第8話 三つの問答

 イエンウィアは絶句していました。


 けれどちゃんと答えようとはしてくれていたようです。言葉に詰まりながらも、少し視線を下に下げて私の胸元を見ると、顔を赤らめて目を反らしたのを私は確かに見ましたから。

 そういう彼の誠実なところが、私は大好きだったわ。


「答えはもらえないのかしら?」


 いつまでたっても返事を返してくれないので、焦れた私は更に詰め寄りました。


 イエンウィアはとりあえず、私の両肩を掴んで身体を離させました。そして、「すまない。どれから言及していいのか判断に困っていた」と前置きしてから、一本ずつ指を立てて、次のように回答と説明をくれました。


「一つ目。あなたが彼女を知っていたとは驚きだった。二つ目。私が胸の大きさで恋愛対象を決めているとでも? 三つ目。ふざけすぎだ」


 ならば、と私も同じように指を立てて返してさし上げたわ。


「一つ目。あの娘は気付いていないようだけれど、貴方があの娘を好いているのは誰の目から見ても明らかよ。二つ目。女の胸が嫌いだと言う男性には私、今まで出会った事がありません。三つ目。こんな話題ふざけないと口にできないわ、恥ずかしい!」


 負けじと言い返した私を、彼は呆れたように見ましたが、やがて、


「人並み以下とはいえ貴方にも恥じらいの気持ちが有ったとは喜ばしい事だ」


 と言いました。

 明らかに皮肉だったわね。

 今思えば、彼は存外、皮肉の上手な人だったと思います。


「見くびらないでちょうだい」と、私は腰に手を当てて胸をむんと張りました。なるだけ尊大に見えるようにね。


「これでも一応、御近所ではお行儀のいいお嬢様で通っているのよ」

 

 意外でしょう? でも私、本当にそうなのよ。家の名に恥じぬよう、父や弟の顔を汚さぬよう、お行儀も教養もきちんと身につけてきましたの。自分でいうのもなんだけれど、どこに出しても恥ずかしくない娘だったと思います。今さらだけれどね。

 

 イエンウィアは頬杖をつくと、「なるほど」と言いました。


「それで、その外面が完璧なお譲さまは、ご自分の胸にコンプレックスを持っているというわけか」


 今日の彼は随分と意地悪を言うなと思いましたわ。

 あの娘のせいかしら。それとも、私のせいかしら。……両方だったかもしれませんね。

 けれど私も気が高ぶっていたせいか、彼の気持ちを煽るのをやめられなかったの。


「ご冗談を。私、おっぱいは自慢なの。朝露に濡れた柘榴のようでしょ」


 疑わしいなら触ってごらんなさいよ。


 そう言って、頬杖をついていない方の彼の手を取って、胸に近づけてやりました。


 ぎょっとした彼は、触れる前に慌てて手を振り払ったわ。こんな温かくて美しい胸を拒むなんて、本当に失礼よね。

 それなりに腹が立ったので、


「触れるのが嫌なら抱き寄せて差し上げてよ」


 と、少々睨みつけて脅迫まがいな事を口にいたしました。


「私は猫じゃない!」 


 昨日と同じく、彼は真っ赤になっていました。

 子猫の方がまだ可愛げがあると思いましたわ。


「前言撤回だ。やはり貴方は図太い上に恥じらいがまるでない」

 

 言ってくれると思いません? 私がどれだけ必死だったか分っていたくせに。

 

 私だって本当は、もっと余裕を持ってイエンウィアに接したかったわ。

 恋の駆け引きとやらも楽しみたかったし、怒らせるような真似もしたくなかったのよ。

 胸だって、触らせるのではなくイエンウィアが自分から触れてくれるのを待ちたかったわ。

 けれど私を取り巻く環境は、そんな悠長なこと、許してはくれなかったのです。


「恥らってなどいたら、私は父の言うままに、どこの誰とも知らないお偉いさんのお嫁さんよ。そんなの御免だわ!」


 拳をきつく握って血を吐くように言った私の言葉に、イエンウィアは毒気を抜かれたような顔になり、黙って私を見つめました。


 こんな事を言えば、私が父を嫌いだと誤解されかねませんね。――いいえ。私は父が好きですのよ。厳しくて野心家ではあるけれど、『わたしのお姫様』と幼い頃はよく呼んでくれて、一緒に遊んでもくれました。本当は母がするはずだったけれど早世して中途半端に終わってしまった女の子の教育も、父が一生懸命してくれたのです。そんな人を、嫌うはずないではありませんか。


「父の事は好きだし、望むように出来ればどんなにいいかしらと思うけれど、仕方ないのよ。心がどうしても嫌だと言うんだもの」


 悔しいけれど、その言葉は殆ど泣き声になっていました。


 イエンウィアは服とショールの間から布を取りだすと、私にそっと渡してくれました。

 私だって、たしなみとして汚れをふき取る布くらいは持っていたのですけれど、心遣いが嬉しくて、何も言わず受け取り、少し濡れた気がした目尻を押さえました。


「頭と心は往々にして離れ離れになるものだ。心は理屈では動いてくれない」


 静かな声で、彼は私に諭しました。

 それを比喩ととった私は、愕然としました。だって、彼の想い人を見た直後でしたから。

 心はあの娘。理屈は私。

 そうとらえても、仕方ないでしょう。


「私はあなたにとって、理屈だと言うの!」


「失礼。例え話をしたのではない」


 ショックのあまり大声で叫んでしまった私に、イエンウィアは両手で『どうどう』と牛やロバを落ち着かせる時のように押しとどめながら、誤解を招いた発言を詫びてきました。

 そして、私から視線を外すと、こう言ってくれたのです。


「貴方は私にとって大切な人の一人だ。素晴らしい女性だとも思うよ。家族になれたらきっと楽しいだろうと。けれど、そう考えると必ず別の人の顔が頭に浮かぶことも事実だ。そんな状況で、首を縦になど振れるはずがないだろう」


 真面目な顔で、彼は赤裸々に胸の内を語ってくれました。内容が内容だけに、私の顔を見て話せなかったのは仕方がありませんね。

 そして彼は、私に困ったような笑顔を向けて、こう続けました。


「貴方が父君の希望を叶えられないのと同じだよ」


 と。


 すとん、と彼の言葉が胸に落ちてきました。

 そうね、仕方ないわよね、と納得できましたの。

 ああ、けれど、それでイエンウィアを諦めようと思ったわけではありませんよ。むしろ、俄然やる気が出てきましたわ。

 

 捉え方によっては絶望的な言葉に聞こえるのだろうし、ここで諦める方もいらっしゃるのかもしれないけれど、元来、思考が前向きな私は、内心でほくそ笑んでいましたの。


 これはもう少しで落とせるわね


 と。



「あら、どうしたの?皆さん」


 聴衆席の空気がむず痒そうになっている事に気付いたレクミラは、目をぱちくりさせた。

 聞き手の殆どが、困ったような表情で顔を赤らめている。あんなに喜んで話を聞いていたライラでさえ、顔を真っ赤にして硬直していた。

 ヘラヘラとしているのは最年少のカカルだけである。


「みんな、『おっぱい』の下りからちょっとおかしくなってるんス」


 聴衆勢の様子がおかしくなっている理由が分らないレクミラに、御丁寧に状況説明をしてくれた。


 カエムワセトが咳払いを使って、カカルの発言を窘める。


「女性の美しさを褒めるのは大切よ。例えば、お嬢さんのお胸はそうね――ナイル川の浅瀬で涼しげに浮かぶ、熟れた小玉スイカのような――」


 レクミラはライラの胸を凝視しながら、詩的な言い回しで褒め称えようとする。


 ライラは思わず両腕で胸を隠し、ジェトは耳を塞いで「もうやめろー!」とうずくまった。


 仲間の神官は、各々物凄く悔しそうな顔で天井を仰ぎ見ている。

 

「あのアホ、なんて勿体ない事を」


「ちくしょー。あいつの死者の書に落書きしてやりゃよかった!」


 気高き神官も、所詮は人の子だと認識できる心からの叫びだった。


「すまんが、もうそれくらいに」


 フイを除けば聴衆勢の中では最年長となる三十歳超えのアーデスが、レクミラの『おっぱい話』に終止符を打たせる。


 フイは宙を見ながら、「あやつに女難の相などあったかの……」と生前のイエンウィアの顔を思い出していた。

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