠に私たち、その子供たちにまで記憶に残るわ、命は限りがあるけど記憶は永遠なのよ。君が死んだらヒョンはもう一度死ぬのよ」


 だから死に急がないで、そんな思いを込めた。


「宣美さん、ありがとうございます、やっぱりあなたは強いだけじゃない、とても優しい人でした」


「……」


「ヒョンが生きていたら紹介したのになあ、きっとお互い気に入ってくれたはずです、そしたら僕は宣美さんの弟だ」


「大世……」


「僕は死にませんよ、宣美さんが覚えていてくれるから、できればヒョンのこともお願いします!」


 元気よく立ち上がると「では、失礼します」と言って暗闇の中に消えていった、その背中に宣美は何も声をかけることができない、ただ自分がやっている事が本当に正しい事なのか、そんな不安が纏わりついて離れなかった。しかし後戻りなんて出来ない。空いた缶をゴミ箱に捨てると集会所の中に戻った。

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