第2話

「オンニー、待ってよー」


 朴宣美が振り返ると真っ赤なランドセルを背負った妹の麗娜ヨナがガチャガチャと音を立てて走り寄ってきた。八歳にしてはかなり小柄な方なので、まるでランドセルが一人で歩いているようだ。


 宣美は目線を合わせる為にしゃがんで麗娜を迎えると、両手で柔らかいほっぺたを軽くおさえた、唇が尖って可愛らしい。


「麗娜、外じゃお姉ちゃんて呼ばなきゃダメって言ってるでしょ」


「あ、しょーだったぁ」


 自分の頭をコツンと叩く仕草は天然なのだろう、愛らしい顔と相まって宣美をホッコリさせる。別に叱責した訳じゃない、こんな小さな子供に日本語と朝鮮語を使い分けろと言う方に無理がある。


 宣美が立ち上がり歩き出すと麗娜は鞄を持っていない右側に回り込んで手を繋いできた、あまりにも自然なその仕草に軽く笑みを漏らすと交通量の多い道を避けながら家路についた。


 東京の端っこにある赤羽の駅から徒歩で十分、近代的なマンションが突如として現れる。時代はバブル景気真っ只中、マンションを建てれば即完売、住居用にする者、右から左に売り流して莫大な利益を上げる者と用途は様々だったが、とにかく日本全体が浮き足立っていた、それは中学生の宣美にも分かるくらいの騒乱で、多分に漏れず両親もその恩恵に預かっていた。  

 

 この豆腐を縦にして巨大化したような真っ白なマンションもその戦利品なのだろう、エントランスに入ると何の為に付いているか分からないオートロックのドアが行く手を阻んでいる、鞄から鍵を取り出そうとするが中々見つからない。


「オンニー、じゃなくてお姉ちゃん、麗娜が開けてあげるよ」


 麗娜はそう言うとランドセルを大義そうに下ろして中から一枚のプリントを取り出した、どうやら算数のテスト用紙に見えたが三十五点と赤いペンで書かれているのを確認して見ないふりをした、器量が良くて愛嬌もあるがあまり頭が良くない事は知っている。


「見ててね」


 オートロックの扉の下にある僅かな隙間にプリントを差し込む、プリントの半分以上が扉の向こう側に透けて見えた、麗娜は手首を巧みに動かしてプリントを動かしている。


『ゴーーーーー』


 三十五点のテスト用紙を人間と検知したセンサーは意図も容易く扉を開放した、これを作った人間は頭が良いのか悪いのか、もはや判断がつかない。


「ね、あいたでしょー」


 プリントの汚れを軽くはたいて大切そうにランドセルに戻している。


「凄いね麗娜、どこで覚えたの?」


 エントランスに入りエレベーターを呼び出す。


「同じクラスのジェユンだよ、麗娜の事が好きなんだってさ」


 舌を出した麗娜の姿は少し色気がある、もしかしたら将来はとんでもない男たらしになるかも知れない。


「でも人のお家に勝手に入ったらだめよ」


「もー、子供じゃないんだからー」


 陶器のように透き通った白いほっぺたを膨らませて講義する姿はやはりまだ幼い子供だ、エレベーターで最上階の十二階に上がると外廊下の手すりの向こうに赤羽の街並みが広がっていた、以前住んでいた西川口の狭いアパートよりも評価できるのはこの景色くらいだ、もっとも麗娜は全てにおいてこのマンションが上回ると言いそうだが。

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