Null

yokamite

REX.com Diamond

 ──パン、パン……!


「おらぁ! ショーケースのキーを出せ!」


「いやぁ……! どうか命だけは……!」


 燦々と降り注ぐ暖かい日の光に穏やかな風が心地良い、学校帰りの子供たちによる無邪気な金切りごえが木霊する長閑のどかな昼下がりのこと。閑散かんさんとした郊外の土地にこぢんまりとたたずむ場末のジュエリーショップにて、無精髭を蓄えて黒いキャップを目深に被ったは、一般客の目もはばらずに無辜むこの女性店員に向けて拳銃を突き付けて、高価な商品が陳列された防弾ガラス付きのショーケースを開けるための鍵を要求していた。


「大人しく鍵さえ渡せば危害は加えない。だがな、逆らったら命の保証はできないぞ!」


 怒気を孕んだ過激な脅し文句と数発の威嚇射撃によって、抵抗する意思を残らずむしり取られてしまったレジ前の店員は、カウンター下に備え置かれていた鍵束を震える手で掴むと、最も大きく豪華な宝石が展示されているショーケースの鍵を鍵束から外して、主人公に手渡そうとする。


 しかし、街道から丸見えとなっているガラス張りの店内で、一般の通行人が警察に通報するかもしれないことを恐れていたは、鈍間のろまな店員に苛立ちを隠せない様子で鍵束ごと彼女の手から引っ手繰たくると、銃の恐怖に怯えて座り込んでいる周囲の一般客を警戒するように全方位を見回しながら、目当ての宝石が入ったケースを開錠した。


「なんと甘美なる輝きだろうか……! これが"REX.com Diamond"なのか!」


 ジュエリーショップ全体を照らすシャンデリアの光を反射するのは、赤子の握り拳ほどはあろうかという大きさのブラックダイアモンド──その名も"REX.com Diamond"だ。親指と人差し指でその神秘的な輝きを見せびらかすようにまむに、女性店員は慈悲を乞うようにすすり泣きながら悲痛な叫びを上げる。


「あぁ! 私たちの宝石店で最も高価な"REX.com Diamond"が……!」


 その声に、隅で頭を抱えて身体を震わせながら怯えていた数名の一般客たちが一斉に顔を上げ、わざとらしく手を伸ばす。


「な、なんだって!? あれが、かの有名な"REX.com Diamond"だって……!?」


「私もほしい! "REX.com Diamond"!」


 周囲の一般客たちは目の色を変えて、銃を持った男に飛び掛かる。


「うわぁ! お前ら、この銃が怖くないのかぁー!?」


 ──最上級のジュエリーをお買い求めの際は、REX.com! お近くのお店へ。



 ¶



「はい、カットー! いやぁ、流石は名俳優・Richard Edelmanだな!」


「監督、ありがとうございます。今回も大仕事を成し遂げましたね。」


 被っていた黒キャップを取って、口周りを覆う付け髭をべりべりと剥がしながら撮影用の宝石店風セットを飛び出て、カメラや照明機材が所狭しと並べられたスタジオの方へ歩んで監督と握手を交わす主人公──の役は終わったんだったな。


 俺の名はリチャード──この国では知らない者は誰1人として居ない、老若男女問わず人気を博す超有名俳優さ。この度、俺は"REX.com"と呼ばれる暗号通貨企業のCMの広告塔として抜擢され、巨額のオファーを受けてCM撮影のためにアメリカ・ワシントンD.C.某所に構えられたスタジオに招かれていた。


「クライアントも大喜びだろうさ。宝石店事業も良いスタートダッシュが切れるってな。」


 暗号通貨企業である"REX.com"は昨年、もともと"The Endigma"という名前で知られていた世界最大のカットダイアモンドを暗号通貨によって落札した。555.55カラットもの大きさを誇り、宇宙由来の物質であるとも噂されていて、芸術的・学術的価値も高い天然のブラックダイアモンドである"The Endigma"は、新たな保有者となった企業の名前を取って"REX.com Diamond"と改名された。


 さらに、"REX.com"はこのダイアモンドを構成する物質について解析し、最新鋭の科学技術によって人工合成することに成功したため、希少価値の高いブラックダイアモンドを量産する技術を確立したことによって宝石店事業にも触手を伸ばすことに相成ったのだ。


「それにしても、本当に美しいダイアモンドですね。まるで本物みたいだ。」


 CMの撮影を終え、俺の手に握られている"REX.com Diamond"は照明器具から降り注ぐ光を鈍く照り返して、見る者全てを魅了するかのように輝いている。


「リチャード、撮影お疲れ様!」


「カーラ、ありがとう。」


 監督と通り一遍の確認作業を済ませた俺は、背後から溌溂とした声で呼び掛けられたため振り返る。すると、そこには俺と同じくCM撮影に携わっていた小道具担当の美術スタッフ──カーラの姿があった。


「ね、ねぇ。リチャード……。」


「なんだ、カーラ?」


「きっとこんなこと言ったら、いくら歴戦の名俳優であるリチャードでも緊張させてしまうだろうから秘密にしておいたんだけど……。」


「どうしたんだよ、勿体振って。」


 もじもじとした仕草で決まりの悪そうな表情を浮かべながら、含みを持たせた言い方をするカーラの言葉に違和感を覚えた俺は、ふと聞き返す。


「そのダイアモンド、実は量産品じゃなくて、オリジナルの"REX.com Diamond"なの。」


「なに……!?」


 カーラの暴露した驚くべき内容に、俺は言葉を失って戦慄する。てっきり俺は、このダイアモンドも撮影用の小道具として用意した陳腐な人工量産品だと思って、かなりぞんざいな扱い方をしていたような気がして自らの行動を慌てて振り返る。


「どうしても『世界中で放送される一世一代のCMなんだから、是非とも本物の"REX.com Diamond"の美しさをカメラに収めてほしい』って言っていた、クライアントたっての希望でね……。」


 特徴的なブロンドのロングヘアーを指先で弄りながら、お茶目に微笑むカーラの言葉に、俺はひとつの溜息で返す。


「あのなぁ……。もしも俺が手を滑らせて、オリジナルに傷でもつけたらどうするつもりだったんだよ。」


「そこはまぁ。経験豊富な名俳優の手腕を信じて、ね?」


 小聡明あざとくも可愛らしく首を傾げて誤魔化そうとするカーラに、俺は頭を抱えて俯いてしまう。すると、下を向いた俺の視界に、大きなブラックダイアモンドの得も言われぬ神々しい煌めきが飛び込んできて、今度は違う意味で溜息が漏れる。──本当に、なんて美しさだ。


 ──ャード……。


 願わくば、この神秘的な宝石を本当に手に入れることができたのなら。


 ──チャード……。


 金では決して手に入れることのできない、オリジナルの超自然的な華やかさが俺の心を惑わせる。


「リチャード! 聞いてるの!?」


「す、すまん。カーラ……。」


 吸い寄せられるような大粒の宝石に魅了されていた俺は、彼女の大声でふと我に返る。


「ほら。」


「なんだ……?」


 すると、カーラは俺に向かって自身の右手を差し出した。何かを要求するようにてのひらを上に向けるので、彼女の話を良く聞いていなかったために当惑する俺は咄嗟に自分の手を重ねた。


「な、なにしてるの! 犬じゃあるまいし!」


 カーラはのように重ねられた俺の手を突っねて、改めて掌を差し出した。


、返して。」


「嫌だ。」


 俺の右手に握られているダイアモンドを顎で差して、素直に受け渡すように要求するカーラの言葉に、無意識のうちに即答してしまった。──返したくないと。


「何言ってるの? 大人しく渡しなさい……!」


「いやぁ、ほら……! まださっきのショットにダメ出しが入るかもしれないだろ……?」


「さっき監督と一緒に最終確認もしてたでしょ。それに御覧なさい。皆も撤収作業を始めてるわよ。」


 辺りを見回せば、スタッフ全員が撮影の成功をねぎらい合って、和気藹々とした雰囲気の中で、楽しそうに談笑しながら後片付けに没頭していた。


「じゃあ、あれだ! CM撮影中も無事に貴重な宝石を守り切った俺の手腕にけて、撤収作業の間は俺が大切に預かっておく! だから安心しろ!」


「ダメよ。今すぐ返しなさい。」


 俺の苦し紛れの提案も虚しく、煌々と輝く宝石とは対照的にゆっくりと光を失っていく凍て付くような瞳をこちらに向けるカーラは、きっぱりと言い放つ。


「か、斯くなる上は……。」


 ダイアモンドを中々返そうとしないので、カーラは軽蔑の眼差しを寄越してくる。そんな彼女の冷たい視線から逃れるように、回れ右をした俺は、大きな宝石を胸ポケットに強引に突っ込んで全力で走り出した。


「逃げるんだよォ!」


「あ、待ちなさい!!」


 国民的俳優として富も名声も思いのままに手に入れてきた俺は、神々しい輝きを放つダイアモンドの美しさに魅入られた結果、衝動的にその全てをかなぐり捨てて、愚かにも意地汚い犯罪者へと成り下がってしまった。



 ¶



「リチャード、逃がさないわよ!」


 ──ジリリリリ……!


 怒り狂った様子のカーラは、俺の背後で非常用の火災報知機を叩き壊さんばかりの勢いで押した。そのただならぬ光景を見た周囲のスタッフたちは皆一様に手を止めて、スタジオ内を駆けまわる俺を唖然として眺めていた。


「みんな! リチャードが宝石を持ち逃げした! 捕まえて!」


 茫然自失といった様相で立ち尽くすスタッフたちに檄を飛ばすカーラの声に応じて、いち早く動き出した数名が俺の後を慌ただしく追って来る気配が伝わってきた。──追われるのは苦手だ。迫り来る見えない何者かの息遣いが近づいてくるだけで、背筋が凍るような感覚に襲われる。


「っ、ない! 宝石なんて、持ってないぞー!」


 息も絶え絶えに苦し紛れの嘘を叫ぶも、それで騙されてくれるような奴が居るなら始めから苦労はない。


「よし、もうすぐスタジオの外だ──っ……!」


 涼し気な外気と太陽の光が差し込むスタジオの出入り口が見えてきたかという時、そんな俺の視界に飛び込んできたのは、カーラが火災報知器を押した影響で今にも閉じようとしている防火シャッターだった。ここで間に合わなければ、退路が塞がれた俺は呆気なく捕まってしまうだろう。


「させるか!」


 複数人に追跡される恐怖と一抹の罪悪感に加え、全力疾走の影響で悲鳴を上げている俺の心肺はそろそろ限界を迎えようかというところだが、この何物にも代えがたいほどに美しいダイアモンドは諦めきれない。俺はあと少しで地面にくっ付いてしまいそうな防火シャッターの間に挟まれる可能性にも臆することなく、ヘッドスライディングで外の光の中へと飛び込んだ。


「届いてくれーーーッ!」


 運を天に任せて目を瞑った俺が、次に目を開くとそこはスタジオの外だった。防火シャッターが閉じてくれたおかげで、都合良く追手を振り切ることができた俺はガッツポーズと共にダイアモンドをポケットから取り出し、天高く掲げて勝利宣言する。


「いよっしゃー!! これでダイアは俺のもんだー!!」


 日の光に透かすと一層強い輝きを放つ、存在感のあるブラックダイアモンドを握り締めると、俺は得も言われぬ高揚感に包まれた。後は颯爽とこの場を離れて、この美しいダイアモンドを独り占めできるところまで逃げ果せるだけだ。


 まるで喉から手が出るほど欲しかった玩具を両親に買ってもらった子供のようなはしゃぎっぷりで、口笛を吹きながら車のキーを人差し指でくるくると回しながら付近の駐車場まで闊歩する。この世に二つとない究極の神秘であるブラックダイアモンドを手に入れた今や、陳腐な量産品にしか見えなくなってしまった自前の高級車に乗り込んだ俺は、意気揚々とハンドルを握り締めてConfettiの『Rob A Bank』を大音量で車内に響かせる。


 ──F#ck around and make a scene~♪


「あら、私もご一緒しても良いかしら。」


 アクセルペダルを踏み締めて、どうせ犯罪者となってしまったのだから法定速度など完全無視で街道をひた走っていた刹那、氷よりも冷たい声色と視線を助手席に感じてハンドルを握る手が滑る。


「うわぁあああ!? か、カーラ……。」


「ご機嫌よう、リチャード。さっさと観念してダイアモンドを渡しなさい。」


 急激に速度を落として視線を右隣に向ければ、仏頂面で盗んだダイアモンドを返すように要求する彼女がいつの間にか座っていた。


「だ、ダメだね……。これはもう俺のものだ! 誰にも渡しやしないよ!」


「どうしてオリジナルに固執するの。貴方ほどのお金持ちなら、後から自腹で量産品を買えば良いじゃない。それがどうして──」


「この美しさが分からないのかい!? 独特のフォルムに思わず見惚れてしまうほどの光沢、そしてこの手に馴染む感触、どれを取っても最高の宝石だ! これじゃなきゃダメなんだ!」


 どれだけこのダイアモンドを真似て、最新鋭の科学技術で模倣品を作ることができても、オリジナルの"REX.com Diamond"は唯一無二の存在だ。誰に何と言われようと、俺は諦めることができないのだ。


「な、なぁカーラ。今まで俳優とスタッフとして、色々な現場を数多くこなしてきた俺とお前の仲じゃないか。頼む、見逃してくれ……!」


「出来る訳ないでしょう! そのダイアモンド、百万ドルやそこらじゃ弁償できないのよ!?」


「だったら何百万ドルだろうと、俺が自腹で支払うよ!」


「そういう問題じゃない! さっさと寄越しなさい!!」


 口八丁に何とか言い包めようとするも、カーラは決して首を縦に振ることはなかった。俺の動揺を反映するようにがたがたと蛇行する車の揺れによって、運転席側のダッシュボードの下にあるグローブボックスの中で丁重に保管していたダイアモンドがカタカタと音を立てたことに気付いた様子のカーラが訝し気に、中を確認しようと手を伸ばす。


「や、やめろ!」


「やっぱりこの中なのね! いい加減返しなさいっての!」


 スタジオを脱走してから20分ほど、大河に架かった橋の上に差し掛かった車内にて、カーラとの擦った揉んだに気を取られて前方不注意となっていた俺は、唐突に急ブレーキを踏んだ前の車に反応が遅れる。


「なにぃ……!?」


 こちらも急いでブレーキを踏むが間に合わず、大慌てで力一杯ハンドルを切ると、橋の柵に衝突した車は勢い余ってそのまま川へと落下し始めてしまった。


「うそだぁーーーッ!!」


「いやぁああ! リチャードのバカぁーーーッ!」


 人間2人分の重量が上乗せされた高級車は轟音と共に水面に衝突すると、天高く水飛沫が舞い上がる。橋の鉄骨で羽休めをしていた鳥たちは、その異様な光景に驚いて一様に逃げ去って、通行人たちは面白半分にスマホを向けたり、警察に通報したりなど、人集ひとだかりのできた橋上はてんやわんやだった。



 ¶



 ゆっくりと川底に向かって沈みゆく高級車の中で、俺とカーラは完全に閉じ込められてしまった。車内は徐々に浸水し始め、脱出しようにもドアは水圧によってビクとも動かない。日頃から装備品の確認を怠っていたためか、窓ガラスを割ろうにも専用のハンマーすら積んでいない車で、絶望に打ちひしがれる。


「わ、私たち、死ぬの……?」


 突如として直面した非日常的な事態に、カーラはかえって冷静になったのか、落ち着き払った声で尋ねる。


「まぁ。そうなるだろうな……。」


 かく言う俺も、諦観の境地に達したことでようやく平静を取り戻すことができた。命あっての物種だというのに、何故俺はさっきまで何かに取り憑かれたかのように、"REX.com Diamond"に固執していたのだろう。何物にも勝る美しさを持ったダイアモンドですら、天国には持って行けないというのに。


「死にたく、ないな……。」


 溜息をひとつ、死の恐怖に肩を震わせるカーラを見遣って、俺は後悔した。物欲に目が眩んで犯罪行為に及び、あまつさえ何の罪もない彼女を巻き込んでしまった。彼女が死んでしまったら、俺が殺したも同然だ。──そんなことは、絶対にさせない。


「カーラ、諦めるな!!」


 俺は大慌てで、腰に巻いていたベルトを引き抜く。


「今からこいつの金具をむちのようにフロントガラスに叩き付ける。そしたら、ガラスが割れて一気に水が入ってくるだろうが、その隙に脱出できる!」


「ほ、本当に……?」


「あぁ。だからそんな顔するなよ。行くぞ、ちょっと屈んでろ。」


 ベルトを振り回してカーラを巻き添えにしないために彼女に身を屈めてもらうと、乾坤一擲、俺は力の限りベルトの金具をフロントガラスに打ち付けた。


「おらぁ……!」


 水中で鈍い音を立てたガラスは1発で砕け散ることはなく、小さな亀裂が生じたことで、隙間からさらに水が入ってくる。


「割れてくれーーーッ!」


 2度、3度とベルトを打ち付けると、亀裂は徐々にガラス全体へと広がっていき、水圧の助けもあってか遂に人ひとりが通り抜けられるほどの隙間が生まれたと同時に、大量の水が流れ込んでくる。


「きゃあ……!」


「カーラ! 行くんだ!」


 怯える彼女を一刻も早く脱出させるため、車内に残る僅かな酸素で深呼吸させて、ガラス片で怪我をさせないように彼女の身体を押して、ゆっくりと車外へと送り出す。


「(リチャード、貴方も来るの!!)」


 車外に出たカーラは、水中で必死に目を開いて、その鬼気迫る表情と瞳に宿る決意によって、俺にも脱出するように促す。だが生憎、浸水による酸欠でうまく身動きが取れなくなった俺にはもう、脱出するだけの力は残されていなかった。


「(リチャード、何をしているの!? 諦めないでよ!!)」


 カーラは割れたガラスの隙間から、俺の身体を掴もうと必死に手を伸ばす。だが、これで良いんだ。彼女さえ生きてくれさえいれば。


「(カーラ、もう行くんだ。)」


 ──俺はもう助からない。だから君だけでも助かってくれと伝えたくて、俺は懸命に伸ばされた華奢な彼女の手に、"REX.com Diamond"を握らせる。


「(カーラ、すまなかった。今まで、ありがとうな。)」


「(リチャード!!)」


 薄れゆく意識の中で、フロントガラス越しの彼女の掌に手を伸ばした。


「(やっぱり欲しかったな、"REX.com Diamond")」


 ──最上級のジュエリーをお買い求めの際は、REX.com! お近くのお店へ。



 ¶



「はい、カットー! いやぁ、流石は名女優・Karla Turnerだな!」


「監督、ありがとうございます。今回も大仕事を成し遂げましたね。」


 溺死寸前となっていたリチャードを川から引き揚げて岸に上がり、手渡された大きなタオルでびしょ濡れになったブロンドのロングヘアーを拭いながら、多種多様な撮影機材を構えながらこちらを見ているスタッフたちに会釈をしながら、監督と握手を交わす主人公──の役は終わったんだったわ。


 私の名はカーラ──この国では知らない者は誰1人として居ない、老若男女問わず人気を博す超有名女優よ。


「クライアントも大喜びだろうさ。宝石店事業も良いスタートダッシュが切れるってな。」


「それにしても、本当に美しいダイアモンドですね。まるで本物みたい。」


 CMの撮影を終え、私の手に握られている"REX.com Diamond"は、雲一つない青空から降り注ぐ太陽の光を反射して、見る者全てを魅了するかのように輝いている。


「カーラ、ごほっ……! 撮影お疲れ様……。」


「リチャード、大丈夫?」


 監督と通り一遍の確認作業を済ませた私は、岸辺に横たわっている男から掠れ声で呼び掛けられたため下を見る。すると、そこには私と同じくCM撮影に携わっていた小道具担当の美術スタッフ──リチャードの虫の息となった姿があった。


「か、カーラ……。」


「どうしたの、リチャード?」


「きっとこんなこと言ったら、いくら歴戦の名女優であるカーラでも緊張させてしまうだろうから秘密にしておいたんだけど……。」


「どうしたのよ、勿体振って。」


 息も絶え絶えに酸欠で真っ青となった顔色のまま、含みを持たせた言い方をするリチャードの言葉に違和感を覚えた私は、ふと聞き返す。


「そのダイアモンド、実は量産品じゃなくて、オリジナルの"REX.com Diamond"なんだ。」


「なんですって……!?」


 リチャードの暴露した驚くべき内容に、私は言葉を失って戦慄する。てっきり私は、このダイアモンドも撮影用の小道具として用意した陳腐な人工量産品だと思って、かなりぞんざいな扱い方をしていたような気がして自らの行動を慌てて振り返る。


「どうしても『世界中で放送される一世一代のCMなんだから、是非とも本物の"REX.com Diamond"の美しさをカメラに収めてほしい』って言っていた、クライアントたっての希望でさ……。」


 濡れ鼠となってぼさぼさの黒髪を両手で掻き上げて、苦笑いを浮かべるリチャードの言葉に、私はひとつの溜息で返す。


「あのねぇ……。もしも私が手を滑らせて、オリジナルを川底に置き去りにしちゃったらどうするつもりだったのよ。」


「そこはまぁ。経験豊富な名女優の手腕を信じて、さ?」


 漸くいつもの調子を取り戻しつつ適当な詭弁を弄するリチャードに、私は頭を抱えて俯いてしまう。すると、下を向いた私の視界に、大きなブラックダイアモンドの得も言われぬ神々しい煌めきが飛び込んできて、今度は違う意味で溜息が漏れる。──本当に、なんて美しさなの。


 ──ラ……。


 願わくば、この神秘的な宝石を本当に手に入れることができたのなら。


 ──ーラ……。


 金では決して手に入れることのできない、オリジナルの超自然的な華やかさが私の心を惑わせる。


「カーラ! 聞いてるのか!?」


「ご、ごめんなさい。リチャード……。」


 吸い寄せられるような大粒の宝石に魅了されていた私は、彼の大声でふと我に返る。


「ほら。」


「なに……?」


 すると、リチャードは私に向かって自身の右手を差し出した。何かを要求するようにてのひらを上に向けるので、彼の話を良く聞いていなかったために当惑する私は咄嗟に自分の手を重ねた。


「な、なにしてんだ! 犬じゃあるまいし!」


 リチャードはのように重ねられた私の手を突っねて、改めて掌を差し出した。


、返しな。」


「嫌よ。」


 私の右手に握られているダイアモンドを顎で差して、素直に受け渡すように要求するリチャードの言葉に、無意識のうちに即答してしまった。──返したくないと。


「何言ってるんだ? 大人しく渡せよ……!」


「いやぁ、ほら……! まださっきのショットにダメ出しが入るかもしれないじゃない……?」


「さっき監督と一緒に最終確認もしてただろ。それに見てみろ。皆も撤収作業を始めてるじゃないか。」


 辺りを見回せば、スタッフ全員が撮影の成功をねぎらい合って、和気藹々とした雰囲気の中で、楽しそうに談笑しながら後片付けに没頭していた。


「じゃあ、あれよ! CM撮影中も無事に貴重な宝石を守り切った私の手腕にけて、撤収作業の間は私が大切に預かっておく! だから安心して!」


「ダメだね。今すぐ返しな。」


 私の苦し紛れの提案も虚しく、煌々と輝く宝石とは対照的にゆっくりと光を失っていく凍て付くような瞳をこちらに向けるリチャードは、きっぱりと言い放つ。


「か、斯くなる上は……。」


 ダイアモンドを中々返そうとしないので、リチャードは軽蔑の眼差しを寄越してくる。そんな彼の冷たい視線から逃れるように、回れ右をした私は、大きな宝石を胸ポケットに強引に突っ込んで全力で走り出した。

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