第27話 涼 29歳 秋 アメリカにて

 二十九才になって、ようやく涼はアメリカに住み、ニューヨークで舞台に挑戦しようとオーディションを受ける日々を送っていた。

 日本での仕事の調整、事務所との調整、英語のレッスンなどをあわせ、涼が海外に挑戦しようと決めてから、実際には三年の月日が必要だった。英語以外でのチャレンジは考えていなかったので(ほかの言語を一から学ぶような余裕はなかった)、アメリカか、イギリスか、という二択だった。イギリスにも惹かれたのだが、アメリカは多民族国家である、というのが決定打になってアメリカに決断した。


 この三年の間、涼は休みの日になれば必ず愛車トゥアレグでエリクサを訪れていた。

 エリクサの二階にある天窓の部屋の契約も無事に結べた。決して安い値段ではなかったが、払えない額ではない。そもそも、エリクサに来ていなければ、いまの涼の人生はない。そう思えば、金額に変えられるものでもなかった。

 契約終了は、エリクサの閉鎖、もしくは涼の死去をもって、となっている。自分が死ぬ日までの契約をしてしまったのは不思議な感じだ。もしも伊那が死去したとしても、エリクサが存続していれば、あの部屋は引き続き涼の部屋なのだ。


 伊那が涼のたった六歳年上にしか過ぎないと聞かされたときは、思わず真剣に驚いてしまい、そのあとで謝った。女性に失礼なことを言ったと青ざめたが、伊那は笑って許してくれた。では、最初に会ったときにすでに三十半ばに見えた伊那は、まだ二十代だったことになる。

「いいのよ、私はロウにあわせるために老けちゃったのね」

 伊那はそう言っていた。


 伊那とロウが本当のパートナー同士であることは、今では涼もはっきりわかっていた。最初は年齢差がありすぎて、どっちなんだろうと悩んだが、三人で長い時間を過ごした今では、もはや疑いようもなく理解していた。またロウと伊那も最初と違い、隠そうともしなかった。


 涼が実際に体験したフランスの前世では、涼はロウと一緒にスペインに旅立っている。ロウはスペインからの迎えの使者だったのだ。スペインまでの道中、ふたりはいろいろな話をして心を通わせた。涼はスペイン語を学んでいたが、逆にロウはフランス語を学んでおり、そのために使者に選ばれたのだ。

 スペインに到着してからも、涼はロウと会い、話せることを楽しみにしていたが、語学が堪能だったロウは再び別の使者としてフランスに行ってしまい、そのまま帰らなかった。

 涼のそれからの人生には大きな苦労があったわけではないが、あきらめに似た鬱状態に陥って人生を過ごした。

「音楽がなかったからだな」とロウが解釈を加えていた。

 スペインにはスペインの音楽があったが、前世の涼:ルシアンが心惹かれる種類の音楽ではなかったのだ。ロウは、というと、なんとスペイン音楽でも歌でもなく、フラメンコに似た踊りを踊っていた。スペイン音楽ではバンドゥリアという弦楽器が主流になるが、その音楽はロウの興味を引かなかった。足を打楽器のように踏み鳴らす踊りで、内に潜んだ音楽への渇望を表現していたのだ。


 まさか、踊るロウが見られるとは思わなかったわ。


 予想しなかった映像に、たいそう伊那は喜んで大笑いしていたが、ロウはやや憮然としていた。

「弦楽器は、唯一僕が習得できていない楽器だからね・・・」

 とブツブツ言っていた。


 ロウはいつの間にか、自分のことを「僕」と言うように変化していた。そもそも、伊那と二人のときは「僕」を使っているそうだ。

「私、というと他人行儀な感じがして伊那が嫌がるんだよ」

 そう教えてくれた。


 涼は三年前、エリクサから東京に戻るとすぐにヴァイオリンの教師を探した。子供の頃の先生を改めて探してみたが見つからなかった。まさか先生の元婚家に連絡して旧姓を聞くわけにもいかなかった。もう東京にはいないのかもしれない。ロウから「来世くらいには告白してみるかい」と茶化されたことを思い出した。結局、もう会うことはできないのか。初恋なんて、そんなものかもしれない。

 新しい教師のもとで、なんとか人並の・・・ヴァイオリンを習っている人間として人並の、という意味だが、人並のヴァイオリンの音が奏でられるようになってから、ようやくロウに教えることになった。

 予想した通り、ロウは技術的なこと、音楽的なことはあっという間に習得したが、どういうわけか、弓を挽くというヴァイオリンとしては肝心である体の動きだけがうまくいかなかった。こんなこともあるのか、と涼は新鮮な驚きがあった。涼には簡単なことが、ロウには難しいらしい。

「僕はどうやら擦弦楽器の才能に見放されているな」

 ロウはそう言ったが、そんなこともあるのかもしれない。歌を歌うときにはプラスに働いているロウの迫力、強さのようなものが、ヴァイオリンの繊細さとうまくかみあわないようだった。


 涼の竪琴の習得は順調に進んでいた。ロウの教え方は適格で、涼の音楽性をよくとらえていた。竪琴を弾く役もできそうだな、と涼は感じていた。ピアノを弾いているロウを見ていると、ピアノを弾く役もできそうな気になってきた。本当に「弾ける」能力を持っている人のそばにいると、ピアノという楽器がどういう特性を持つのか、どう生かせばいいのか、ピアノにどう向き合うのか、いろいろなことがダイレクトに伝わってくる。俳優としては、できることは多いほうがいい。

 ロウには、「馬に乗れるようにしろ」とも言われた。涼としては舞台志向でもあるし、時代劇にもそれほど興味がなく、乗馬の必然性は感じていなかったのだが、時代劇のために乗馬の能力が必要なのではない、とロウは熱く涼を説得した。

 

 乗馬というのは、古今東西、王族や貴族という上層階級の人間として、または司令官や戦士など戦争に関連する人間として、どちらでも必須の能力だ。つまり、どんな物語でもキーマンとなりえる役柄ということだよ。君がこれからどういう俳優になりたいか、という希望もあるだろうが、俳優というのは配役との巡りあわせが大事になる。乗馬に関しては、馬に乗れなければその役にチャレンジすらできないものだ。逆に馬に乗れるということが後押しになって、その役に決まることもある。乗れるようになっておいて損はない。


 ロウにそう説得され、涼は乗馬の訓練に通い始めた。最初はロウに薦められたから、という消極的な理由ではあったが、すぐに涼は乗馬の楽しさに夢中になった。乗馬の先生からは、こんなにスジがいい人は珍しいと褒めてもらえたし、自分でもそう思った。馬とこんなにも心通わせることができるとは夢にも予想しなかった。涼は馬の気持ちがわかるし、馬も涼の気持ちをわかってくれる。ただ馬に乗るだけで、どんなストレスもふっとんでいく。涼の仕事は、ほとんどが舞台のままだったが、もはや仕事につながるかどうかなど、どうでもよくなっていた。単純に馬と過ごす時間がかけがえのないものになっていた。

 そういえば前世でも馬に乗っていたのだったか、と涼は思った。前世でできていたことは、今生でもすぐに習得できるのか。そのシステムについて伊那に尋ねてみた。


「転生を越えて持ち越せるのは、愛と集中力、努力、それに感性かな。たとえば前世、アメリカ人だったとしても、今生で英語が話せるわけではないでしょう。でも、アメリカ人でフランス語を勉強したとしたら、フランス語を勉強するための集中力と努力、フランス語に対する感性は持ち越せるの。それに外国語を習得したいという情熱も持ち越せる。情熱ってつまり、愛の一種ね。だから、他の人より習得は速くなるし、前世より今世のほうが少し速くなるわ。それが才能なの。そうやって転生の間に繰り返された努力が実を結んで天才が作られるのよ。

 涼さんは、過去世で何度も馬に乗ってきたから、馬という種族との間に培われた愛は持ち越されているのよ。だからはじめから、涼さんの中には馬への愛があり、馬の中には涼さんへの愛がある。馬は、人間を乗せるために存在している動物じゃない。最初に、人間と馬との間に愛と信頼があるから、馬が背中に人間を乗せてくれるのよ。ときには人間側の支配だったこともあるでしょうけれどね。人間を乗せるとき、馬がなにを望んでいるかを感じ取れるのが感性だけど、この感性も転生を越えて持ち越される。それに、現実的に馬に乗るための集中力と努力も持ち越せるから、そりゃ涼さんがスジはいいのは当たり前だわ」


 伊那はそう話してくれた。涼は少しだけ、転生の秘密がわかったような気がした。たいした努力もなく簡単にできてしまうことが、過去世の自分の努力の結果だとすれば、他者からうける嫉妬など気にする必要はないのか、と改めて納得できるものがあった。


 あるときなど、涼の車がエリクサの駐車場に入ろうとするときにロウが前に走り出てきた。

 ロウは涼の車の窓を開けさせて言った。

「涼くん、逃げろ!やばいストーカーがいるぞ!」

 涼はあわててハンドルを切って、ロウを助手席に乗せて引き返した。

「いや、でも、どこへ行くんですか、ロウさん」

 そう聞くと、ロウは道を、あっちへ行け、こっちを曲がれと案内をしてくれて、ある民家にたどり着いた。

「この家、誰の家ですか?」

 と涼が聞くと

「僕の家だよ」

 とあっさり言われた。

「ええっ、山小屋じゃなかったんですか?!」

 そういえば、ただの一度もウワサの山小屋にたどり着けたことはない。

「山小屋があるって噂になっているのは知っているよ。僕はエリクサに泊まったときは、たいてい早朝に裏山に登って、山の神や山の王か、どちらかに挨拶する。それを見かけた人が勝手に作った話だよ。別に否定することもないから、そのままにしておいた」

 ロウはそう言った。


 ロウの家は簡素ながら、趣味のいい調度でまとめられていて、落ち着く空間になっていた。一階を入ったところのリビングには、アップライトピアノではなくてグランドピアノがおいてあった。それに世界各国の楽譜の山。ロウは、ピアニストのなりそこないとしては、どうしてもグランドピアノじゃないと納得できないんだよ、と笑っていた。結局その夜、涼はエリクサに行くことはできず、ロウの手料理をごちそうになり、ロウの家で眠ることになったのだが、それはそれで面白い体験だった。


 ロウの家は、エリクサからケモノ道のような道を使ってまっすぐ下ると15分ほどで到着するのだという。車で下りると山道をぐるぐる迂回することになるため、結局は15分くらいかかる。エリクサに泊まったときは、朝、裏山に登ってからそのまま家に戻るか、用事があるときはそのまままっすぐ家に戻るのだという。

 伊那には、このケモノ道は危ないから使うんじゃない、と何度も言っているが、僕が言うことは聞いてくれないよ、と苦笑していた。エリクサが完全に休みのときは、伊那がこちらに泊まることもあるらしい。

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