第27話

「アタシ、スッゴく良い子なんだから。迷子のユータを見つけたのもアタシだよ」

「うん、偉いよねアグリは」

 リンさんがアグリの頭を撫でた。アグリはそれに満面の笑みを浮かべると、キャッキャとはしゃいだ声を上げながら辺りを走り回りだした。と、思ったら今度は俺とリンさんの周りを八の字に走る。その小さな姿は何だか微笑ましい。そうやってアグリの姿を目で追っていると、俺とリンさんの間を通り抜けて、ポンっと軽快に踏み切った。そのまま、その体が宙に浮く。が、なかなか降りてこない。それどころかアグリはそのまま縦横無尽に宙空を駆け回り始めたのだ。

「え……えっ? 空飛んで、いや走ってる?」

 混乱する俺にリンさんはニヤニヤと笑って俺の肩を叩いた。

「若人君は見た事ないかね? アニメとかで幽霊が浮いてるところって」

 そう言われれば見た事ある気がする。高校生の主人公の周りを飛び回る幽霊の女の子、何のアニメだったかは忘れたけどそんなシーンを何処かで見た記憶がある。

「あります。詳しくは覚えてないですけど」

「なら話は早いね。ちょっと見てて」

 そう言うとリンさんは右足を左足の膝まで上げるとそのまま前にゆっくりと踏み出した。その足は空中で止まった。そのまま左足を右足と同じ高さまで引き上げた。

「ジャーン。私も空を飛べるんでしたー」

 そう言ってニッコリ笑った。

 もう驚く事はなかったが、それでも宙に立つその姿はマジックのようで不思議だ。

 リンさんは笑った表情のまま俺の手を取った。柔らかくて、でも何処か冷たい手に思わずドキリとした。

「ユータ君もやってみて」

「お、俺にも出来るんですか?」

「そうだよ。さ、一歩踏み出してみて」

 言われて俺は右足を振り上げるとリンさんが立つ位置と同じ場所に足を振り下ろした。が、俺の足は宙を踏み外して地面へと着地した。もう一度足を上げて振り下ろす。失敗。今度は左足を上げて振り下ろす。失敗……

 俺が首を傾げるとリンさんがケラケラと笑った。

「それじゃダメだよユータ君」

「なんかコツとかあるんですか?」

「そう言うのは無いけど、君は信じてないよね? 自分が空を飛べるって」

「それは……そうです。自分が道具も無く空を飛ぶなんて考えられないです」

「うん、そうだよね。それが本来の感覚だったかも。あはは、私もダメだなぁ。もう自分が生きていた頃の事が分からなくなってきてるのかも」

 ストン、とリンさんが地面に落ちた。すっと目を閉じ俯く。

 あ、落ち込ませてしまった。マズイと思い俺が声を掛けようとした瞬間、「でも」と言ってリンさんが顔を上げた。

「人間ってそう言うものよね。どんどん新しい経験をして成長していくの。その中で出来ない事が出来るようになると出来なかった頃って忘れていくものよね、ね?」

 ね? と念を押すように言われて俺は思わず頷いてしまった。

「やっぱそうだよねぇ。良かった良かった」

 ニコニコと笑うリンさんに何だか脱力してしまう。明るくて前向きで、でも圧が強くて頑固。何だかどうしても嫌いになれないタイプの人だ。

「何? ニヤニヤしちゃって」

「いえ、なんか今ならいけそうな気がするんです」

 そう言うと俺は軽く助走を付けて階段を昇るように交互に高さを変えて四歩、五歩と足を踏み出した。そして俺が止まった時にはリンさんの頭は俺の足の下にあった。

「すごーい、ユータすごーい」

 空中を駆け回っていた筈のアグリがいつの間にか目の前で俺に拍手を送っていた。

「空に立っていられるだけなんだけどな」

 そう言って天地逆の真っ逆さま状態で拍手するアグリに苦笑を返した。

「流石新人類。常識疑うのが上手いね、若人君」

「し、新人類……ですか?」

「あ、あれ? 最近の子ってそう呼ばれてるんじゃないの?」

 おかしいなぁと言いながらリンさんが頭を掻く。いつの間にか彼女も俺と同じ目線まで上がって来ていた。リンさんは俺の顔を覗き込むと、俺の両手を取って言った。

「ね、折角だしこのまま少し空の散歩しない?」

「さ、散歩ですか? でも俺まだちゃんと歩けるか……」

 顔が近くてドギマギする。近くで見ても、いや、近くで見る方が可愛いとさえ思う。大きな目、つるりとした肌、形の良い唇、全てが可愛い。

「大丈夫。ここまで来れたら歩くのはもっと簡単。さ、行こうよ」

 リンさんが俺の手を引いて歩き出す。俺はつんのめるようにして一歩を踏み出した。すんなりと宙を歩く俺の足。確かに簡単だ。そうと分かってしまえば止まる事も無い。ずんずんと先へ歩いていく。後ろからアグリが「いってらっしゃーい」と叫んでいるのが聞こえる。俺は振り返って手を振った。

「もっと高いトコ行こうよ」

 そう言うとリンさんは軽く踏み切って空へと飛んでいく。

「えっ? わっ!」

 リンさんの手に引かれた体が一緒に浮き上がる。ふわりと浮く体はどこまでも上へと上がっていく。あっという間に商店街の店舗の屋根を超え、気付けば町を見下ろす高さまで来ていた。

「どう? ここも結構眺めいいでしょ?」

 日に照らされた笑顔が輝いて見える。俺はその笑顔が眩しくて目を細めた。

「はい、凄く良いです」

「ね、いいよね。私、こうやって高く飛ぶのが好きなんだ。ちょっと座ろっか」

 そう言って何も無い空中で、椅子に座るように腰を下ろした。

「ここ、座って」

 リンさんが自身の隣をぽんぽんと叩いた。俺はそこに恐る恐る腰を下ろした。一瞬、深く腰が沈んだ。落ちるイメージが頭を駆け巡った。瞬間、体が宙に投げ出された。

「ユータ君!」

 差し出された手を必死に掴む。細い腕の何処にそんなチカラがあるのか、リンさんは片腕だけで俺を引き寄せると、自身が座っていたところに俺を引き上げた。

「大丈夫?」

 心配そうに顔を覗き込む。

「すみません。一瞬、落ちるイメージをしちゃって」

「うんうん。ユータ君筋が良いからちょっと無理させちゃった。でも本当に凄いよ。今、君はこんなに空高くにいるんだよ?」

 あぁ、そうだ。今俺は空の上にいる。自由に空を飛べるんだ。ほんの数日前は考えもしなかった景色。美しいと思う反面、こんなものいらないから今すぐみんなの元に帰りたいと言う気持ちが心の奥底からジワジワと染み出してくる。

 商店街のシャッターが開く音が遠く足の下から聞こえてきた。街は新しい一日を始めようとしている。生きている全てが動き出そうとしている。そんな中で俺はここに、この世界にいて良いのか分からなくなってきた。帰りたい。生きたい。俺は本当に生き返れるのか? 焦燥感が募っていく……

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