第29話

 リンさんが俺の隣に座る。その姿は今までのリンさんに戻っている。

「ユータ君も物凄ーく、ホントにものすごぉく頑張ればその内出来るようになるよ」

「そこまで頑張るんですか?」

 あまりにも『物凄く』を強調するから思わず苦笑しそうになったが、よく見るとリンさんの真面目な目がかち合って上がりかけた口角が下がっていった。

「うん、そこまで頑張らないと難しいよ。私も出来るまで何年も掛かったもん」

「姿を変えるってそこまで大変なんですね」

「姿を変える、って言うより意識を変える事が難しいんだよ。空を飛ぶ時、ユータ君は筋が良いって言ったじゃん? 出来ない人はね、一か月経っても五センチ浮けるかどうかなんだよ」

「これってそんなに難しいものだったんですか?」

 俺は周りを見回して自分の体を見下ろした。そろそろ昼に差し掛かろうかと言う時間だ。階下では人が忙しなく歩き回っている。みんな五センチも飛ぶ事無く日々を過ごしている。そう思えばこれは本当に凄い事なんじゃないかと思えてきた。

「幽霊が出来る色んな事はね、如何に自分の中の常識を書き換えられるかが重要なんだよ。君はそれが上手だったね」

「いえ、きっとそう言う事じゃ無いんです。あの時、もう色んな事がぐちゃぐちゃになってどうなってもいいどうにでもなればいい、そんな気持ちだったんです。今は飛べてしまったから俺は飛べるんだと思ってますけど、常識を書き換えるなんて意識して出来る事じゃないです」

 俺の吐き出すような言葉にもリンさんはうんうんと頷いて聞いてくれる。

「そんなもんだよ。それでいいんだよ。そうやってみんな段々と慣れていくんだから」

 リンさんは優しい目をしていた。優しくて悲しい目だ。彼女が過ごした死んでからの時間。その長さや孤独は俺には分からない。

「日が高くなってきたね。そろそろ降りよっか」

 スッと立つリンさんが眩しそうに太陽の光に手を翳す。髪が光を透かして毛先がキラキラと輝いていた。

「あの、リンさんっ……」

 振り返る彼女から光の粒が散ったように見えた。

「……え、と、その……」

 呼び止めたはいいけど言う言葉が見つからない。リンさんにもっと幽霊の事教えてほしい。でもこのままここに居る事が本当に良いのか分からない。俺は、俺は……

「俺はどうしたらいいですか」

 声に出して俺は慌てて「すみません」と頭を下げた。そんな事聞かれてもリンさんが困るだけだ。恥ずかしさに顔が熱くなる。いつまでも顔が上げられないでいると、リンさんの手が目の前に差し出された。顔を上げると彼女の笑顔があった。

「ゆっくり降りようか」

 リンさんにそう言われ俺は頷く事も無く従った。ゆっくりと歩き出す彼女を追う。階段を降りるように一歩ずつ視界が低くなっていった。

「死ぬってさ、辛いよね」

 リンさんがあっけらかんとした声で言う。その声が肌を刺すように全身が痛んだ。

「私ね、人を殺そうとした事があったの」

「え……」

 今、なんて言った? 人を殺そうとした? リンさんが?

「あ、勘違いしないでよ? それ自体は未遂だったんだから。それで罰が当たったんだね。死んだのは、私だった」

 相変わらず声は明るい。明るいのに、その横顔の笑顔は歪んでいた。

「私はね、くそ野郎だよ。でも自分が死んでね、そこでやっと色んな事を冷静に考える事が出来るようになったんだ。それで思ったのは、これで良かったんだって事」

「どうして良かったなんて思えるんです? 俺は殺したい程憎い奴が生きてて自分が死ぬだなんて耐えられそうもないです」

 俺の問いにリンさんが深く頷いた。

「最初はね、私もそう思ってたよ。なんであいつがーって。でもね、ある時そいつが生きてる姿を見たんだ。そしたらね、笑ってたんだ。それもスッゴくいい笑顔。その笑顔を見た時にね、憎いとか嫌いみたいな感情じゃなくて、一緒にいて楽しかった事とか嬉しかった事とかを思い出して生きててくれて本当に良かったって涙が止まらなくなった」

 リンさんが小さく鼻を啜った。

「ユータ君はさ、帰りたいんじゃない? 生きてた時の友達とか家族とかの所にさ」

「でも帰ったところで誰も俺に気付かないですし……」

「うん、でも顔を見るだけでも違うんじゃない? それに今まで君が知らなかっただけで、友達に霊感あって喋る事が出来たり、なんて事もあるみたい」

 そんな事本当にあるのか?

 俺が訝しんでいた事に気付いたのかリンさんが頬を膨らませた。

「ホントだって、前にここに居た女の子はそれで最後に話したらしいよ、担任の先生と」

「ここにきて担任ですか」

 思わず俺が笑うとリンさんも可笑しそうに笑った。いつの間にか地面まで一メートルも無いくらいまで迫ってきていた。

「行きなよ。行きたい所にさ。ここにはいつ戻ってきてもいいんだから」

 ね、とウインクをするリンさんはやはり可愛かった。

「ありがとうございます。俺行ってきますね」

 俺は地面を踏みしめると、リンさんに深く頭を下げた。

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