7話
包むように腕を掴まれ、軽く引っ張られる。
力の抜けた体は、彼の胸へと飛び込んだ。蛇のようにまとわりつき、抱きしめられる。
耳が彼の心音を拾った。
とくとく、規則正しく鳴るのを為す術もなく聞く。ふわりと花の匂いが鼻腔をくすぐる、彼の香水か。
甘くて柔らかいのに揺さぶるような、くらくらとする。考えが霞がかってまとまらない。
瞼が重く、耐え難い眠気に襲われた。
極度之疲れを自覚し、体が動かなくなる。
ゆっくりと視界が黒く、くろく、くろ、――。
「
――瞬間、自分の腕が勝手に振り上げた。
空気を裂く音。
真っ赤になった意識が、数秒差で行動に追いつく。
月音が握った紛れもない殺意は、迷わず彼の側頭部を狙っていたが、あと数ミリのところで、ぎしりと無理矢理止められる。
だが諦める気はない月音の思いを表すように、殺意というナイフはギラギラと鋭利な輝きを放っている。
「短絡的で楽観的なのが、きみの悪いとこだな」
彼は微笑みを崩さない。
月音の殺気を癇癪としてあやす余裕に、本能が勝てないと告げた。
瞬きも忘れ、睥睨する。
掴まれた手首はびくともしない。力の差は歴然だ、勝機を見出だせない。
だが、だが。殺さなければ。殺される前に、はやく。はやく。
はやく。
「単純かつ、命を安く見て、相手の力量をはかれない。冷静さをかけるのも、いただけない。それは愚か者の行動だ、敵がいて殺したいならば常に余裕と観察を忘れないことだ」
憎悪に塗れた月音を諭すような語調。
目を覚ませ、と冷水を浴びせるような、静かな声音で彼は続けた。
「俺はきみを守るといった。敵を間違えるな。殺せば良いなど単純な話ではない。それでは生きていけない。人は弱いからな」
唇を噛み締めていた月音に、知性が戻る。
荒波もない水面の静かさをたたえて、平然とする男につられるように少しずつ力が抜けていく。
「今の選択は間違いだ。俺は一般人に手は出さない、だがもし殺そうとするならば、俺は容赦しない」
とんとん、落ち着かせるように背中を叩かれる。
いつの間にか乱れた呼吸が整い、透き通っていく。
ようやく体の自由を取り戻し、脳から伝達する命令に従った。
彼も手首をぱっと離して、月音を抱きしめた。
それから過剰に反応した名前を、再度紡ぐ。
「虎沢秀喜を知っているんだな」
「はい」
「ならば狙われているのも知っているな」
「はい」
「理由は?」
「……わかりません」
虎沢秀喜という悪人が自分の命を狙っているのは、先日亡くなった祖父母から知った。
祖父母を殺したのは、その関係だとも。しかし原因は全く心当たりがない。
当然、虎沢秀喜も善人ではない。
そんな人間が、月音に固執するのは何故か。月音は平々凡々、見た目も然り。
考えたくもないが使い道は売り飛ばす、ぐらいだろう。
些細な事情も考慮しても確固たる理由、と言うには薄い。
殺害とは結びつかない。
皆目見当がつかぬ、と首を振れば「案外平気そうだな」と意外そうに呟いた。
彼は悩む素振りを見せて、思案すると。
「きみは、死ぬのが怖くないのか」
純粋な疑問に月音はぎくりと固まった。
全て見抜かれている錯覚に、酸素を取り入れるのを忘れて、落ち着けと自分を叱咤する。
生唾を飲み込み、努めて平静を装った。
「怖いですよ」
「君は、死にたがっているように見える」
「それはあなたの主観でしかないです。私は生きたいです、百歳まで生きてやります。生きなければならない」
死ぬわけにはいかない。
何が何でも、どんな手を使おうとも。
どれだけ自分が憎かろうと――殺したくとも、生きなければならない。
「は、あぁ。そうか、きみは」
宣言すれば、彼が頬を仄かに染めて、恍惚とした表情で吐息をもらす。婀娜っぽく、熱に浮かされた様子は見るものの欲を掻き立てた。
人を狂わす芳香がぶわりと広がり月音を飲み込む。息が止まって目を逸らせない。
「いいな。ホントに。その顔も、性格も。死にたがってるくせに生きたがってる、矛盾に塗れて壊れた顔だ」
どろりと砂糖を溶かしたような甘ったるい声が纏わりつく。
熱くなった指先が月音耳の形をなぞり、くすぐった。惑わす色香を、正面から浴びて身動きひとつ取れなくなったのを、彼は愉快そうに喉を鳴らす。
溶ける瞳が直接、月音に熱を注ぎ込む。
「やはり、俺はきみがほしい」
熱烈な愛を囁くようにとろけた言葉が、月音の身体に染み込んで、痺れさせる。
正常な判断能力を奪われ、どういう意味かとうわ言のように問いかけるのが精いっぱいだった。
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