第5話 無重力

 俺はまだなにが起こったのかわからないまま、立ち上がる。


 なんだ、今の? 無重力状態って、こういうのを言うのか?


 嘘だろ、こんなちっちゃな女の子が、男の俺をこんなに簡単に投げたってのか?


 目の前の少女の顔を見る。


 羽黒は、教室では決して見せたことのない、まっすぐな笑顔で、ニッコリと笑った。



「ね、あんたはどうだった? 気持ち、よかった?」



 普通に考えれば、畳の上にぶん投げられて気持ちいいとか言う奴なんて、変態以外にはありえない、俺にはそんな趣味はない。


 なのに。


 なのに、確かに、俺は思ってしまったのだ。


 気持ちよかった、と。



「ね、どう? 私の、気持ちよかったの?」



 とりようによっては誤解されるような聞き方をする羽黒。



「まあ、たしかに、痛くはなかったし、……気持ち、よかった」



 俺はあほみたいに、正直に答えてしまうのだった。



「あは、じゃあ、もう一回ね!」

「え? まじで? ちょっと待って――」



 羽黒はかまわず、再び俺の襟と袖を持つ。そして、鋭い声で、



「腰引かないで背筋のばして!」



 ついついそれに従ってしまった次の瞬間、またもや俺の身体から重力が失われた。


 全身がくるりと回転して、気がつけばもう天井を向いている。


 ――やべえ、これ、本当に、……気持ち、いいぞ……。


 なんというか、中毒性すらある気持ちよさだ。


 いやいや、俺が傷めつけられて喜ぶM体質だとか、そういうことじゃなく、普通なら味わうことのない無重力状態に陥るのが、ただ本当に純粋に気持ちがいい。



「なんだこれ、野上先生に投げられたときはただ痛いだけだったのに……野上先生だって、同じ黒帯だろ」

「野上先生、専門はレスリングだもの、道着になれてないんだと思う。昇段審査会って実践形式だから、レスリング選手が中学生や高校生に勝って黒帯とるなんて、結構あることなんだ。でも、私はね、」



 もう、それが自然で当然、というふうに俺の襟と袖を握る羽黒。



「私は、三歳の頃から柔道一筋だったんだから。道着のどこを持ってどう力を加えれば、相手のバランスが崩れるか、それだけを――」 



 全身の筋肉をバネのように伸縮させ、羽黒の小さな身体が軽い体重のすべてを利用して、俺の重心を崩しにかかる。


 あとは、今までと同じ。


 無重力、くるり、そして見える天井と羽黒の瞳。



「それだけを考えて過ごしてきたんだから。ね、月山くんってさ、すごく投げやすいね。スポーツやってるようには見えないけど、体幹の筋肉がしっかりしてるんだと思う。くにゃくにゃしてなくて、投げやすい。そういう人は大抵強いんだけど。じゃ、もう一回」



 初夏の風が吹き込む広い柔道場、密かにいいなと思っていたクラスメートと二人きり。


 真剣な、でも人を投げられる悦びを隠し切れないような、そんな表情の羽黒と向き合う。


 彼女はその場で軽くトントンとジャンプする。それにあわせて羽黒のポニーテールもピョンピョンと飛び跳ねる。


 教室ではどちらかというと地味なおさげのくせに、いま目の前にいるこいつは、どうみても快活なスポーツ少女だ。


 女の子って、髪型がちょっと違うだけでこんなに印象が変わるんだな。



「ほらほらいいでしょ、も一回、ね」



 羽黒の言葉に、俺は催眠術にでもかかったかのようにコクンとうなずき、彼女と組み合う。


 次の瞬間に見えるのは、やっぱり天井と黒真珠のように輝く大きな瞳。



「よし、じゃ、もう一回」



 投げられる瞬間、自分の身体から重さというものが消え去るのがおもしろくて、俺はつい応じてしまう。


 こうして、そこから何十回もクラスメートの女の子に投げられ続けるのだった。


 時間を忘れてしまうほどに。


 俺は投げられ続ける。


 五十回目だろうか、百回目だろうか。


 いくらほとんど痛みを感じないとはいえ、ここまで繰り返し投げられて受け身をとり続けていると、さすがに少し身体がジンジンとしびれてきた。


 羽黒も小さな肩を上下させて呼吸を荒くしている。


 ふと、俺はいたずら心を出した。


 いくらこいつが柔道の有段者だといっても、男と女なのだ。体重の差、そして筋肉の差は歴然とあるはずだ。


 こんなに簡単に投げられ続けるっていうのも、なんだかシャクだ。


 今までは投げられるのがおもしろくてそんなことはしなかったけれど、もし、全力で背負い投げを阻止しようとしたらどうなるのか?


 羽黒が襟と袖をつかんでくる。


 柔道少女はそろそろ体力を消耗してきたのか、額から汗を流し、はあはあと荒く息を吐き出している。


 今なら、男の意地ってものを見せられるかもしれない。



「じゃ、もう一本」



 羽黒は額を袖で拭うと、俺と組み合う。


 そして今まで通り、俺の襟と袖を自分の方へとひっぱりあげる。


 ――今だ!


 俺は思い切り腰を引き、投げられまいと全力で重心を後ろにかけた。




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