黒い雲が、空を流れて

 その日は、朝から湿った風が吹いていた。

 こんな日は決まって夕方くらいから土砂降りの雨が降る。

 私の予定は、午前中はダンスの練習、午後はサロンのお客様一件のご予約。昼食後の休息の合間、私は先月王宮へ出仕したキディ先生にお手紙を書きつつ、空の上を流れる雲を眺めていた。


 ぽつりぽつりと、窓ガラスに雨粒が当たり始めたとき、外が俄かに騒がしくなった。

 お屋敷の入口の方で、なにか言い争っているような声が聞こえる。

 どうしたのだろう。そろそろ占いのお客様が来る頃合いなのだけど……。


 まあ、気づいてしまった以上は見て見ぬふりというわけにもいくまい。

 私は傘を用意して自室を出て、玄関の扉を開けた。


「お願い致します。お願い致します」

「おやめください。困ります!」


 まだ勢いこそ弱いものの、斜めに降りしきる雨の中で、使用人の女性たちが一人のご婦人を懸命に宥めていた。


「どうぞ。どうぞムウマ伯爵にお目通りを。なにとぞ。なにとぞ!」


 門の外側には、そのご婦人が乗ってきたのであろう馬車が停められている。

 そこに描かれた家紋を見て、ここ数か月の間に勉強した貴族名鑑の知識を引っ張り出す。

 あれは確か、ノルド子爵家の紋章だったはず。

 

 ということは…………ええっと、あの方が今日のご予約の方のはずなのだけれど。


 私がどうしたものかオロオロしていると、同じように騒ぎを聞きつけたフィオ様が玄関から現れた。


「一体なんの騒ぎか」

「フィオ様。ええっと、私のお客様のはずなのですが……」

「んん? どういうこと――」

「ムウマ伯爵!!」


 フィオ様の姿を認めたご婦人――恐らくはノルド子爵夫人・アニタ様が、使用人たちの制止を振り切って私たちの元に駆け寄り、膝を着いた。


「どうされました!?」

「ああ。ああ。お願い致します。どうか、どうか、私の娘の仇を。あの悪魔に法の裁きを!」

「な――」


 娘の仇?

 あの悪魔?

 何一つ事情が分からない私が混乱するすぐ横で、フィオ様はそれだけで事情を察したらしい。


「貴女は、ノルド子爵夫人で間違いないか」

「はい。はい。そうでございます。ムウマ伯爵。どうぞお願い致します。もはや貴方にしか頼ることが出来ないのでございます!」

「愚かなことを!!」


 フィオ様が、声を荒げた。

 ただ、その表情は怒っているようには見えない。

 雨に濡れたフィオ様のお顔が、くしゃりと歪められた。


「ノルド子爵夫人。私は司法官だ。こんな真似をされても困る。事件の被害者遺族が直談判などしに屋敷まで来ては、その後どのような沙汰を下したとしてもその公平性が損なわれてしまう!」

「しかし!」


 そこまで聞いて、ようやく私にも察しがついた。

 なるほど。つまり私は、に使われたわけだ。


「フィオ様。このままこちらに居座られても埒があきません。一先ず、私のサロンにお通ししましょう。あそこは、

「あ、ああ。そうだな」

「すみません、どなたか、サロンの支度をお願いします」


 数人の使用人が、慌ててその場を離れる。

 泣き崩れるご婦人に、私は傘を差しだした。

 雨粒が頬を打つ。

 風がごうごうと。

 黒い雲が、空を流れていた。





 つまり、話はこういうことだ。


 ノルド子爵家の御令嬢、ムイ様は、昨年にブル伯爵家の次男の元へ嫁いだ。

 そして、亡くなった。

 公表された死因は病死。だが、少なくとも嫁ぐ以前にムイ様に持病などはなく、周辺に流行り病などもなかった。

 ノルド子爵と夫人は、嫁いだ先の娘へ幾度となく手紙を送っていたが、ついぞ返事が来ることはなく、ようやく届いた頼りが伝えたものは、最愛の娘の死であったのだ。


 それだけでも大きな問題であるが、極めつけは、それがの事件だということなのである。

 つまり、ブル伯爵の次男、ベアド=ブルに嫁いだ娘は、みな嫁いで数年のうちに死亡しているのだ。


 基本的に、貴族家に嫁いだ以上はその女性は嫁ぎ先の家の人間だ。

 その家が嫁の死亡の原因を隠してしまえばそれを暴くことは不可能と言っていい。

 だが、被害者遺族たちの必死の努力と執念により、ブル家を放逐されたかつての使用人の消息が突き止められ、次男ベアドの異常な悪癖と、使用人の婦女子に対する口も憚る悪行が明るみにされた。

 それは、彼に嫁いだ娘がどのような目に遭ったのか、想像させるには十分すぎる話だった。

 その供述を以て司法府に訴えを起こし、なんとか国の介入にまで漕ぎつけたものの、やはり敵は手強く、ブル伯爵家の力によって揉み消しを図られているのだという。


 通常の犯罪であれば裁きは地方の刑吏が行う。だが、その審理が難しいと判じられた場合には司法府にそれが委ねられ、中央の司法官が改めて事件を審理にかける。

 それでもまだその審理に慎重な判断が求められた場合には、いよいよ最高位である大法官に判決が委ねられるのであるが、今回の場合は、既に地方の刑吏からは早々に審理を投げられている。

 今のフィオ様の立場は、中央司法府の一司法官だ。フィオ様の判断だけをもって裁きがなされるということはないが、少なくとも発言権を持つのは確かである。

 

 アニタ様は、このまま高位貴族の権力に屈して娘の仇を逃がすわけにはいかないと、なんとか自分たちの訴えを聞いてもらおうと、司法官の誰かに直談判する方法を模索した。

 だが、当然ながらの真正面から問い合わせたところで取り合ってもらえるはずもなく、「訴えは既に受理している」と門前にて突き返されるばかりであった。


 そこで彼女に目を着けられたのが、私の占いサロンだったのだ。

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