16.安城サヨ(聖母)について

生徒会長を泣かせた後、俺は無事に自宅へと辿り着いていた。

近所のコンビニで軽く買い食いをしてから帰宅したので、時刻は昼下がりであった。




玄関を開けて――ふと。

急に、C組でのあの視線を思い出した。異物を見るようなあの視線だ。冷たい視線だ。

水風船を無数の針で突き刺すような、あの視線だ。


不意に、トラウマが蘇る。

小四の時の事。なんで今更。明瞭なフラッシュバックだ。

なんで今更。忘れてたのに。


思い出して、すぐに忘れる。忘れようと心掛ける。

消えない。思い出す。思い出す。全部忘れたい。思い出す。忘れたい。


モヤモヤする。気持ちが悪い。


手を洗っても、歯を磨いても、うがいをしても、家に辿り着いてから纏わりついているこのもやは、不快感は流れ落ちない。

むしろ時間が経つ程にその存在感が増していくそれを、俺はよく知っていた。


自室へと入る。

机の脇に鞄を放り投げると、思わずベッドに倒れ込んだ。

窓から差し込む日はまだまだ明るい。そんな俺の行動を言外に否定するように、太陽光がじりじりと顔をく。

されども起き上がる気にはなれない。


制服が皺になったら困るよな、良くないよな、と、誰かの理性が主張している。

されども起き上がる気にはなれない。


体だけがベッドの上に残ったまま、意識はどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。

手足が重い。


「はぁー……」


深い深いため息がこぼれる。

それを取り戻すように吸い込み、深い呼吸を繰り返す。

それを反動に体を動かし、横になったまま制服を脱ぎ去った。


暫くそのまま天井を眺めていると、誰かが階段を登ってくる音がした。

それから少しして、ノックの音が響く。


「あい……」


「開けるよー。うわっ……」


か細い声で返事をすると、扉を開けた人物は俺の姿を見てぎょっとした。


「……な、何してんの?」


「落ち込んでる」


「文明人なら、せめて服着て落ち込みな……」


彼女は、そう言いながら俺の脱ぎ散らかした制服を手に取ると、軽くブレザーの皺を伸ばしてハンガーにかけた。

そんな慈悲深い彼女に、俺は手を伸ばして救いを求めた。


「サヨさん……どうかオレをお風呂場に連れてってほしい……」


「歩け」


「サヨさんお願い……引き摺っていいから……」


「歩け」


取り付く島もない。好き。

お蔭で少し元気が出る。俺は勢いよく起き上がった。


「……シャワー浴びてきます」


「待った。今日の晩御飯何が良い?」


軽く引き留められる。

恐らく、俺の部屋を尋ねたのはそれを問う為だったのだろう。

正直言うと食欲はあまり無かったのだが、過去の経験に基づき、いついかなる時でも無限に食える、魔法のレシピを述べた。


「からあげでお願いします……」


「ん。行ってこい」


彼女はそれに満足したのか、こちらに目もくれずに言う。

のっそりとクローゼットから着替えを取り出した俺は、浴室へと向かった。




シャワーを浴び終えた俺はドライヤーで髪を乾かしながら鏡を見ていた。

分かってはいたものの、このもやと不快感は消えなかった。


ため息を一つ吐き、リビングへと向かった。


「ナツメ。買い出し行くけどなんか買ってきてほしい物ある?」


ふと声を掛けられる。

彼女はいかにも、偶然、今から、丁度、出かける、といった雰囲気を醸し出していた。


「……一緒に行く」


「そ。じゃあ、荷物持ちよろしく」


「うん。ちょっと羽織ってくる」


俺は自室へと戻り、余所行きのパーカーを羽織る。

すぐに一階へと降りるが、既に室内に彼女の姿は無かった。


玄関を出ると、俺を待たずに既に先を行っていた。

俺は慌てて鍵をかけると、その背中を追って走った。



二人並んで、十分程歩く。

近所の公園では制服を着た低学年らしき小学生達が、世間話に興じる母親達の前で駆け回って遊んでいた。

日光が俺の肌を刺すが、先程のような不快感は無かった。


近所のスーパーに辿り着く。

買い物かごを手に取り、野菜や果物の香りが混じった、あの独特の匂いを胸に吸い込む。


「サヨさん。からあげと何作る?」


「んー……チャーハンとか?」


「天才だと思う」


俺がそう言うと、彼女はドヤ顔で微笑んだ。かわいい。


レタス、ネギ、タマネギ、その他いろいろ。

鶏むね肉、豚肉、紅生姜、その他いろいろ。


必要な食材を、俺が持っているかごに手際よく放り込んでいく。


「なんかいる物あったら勝手に入れときなよ」


こちらの顔を見ずにそんな事を言うので、隙を見て高めのアイスを放り込んだ。

怒られなかったので、調子に乗ってお高いボトルガムを四つほど放り込むとデコピンが飛んできた。


会計を済ませ、帰路を歩む。

宣言通りに荷物持ちを押し付けられ、俺の両手は買い物袋で埋まっていた。

一方の彼女は手ぶらであった。なんならこちらに目もくれない。そういう所が好き。


「サヨさん」


「ん?」


「元気出た。ありがとう」


「あっそ」


気付けば、消えてこそいないが、それでも例のもやは影を潜めていた。


いつもこうだ。

俺が落ち込んでいる時に限ってさり気なく俺に構ってくれるし、さり気なく気を遣ってくれる。

だから俺は、この母であり、年の離れた姉のような存在でもあり、血の繋がった母の妹であるサヨさんの事がとても好きだった。


どうも、間接的な血の繋がりしかないというのに、姉の性格はこの人にそっくりだと思う。

概ね、良い意味で。

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