第17話 ハラボジ(祖父)の話

 夏休みに入ってから一週間、今日も朝から夏の日差しがアスファルトに照りつけていた、紺碧の空には雲一つなく、宣美の心の中のように晴れやかだった。


 麗娜は先日からすっかり孝介の家に入り浸り、アボジは相変わらず忙しい。すっかり宿題も片付けてしまい暇な宣美は高島平で一人暮らしするハラボジの部屋を掃除がてら様子を見てくるようにオモニから指令をうけていた。


 家から赤羽駅に向かうのに亮二のいる交番は通らない、それでも一目、一声、言葉を交わすチャンスを求めて少し回り道をするのはこれが初めてじゃなかった。


 巡回に出ていない事を心の中で祈りながら角を曲がった、果たして交番の前には制服を着た亮二が退屈そうに立っていた。心臓の鼓動が速くなる、引き返そうとする理性を本能が上回りスタスタと近づいていく。彼が気付いた。


「おお、宣美、おはよう」


 ほどよく日焼けした精悍な顔、ガッチリとした腕、一見すると強面の顔は悪人を許さないといった鋭い眼差しと相まって、近寄りがたい雰囲気がある。


「おはよう、今日も暑いね」


 額面通りの挨拶をすると「まったくだ、この制服がまたクソ暑くてしかたない」と破顔する、白い歯が見えた。


「一人でお出かけか?」


「うん、おじいちゃんの家にちょっと」


「ハラボジは大切にしろよ、ガム食うか?」


 麗娜じゃあるまいしガムなんていらないよ、なんて全く思わない。「ほれ」と亮二が差し出した板ガムを一枚抜き取るとパチンッ、と親指を挟んだ。


「ハッハッハー、引っかかったー」


 まるで小学生のようにはしゃいでいた、同じ事を同級生にされたら溝鼠どぶねずみを見るような反応になるだろう。


「もー、なにするのよー」


 腕の辺りを軽く叩くと「ごめんごめん」と言いながら飴をくれた。大切にポケットにしまう。


「もう、私、急いでるんだから行くよ」


 本当はずっとここにいたいけど、そんな訳にもいかないので「じゃあね」と言って駅に向かって歩きだす。


「宣美、気をつけてな」


 背後から声がかかり振り向くと、帽子の鍔に手を当てて敬礼していた、宣美も向き直りそれに習う。


「うん、ありがとう」


 異性を好きになるのは初めてじゃない、幼稚園の先生、小学校の同級生、聚楽の孝介。しかし今までの恋心など児戯であったかのように亮二にときめいていた、四六時中、亮二のことを考えては心拍数を無駄に上げている、食事も喉に通らなく家族の会話も上の空。


 オモニに「具合わるいの?」と聞かれて誤魔化す言葉を探していると「恋の病ね」と麗娜が口を挟んだ。


 二十六歳と十三歳、叶わぬ恋と分かっている、しかし、五年経てば三十一歳と十八歳、まだ厳しいか、七年経てば三十三歳と二十歳。うん、これならあるいは。ぶつぶつと考え事をしながら歩いていると、いつの間にか駅前ロータリーに出た。


 高島平行きのバスを探すとすでに停車していた、幸い椅子も空いているので腰をかける、車内はエアコンが効いていて汗が一瞬で引いていった。程なくしてバスは目的地に向かって走り出す、高島平までは二十分くらいかかるので宣美は鞄から文庫本を取り出して読み始めたが集中できない、環境のせいではなくこれから会うハラボジに今までは聞いたことがない質問をすることが、意図した答えが返ってこない確立が高いことが分かっているだけに怖かった。


 しかし何も知らないままでは納得できない、歴史の本や教科書には書かれていない生の声を聞くまでは。


『次は高島平、高島平ー、お降りの方は――』


 白いブザーを押そうと手を伸ばしたが一瞬早く誰かに押されてしまって「ブー」っという効果音と共に赤いランプが灯る、団地が立ち並ぶこの土地には多くの人が下車した。


 再び夏の日差しに晒されながら団地を通り過ぎて五分ほど歩く、古めかしいアパートの二階にハラボジの住処はあった。


「おじいちゃーん、成美だよー」 


 ハラボジがこの場所でどんな人間関係を築いているか分からないので念のため通名で名乗る。誰が聞いているか分からない。扉の向こうに気配を感じるとガチャリと扉が開いた、穏やかな笑顔で「よく来たなあ」と宣美を迎える様は好々爺然としている。 


 狭い三和土に靴を脱ぎ揃えて部屋に入る、中は意外と広くてダイニングの他に畳の部屋が二つある、それもそうだろう、以前はハルモニ(祖母)と二人で住んでいたのだから。


「ハラボジ元気?」


 話しかけながら一直線に仏壇に向かう、ハルモニが癌で死んでからもう三年経つ、オモニにすごく厳しい人で幼いながらに宣美は苦手だった。お線香に火を付けて手を合わせる、今だこの行為に何の意味があるのか分からないが形式上済ませていた。


「おお、元気だよ、宣美はもう中学生だったか?」


「うん」


 そう言えば中学生になってからは初めての訪問だ、年齢をしっかりと覚えているあたりまだボケてはいないようで安心した。


 しかし老人の一人暮らしの部屋は荒れていた、敷きっぱなしの布団に、食べっぱなしの食器類、ゴミは溜まりシンクの中は底が見えなかった。


 定期的にオモニが掃除に来ているらしいが本人に片付ける意思がないので結局元通りになっている、片付けに来るのは初めてではないが周りを見渡して辟易した、エアコンが効いているのが不幸中の幸いだろうか。 


「ちょっと部屋かたしちゃうから、散歩でも行ってきなよ、帰ってきたらお昼一緒に食べよ」   


 冷蔵庫を開けると食材は一通り揃っている、ざっと見渡して献立は冷やし中華に決まった。


「えー、暑いから外に出たくないなあ」


 子供みたいな我儘を言い出す、義娘のオモニには比較的気を使っているが孫の宣美にはあけすけだった。


「いいけど、いるなら手伝ってよ」


 ホウキを渡そうと手を伸ばすとそそくさと宣美の脇をすり抜けて玄関を出ていった。おそらく駅前のパチンコ屋だろう。年金生活なのだからあまりギャンブルに投資しなければ良いが。 

 

 よし、と気合を入れて腕まくりをすると部屋の掃除に取り掛かる、溜まった食器を次々に洗い食器カゴに詰めていく、ゴミをまとめて袋に詰めると、宣美の判断で必要ないと踏んだものは次々に捨てていく、よれたシャツやパンツ、入手経路が不明の置物など、どんどんゴミ袋に詰めていく、足の踏み場もない部屋はあっという間に綺麗になった、最後によく絞った雑巾で畳や窓を拭き上げて完成だ、暑いが窓を空けて換気すると部屋の中の淀んだ空気が一変されて爽やかな風が入ってきた。 


 アパートの外階段がカンカンと鳴って誰かが上がってくる、おそらくハラボジだろう、時計に目をやると二時間が経過していた、パチンコは負けたのだろうと予想する。


「ただいまあ、おお、綺麗だなー」


 辺りを見渡して感心している、どうやら汚い部屋が好きな訳じゃないようだ、だったらもう少し片付けをすれば良いのに、とはいえ我が家でもアボジは全く家事が出来ない、いや、やろうともしない。それが北朝鮮の伝統でもあるかのようにテコでも彼らは動かなかった。


 冷蔵庫から卵を取り出して錦糸卵を作る、キュウリとハムを細切りにして茹でた市販の冷やし中華の上に乗せる、暑いがわかめスープも作っておいた。


 料理は特に誰かに習った訳じゃない、自己流だ、最も冷やし中華が料理と言えるかどうかは疑問だが。


「はい、お待たせ、で、負けたの?」


 勝っていればもう少し帰りが遅くなるはずだし、何かしら景品を持って帰ってくるはずだ。


「う、ああ、まあな。頂きます」


 シルバー製の箸は、冷やし中華がツルツルと滑って使いにくいがこの家には割り箸がない。


「学校はどうだ? 日本の学校に通っているのだろう」  


 オモニから聞いたのだろうか、ちょうど良かった、話が振りやすい。


「うん、楽しいよ」


 今は心からそう言える、たった一人友達が出来ただけで学校生活が劇的に変化した、元クラスの中心人物で才色兼備の典子といるのが影響しているのか、朝鮮人とからかってくる男子もいなくなった。


「そうか、なら良いんだが」


 何か含みがあるような言い方が気になった。


「どうして? 虐められてると思った?」


 まあ、実際に虐め、いや、差別を受けていたのは事実だが。


「まあ、少し心配だった、まだまだ在日朝鮮人の肩身は狭い、昔よりはだいぶ良くなったと聞くがな」   


 あっという間に食べ終えたハラボジが食器を片そうとするので「そのままでいいよ」と言うとシャツの胸ポケットからタバコを出して火をつけた、上を向いて紫煙を吐き出す。一応まだ食事中の宣美に気を使っているようだ。


「あのさ、なんでハラボジは戦争が終わった時に北朝鮮に帰らなかったの?」   


 当時殆どの朝鮮人は自分の国に帰ったそうだ、それは普通の感覚だと思うし日本に残ったハルボジ達は少数派だろう。


「うん、まあ簡単に言うと生活の基盤が日本に出来上がっていたからだな、北朝鮮に戻っても家も仕事もない」


「それでも故郷に帰りたいって思わなかった?」


 食べ終えた食器を重ねて立ち上がる、あまり興味はないような雰囲気を出したのは深刻に考えてほしくなかったからだけど、ハルボジは「うーむ」と難しい顔をしながらタバコを灰皿に押しつけた。


「やっぱり貧しかったからなあ、なんだかんだで日本にいれば飢え死にする事はない」


 文献によれば戦後の日本は物資も食糧も足りずに貧困に喘いでいた、とある。それよりも北朝鮮は貧しかったというのか、不自由ない現代に生きる宣美には想像ができなかった。


「それに、生活が落ち着いて貯金でもできたら帰れば良いと考えていたんだよ」


 すると戦争が終わり間もなく朝鮮半島は上下で分けられた、北朝鮮と韓国。たまたま北朝鮮側に住んでいたハルボジは否応なく北朝鮮人になった。そしてその孫である宣美も在日朝鮮人になった。二人とも北朝鮮なんて国に一度も行ったことなどないのに。


 程なくして子供、つまりアボジが生まれた事により正体不明の国に帰る選択肢はなくなったのだと言う。


「でもハルボジは日本人嫌いだよね」


 結果的に日本にいて不自由ない生活をしているのだから日本人を毛嫌いする理由はなんだろう、今日一番聞きたかった話だ、洗ったお皿を拭きながら振り返り質問した。ハルボジは再びタバコを抜き取るとマッチで火をつける。


「日本人は悪魔だよ、同じ人間とは思えん」


「ふーん、そうかなあ、私はそう思わないけど」


 宣美を見つめるハルボジの目が一瞬鋭く光りすぐに元の優しい顔になった。


「宣美がそう思うならそれでいい、ただ、わし達が日本人から受けた屈辱はそろそろ話しても良いだろう」


 それからハルボジは丁寧に自分達、いや、朝鮮人達が日本人にされた迫害を説明してくれた。


 ハルボジは太平洋戦争中の植民地時代に日本に強制的に連行されて、朝の五時から夜中の十二時まで何に使うかわからない鉄の塊を作り続けた、満足な食事も与えられずにあっという間に体重は減り、毎日のように仲間が死んでいった。


 死んだら補填、まるでロボットのように半永久的に働かされた。終わりの見えない地獄の中で日本が敗戦したと聞いた時はみんなで喜びあった。


 ハルモニはもっと酷い。十四歳の若さで朝鮮に派遣された日本軍人の娼婦にされ。毎日毎日、何人もの相手をさせられた、もちろん避妊などしないから何度も妊娠する、その度に堕胎してまた相手をする。


 頭がおかしくなり自殺する仲間が大勢いる中でハルモニは何とか生き残ってこられた。三十を過ぎると性奴隷の価値はなくなり日本に呼ばれて強制労働、そうしてハルボジとハルモニは出会い、結婚したと言う。


 聞いているだけで胸糞悪くなる話だが、果たして本当だろうか、つまりは慰安婦、徴用工問題の事だが本当にそんな劣悪な環境。不当な扱いを受けていたのだろうか。


「日本人の本質は悪魔なんだ、宣美もあまり奴らを信用してはいけない、上部だけの付き合いにしておきなさい」


 ハルボジの言いたいことも分かる、話半分に聞いても酷い目にあったのは確かなのだろう、実際宣美もいわれのない虐めを味わった、けど――。


 悪い人ばかりじゃない、そんなの世界共通だと思う、どの国にも悪い人はいるし、良い人もいる。日本人全てが悪人なんて考えが偏りすぎている、典子も亮二も、孝介だってすごく良い人達だ、彼らの悪口を言われた気がして腹がたった。


「ハルボジは考えが古いよ、そんな昔の話。今の日本人は良い人も沢山いるよ」


 思わず立ち上がり捲し立てる、ハルボジは悲しそうな目で宣美を見上げていた。


「騙されないようにな、やつらは人の皮を被った悪魔なんだ」


 ハルモニが子宮癌で死んだのだって若い頃のムチャが祟ってなんだ、仲間もハルモニも日本人に殺された、だから宣美は気をつける――。


 ハルボジが言い終える前に「もういい」と言って靴を履いて玄関を飛び出した、カンカンカンと子気味よく階段を降りて振り返る、ハルボジの部屋の扉はシン、と静かに佇んだいた。

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