1-6 本当に危機感ねえなこいつ

 いったいどれほどの時間、ソファにうずもれてボケッとしていたか。

 寝ていたわけではなかったが、頭が微睡んでいたのは否定しようがない。精神的な徒労に鈍化した意識を働かせて、ようやくヤナギは忘我から覚めた。

 そしてふと、机上のビニール袋が目に付いた。


「そーいや、差し入れ持ってきたっつってたか?」


 アマツマが勝手にヤナギの部屋に押し入ってきた挙句、今一風呂浴びることになった原因だ。ズル休みを真に受けた差し入れ。申し訳ない気分にもなりつつ、ビニール袋に手を伸ばす。

 中身は冷却シートに成分の半分が優しさでできた風邪薬と、ゼリー飲料がいくつか。気になったのは、ゼリー飲料がどれも味が異なることだ。おそらくは、ヤナギの好みがわからなかったから適当に選んだのだろう。


「……こういう細かい気配りできるとこが王子様なんて呼ばれる所以かね?」


 学校でもちょくちょくそういったところを見かける。わざわざやらんでいい面倒事を自分から引き受けたり、大変そうな誰かの仕事を手伝ったり。王子様というのは何も見た目だけの話ではない。

 袋に一緒に入っていたレシートには、そこそこの額が記載されている。ヤナギはため息をつくと、そのレシートを持って部屋に戻った。手ごろな封筒を机から探し当てると、レシートと代金分の金を突っ込んでリビングに戻る――


 と、ふと聞き慣れない音に気づいて、ヤナギは頬をひくつかせた。普段なら聞くはずのない音だ。状況を思い出して、不安にも似た情動を感じる。

 音の正体はシャワーの音だ。聞き慣れなかったのは、それをリビングで聞いていたからだ。一人暮らしなら――一人で暮らしていたのならまず聞くことのない、誰かの生活音。

 それも、そこまで深い仲ではない異性の立てる音。


(……俺、実は今すごい状況にいる?)


 数メートルというわずかな距離、あるいは脱衣場と風呂場を隔てる薄い扉二枚。その向こうに、同級生の裸がある。

 その事実が思春期男子の心を奮い立たせるかというと――答えはノー。断じてのノーである。

 むしろ、戦慄すらしている。

 今ヤナギが感じているのは得体の知れない焦燥感と、ガラスでできた芸術品を手で持たされているような、そんな恐怖感だ。興奮などしていられない。むしろ肝が冷える。何か、とんでもないことをしているかのような背徳感に思わず震える。

 しかも耳を澄ませているわけでもないのに、静寂の中からアマツマの鼻歌が聞こえてきて――


(考えるな考えるな考えるな。お前は何も考えるな。大して仲良くない同級生相手に欲情とか最悪だぞ?)


 雑念を追い払うと、ヤナギはアマツマが置いていったスクールバッグに封筒を突っ込んだ。中は見ないようわずかにチャックをずらして、その隙間に封筒をねじ込む。

 一人暮らしということで、ヤナギは結構な額の仕送りを受け取っている。だがアマツマはただの学生だ。バイトもしていないはずだから、今回の出費は痛いはずだ。申し訳ないので、せめてお金だけは返しておく。


(……そういやアイツ、着替えどうすんだ?)


 つい風呂を貸してしまったが。濡れた服などまた着たいものでもないだろうが、かといって着替えを持っているかは怪しい。

 というか、アマツマは脱衣場に行くとき何も持っていかなかった……


(ってことはアイツ、もしかして本当に俺のジャージ借りる気か?)


 もしそうなら、随分と迂闊なことを言った。別に犯罪を犯したわけでもないのだが。

 彼女どころか友人ですらない女に、自分の服を貸す?


「無防備にもほどがあるぞ……」


 つい愚痴る。人の家で風呂を浴びている時点で今更だが。それにしたって限度ってものがある。

 信頼されている、わけではないだろう。ヤナギとアマツマの付き合いは本当に薄いのだ。おそらくはこの前の一日分の会話量のほうが、入学してからこれまで二人が交わしてきた会話より多い。

 その程度の付き合いでしかないのに――この無防備さは、むしろこちらが危機感を覚える。なにかしたいわけでもないし、するつもりさえ欠片もないが。それでもこんな状況に自分がいるというだけで落ち着かない。

 自分は小心者なのだと、ヤナギは心底から自覚させられていた。


(ビビってんなあ……あーもー、みっともねえ)


 ため息をついて観念すると、ヤナギは閉ざされた脱衣場の前に立った。

 まだシャワーの音がしているから、アマツマは風呂場のほうにいるだろう。それを確かめた上で――それでもうっかりで見ないよう慎重に――脱衣場の扉をわずかにだけ開けて、そこに差し込むように声を上げる。


「アマツマー?」

「なにー?」

「お前、着替えは?」

「なーにー? もっかい言ってー?」

「着ー替ーえーはー?」

「ジャージ貸してー?」

「マジかよ……」


 最後は思わずぽつりと呟く。

 頭痛でも堪えるように頭を抱えると、仕方なくヤナギは返答した。


「これから脱衣場入るから、絶対に出てくるなよー?」

「わかったー!」

「……本当に危機感ねえなこいつ」


 調子のいい返事に大いにため息をつきながら、ヤナギは一度脱衣場から離れる。

 学校に持っていく予定だった体操着入れから、長そでのジャージを取り出して戻った。伺う――というより疑うように、脱衣場を覗く。シャワーの音は止んでいたが、水の音は聞こえたので湯船にいるのだろう。

 出てくる気配は全くない。その事実に、正直なところホッとする。


(ラッキースケベとかお呼びじゃねえんだよ。同級生の裸とか、いくらなんでもシャレにならん)


 同級生の女の子を、家に上げてるだけでもどうかと思うくらいなのだ。それなのにその子が風呂にまで入っている。既に背徳感は供給過多だ。思春期を自覚している少年としては、このシチュエーションだけでとてもキツい。

 と、ふと気づいてしまってヤナギは呼吸を止めた。

 脱衣場の、隅に置かれた洗濯機。普段は開けっぱなしなのだが……今はその上に、畳まれたしめった制服と――


「……………………」


 なんだか脳が痺れてきた。

 もうこれ以上何も考えないようにして、ヤナギは制服の隣にそっとジャージを置いた。

 聞こえてくるのは水の音と、どこか機嫌のよさそうな鼻歌。ここに留まりたい誘惑に駆られながらも、一方では一秒でも早くここから離れたいという衝動に突き動かされて――


「あ、そうだ。ねえヒメノ――」

「――――っ!?」


 誘惑よりも衝動が勝っていたのは幸運だった。何故なら一目散に逃げだせたからだ。

 扉が開く、その予兆を見た瞬間に逃げ出した。飛び込むように脱衣場を出て、振り向きもせずに扉を閉める。

 その後ろから、面白がるようなアマツマの声。


「ヒメノー。ビビったー?」

「で、で――出てくるなって言っただろうが!?」

「出てないよ? 顔だけ出してるー」

「お前……お前さあ……!」


 もはやそれ以上何も言えず、ヤナギはその場にへたり込んだ。

 その背中から、ケラケラと響く笑い声。


「顔見せただけなのに。ヒメノってさー。実は結構ウブだねー?」

「うるせえ! 傘貸してやるから、風呂出たらとっとと帰れ! 俺はもう寝るからな!」

「まだ夕方なのにー?」


 それ以上は付き合わず、逃げ出すようにヤナギはその場から離れた。リビングを抜けて自室に戻り、ベッドの上に倒れ込む。

 からかわれたのは間違いない。学校でも王子様っぽく振る舞うついでに、女の子をからかったりすることは多々あった。女の子を助けた時に耳元で囁いたり、キザっぽく手の甲に口づけしてみせたりだ。

 おそらくアマツマは、これもその一環程度にしか思っていないに違いない。


(だけど、だからってアレはダメだろう……!?)


 確かに、裸は見なかった。だが顔は見えたのだ。一瞬だけでも、確実に。

 雨に濡れたのとはまた少し違う、しっとりと水を含んだ髪。癖っ毛の髪も、その時だけはいつもと違った表情を見せる。そして、お湯の温かさに火照った頬。リラックスして緩んだ表情は、凛としたいつもの顔と全く違って――


(キッツい。本当にクる。マジでキッツい……)


 見たのはせいぜい顔だけなのに。それが普段と全くかけ離れたものだったことと、扉一枚の先に裸があったという事実が煩悩を刺激する。

 雑念を振り切るように目を閉じる。何も考えないように、遠くから聞こえる雨音にだけ集中した。煩悩がアマツマの顔を描こうとするたびに、掻き消して無心を追い求める……


(そういやアイツ、足大丈夫だったのか……?)


 その中でふと、そんなことも考えた。普通に歩けていたようだから、大丈夫だったのだろう。だがどうせなら、聞いておくべきだった。

 それとも、もしかして。さっき、いきなり風呂から顔を出したのは……


(礼でも言おうとしてたのか? だとしたら律儀な奴……)


 そしてそんなことを考えているうちに、ヤナギは本当に眠ってしまった。

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