2-3 お前、人んちのこと銭湯かなんかと勘違いしてないか?

 帰りのホームルームが終わると、ヤナギは早々に教室を出た。廊下に溢れた喧騒の隙間を縫うようにして駐輪場に向かう。

 帰宅部のヤナギにはあまり関係ないが、テスト期間ということで部活は全て休止中だ。部活が休みの日は時々タカトと遊びに出かけることもあるが、今日は一人で帰った。タカトは例の幼馴染とテスト勉強するそうなので、お邪魔虫はさっさと退散するに限る。

 普段なら帰りは家に一直線だが、今日は真っすぐには帰らない。家の冷蔵庫が空っぽなので、スーパーに寄らなければ夕飯がないからだ。冷凍食品のストックなら一応まだあるが、流石にずっとうどんというわけにもいかないだろう。

 と――自転車をこいでの道すがら、頬にぽつんと水の感触。


「うわ――雨?」


 サッカーの時から怪しい天気ではあったのだが、とうとう降ってきた。せめて夕暮れ時まではもってほしかったのだが、ダメだったらしい。

 最初はわずかに頬に触れるかどうかという程度だったが、雨は一分も待たずしてぽつぽつと雨足を強め始める。慌ててヤナギはスーパーに駆け込んだ。

 このままだと本格的に降るかもしれない……と予想しながらも、どうしようもないので観念して食べ物を買い込む。

 そして買い物をし終える頃には、案の定雨足は強まっていた。


「……ツイてねえなあ」

 

 買い物していた時間は三十分ほど。その間に雨が止むかもと期待してみたのだが、やはりダメだったらしい。

 雨宿りなんてしたところでしょうがない。早々に割り切ると、ヤナギは自転車の前かごにビニール袋を突っ込んで、そのまま自転車を出した。

 スーパーはヤナギのマンションから自転車で五分ほどの距離しかない。たかが知れているし、そもそも帰り道だ。行きだと濡れ鼠のまま授業を受ける羽目になるが、帰りならさっさと着替えるか風呂に入ってしまえばいい。

 雨の中を突っ切ってマンションへ戻る。幸い雨は降ってても風は吹いておらず、さほどの苦労もせずに帰れたが――……

 

「……あん?」


 マンションが見えてきた辺りで、ヤナギはきょとんとまばたきした。

 ヤナギの部屋の前に、ポツンと人影がある。来客らしいが、その人物は扉を背にしてうずくまっていた。ヤナギが不在だとわかっているようだが、帰る様子はない。

 足と一緒に頭まで抱え込んでいるので、こちらには気づいていないようだが。近づいてくると、よりその人物の様子が見えてくる。この雨にやられたのか、全身またびっしょりだった。うずくまっているのは寒いからだろうか、体が震えているように見える。

 ヤナギが駐輪場にたどり着くと、ようやくその人物は顔を上げた。といって普段の微笑みなどどこにもなく、何故か恨みがましく睨まれたが。

 先に声をかけたのは、ヤナギの方だ。怪訝に聞く。


「アマツマ? お前、何やってるんだ?」

「…………」


 何か約束をしていたというのなら全面的にヤナギが悪いのだが、そんな記憶は全くないので首をかしげる。

 と、返ってきたのは微妙に理不尽な恨み節だった。


「……一時間も待たされた」

「そんな経ってねえだろ。というかいきなり訪問されてもな」

「寒かった」

「雨に濡れたのはご愁傷様だが、俺のせいじゃないだろそれ。それで?」

「お風呂貸して」

「……お前、人んちのこと銭湯かなんかと勘違いしてないか?」


 そもそも友人ですらない男の家の風呂に入ろうとするなよと思う。しかも二日連続だ。

 流石にどうかと思うのだが。


「…………」


 それを口にするよりも、じっとりとよどんた瞳を見つける方が早かった。口にはしなかったが、彼女の瞳はこう言っている――誰のせいだと思ってるんだ。

 だが口で言ってきたのはこれだった。


「今日の体育で、助けてあげたよね」

「…………」


 言いたいことは多々あったが、早々にヤナギは音を上げた。


「礼を言って損した気分だ。わーったよ。ちょっとどけ、今部屋の鍵開けるから」

「やった。ヒメノ、ありがとう!」

「へいへい」


 もぞもぞと座ったまま移動するアマツマを尻目に、鍵を開いて部屋に入る。

 と、後ろからついてくるアマツマが、今更気づいたように言ってきた。


「……買い物帰り?」

「ああ。食べ物なくてな」

「この雨の中? キミも濡れてるんじゃないかい?」

「軽くな。つってもそんな長い時間じゃないし、この程度なら着替えるだけで十分だろ」


 ひとまず着替えるより先に、買ってきた物を冷蔵庫に詰めることを優先する。アマツマは勝手に風呂のほうに行くだろうから、ほっといても問題はないだろう――

 などと考えてたら、背後からとんでもないことを言ってきた。


「なんなら、一緒に入るかい?」

「…………は?」


 思わず呼吸を止めて、背後を見やる。吹き出さなかったのは僥倖だった。みっともないところを見せずに済んだ。

 振り向いた先、アマツマはのんびりと風呂のほうへと歩いていた。脱衣場でもないのに既にネクタイをほどいて、ブレザーを脱ぎ始めている――


「おい待て服は脱衣場行ってから脱げ! 人の目あんだろうが!?」

「へ?」


 慌てて悲鳴じみた声を上げると、返ってきたのはきょとんとした反応だ。既にブレザーは脱ぎ終えて、上はシャツ一枚。しかも濡れているせいか、微妙にその下の色合いが透けていて――

 慌てて視線を逸らす。何が始末に負えないかといえば、透けているという事実にアマツマが気づいていないことか。呑気に言ってくる。


「えー? とは言われても、濡れてるし。早く脱ぎたいんだよこれ。人の目って言われてもヒメノしかいないし……ヒメノが見なければよくない?」

「よくねえよ。振り向いたら薄着になってるとか心臓に悪いわ。不可抗力とかあんだろ、見なければーじゃねえんだ見られないようにするのがふつう――」

「あ、そう言えば着替えの話なんだけどさ」

「聞けよ人の話」


 毒づいたが、欠片も聞きゃしない。

 見続けるわけにもいかずに再び冷蔵庫に向き直るが、声は遠くから続けてけてきた――途中から声がくぐもったので、どうやらようやく脱衣場に入ったようだが。


「またヒメノのジャージ借りていいー?」

「お前、自分のジャージは?」

「がっこー。ホントは今日、ヒメノのジャージ返そうと思ってたんだけどさー。体育の前に返せなかったから、謝りたかったってのもあるしー」

「……ああ、それであの時近くにいたのか?」


 正解―、と間延びした声でアマツマが言う。あの時とは、サッカーボールにぶつかりそうになった時のことだ。

 疑問は氷解したが、こっそりヤナギは頭を抱えた。ジャージを返そうとして家に寄ったが濡れたので、またジャージを借りる? 本末転倒にもほどがある。

 と、こちらが何か言うよりも先に、更にアマツマ。


「まあ他にも用事があったんだけどさー」

「用事? 俺にか?」

「そー。ちょっと怒りたいことと、謝らなきゃいけないことー」

「どっちも心当たりねえぞ?」

「まあそれは後でってことでー。ジャージいいー?」

「……わかったよ、好きにしろ」


 ため息交じりに答えると、閉ざされた扉の先から「やったー」と間延びした歓声。それに関しては、もはや何も思わないことにしたが。


(どうにも調子が狂うな……アマツマってこんな奴だったか?)


 ついそんなことを思う。

 学校にいる時のアマツマは、誰に対しても気さくで、女の子にはかなり甘くて、だがそれ以外の部分はマジメで、キリッとしたもので。人当たりこそ柔らかいものの、凛々しい雰囲気を感じさせた。

 だがヤナギのマンションにいる時のアマツマからは、どうにもそんな感じがまったくしない。

 なんというか、こう……男友達同士の距離感、とでも言えばいいのか。一言で言えば、緩い。男女の距離感としては緩すぎると思うくらいに緩い。学校では見たことのない、隙だらけの姿に困惑させられる。

 これのどこが“王子様”なのかと誰かに聞きたい気分だが。


「ちょっと手当てした程度で、人んちの風呂平気で借りられるようになるのはどうなんだ……?」


 ケガしたあの日の警戒心はどこに行ったのか。身内相手だと途端に無防備になる人種というのは確かにいるが、アマツマとヤナギの付き合いは身内と呼べるほど深くはない。

 ないはずなのだが、これは……と、ため息をついてからふと気づく。


「……あいつ、なんで濡れてんだ?」


 記憶が確かなら、アマツマには昨日傘を持っていくように言ったはずである。玄関のほうを見やるが、傘立てに傘はない。となるとやはり、アマツマが持っていったはずだ。

 昨日の今日でジャージを返しに来るくらい律儀なのだから、傘だって持っていそうなものだが。


「……まあ後で訊けばいいか」


 その程度に割り切ると、ヤナギは濡れた服を着替えに自室に向かった。

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