第六章 私は弟の股間を蹴り上げてやった

第12話 捻くれ屋の弟

 父は他にも興奮気味に何やらまくし立てていましたが、それ以上の話は、私の耳には入ってきませんでした。

 だって、こんな時に嫁入り先が見つかってしまうなんて。もう少しでイエンウィアを落とせると思っていたのに。イエンウィアに想い人がいると発覚した時以上に衝撃しょうげきでした。


「早速嫁入り道具の準備だ! 忙しくなるぞ!」


 父が足早に去っていくと、私はその場にへなへなと座り込みました。

 正直、目の前が真っ暗でした。

 

 メリトが心配して私に駆け寄ってくれました。彼女は、私に好きな方が出来た事をちゃんと察してくれていたのね。


「おかわいそうに」


 そう言って私の肩を抱きながら、彼女は泣いてくれました。


 そうまで絶望するなら、私が父に意見すればいいのよね? 「私には心に決めた人がいるから」と、頑として拒絶すればいい。

 でもね。良家に嫁ぐのは、貴族の娘の宿命の様なものじゃない? 他に手を上げて下さるお相手がいたのならいざ知らず、恋人もいない娘が自分より格上のお家からの申し出を断る等、愚の骨頂。 


 それに父は、確かに野心家ではあったのだけれど、私の幸せも考えてくれていたのです。 

 

 実は私の母は、父より格上の家の娘だったのですが、格下の父と結婚した事で、実家から爪はじきに遭っていたのです。だからって、私が身分下の方と結婚したからって、父は私を冷遇などしないでしょうけれど……。母の悔しそうな様子を見ていただけにね。父は、良家に嫁ぐ事こそが女性の幸せだと信じていたみたい。

 

 父の弾んだ声が奥から聞こえ、メリトを呼びました。呼ばれたメリトは、「はい、ただいま」と返事をすると、私を気遣わしげに見てきました。


 私が「大丈夫よ」と皺が刻まれたメリトの手を摩ると、メリトは頷いてさっと涙を拭い、小走りで奥に行きました。


 私は動きが鈍っている思考を必死に回転させました。

 

 どうしたら父は良家との縁組を諦めて下さるかしら?


 どうしたら私の幸せは父の信じているものと違うのだと理解してくれるかしら?


 どうしたらお相手のお家は私を拒んでくれるかしら?


 どうしたイエンウィアは私を受け入れてくれるのかしら?


 どうしたら家の面目を潰さず、私も皆も幸せに―――

 

 今考えると、私は多くを望み過ぎていたのかもしれません。けれどその時の私にとっては、どれもがお互い密接に絡み合っているように思えて、同じくらいに大切だったのですよ。


 まとまらない考えをぐるぐる回していると、弟のセケムウィの、私を呼ぶ声が聞こえました。見ると、腕を組んだ弟が尊大に立っていました。

 

 あのクソガ――あの子ときたら顔だけは可愛いのですが、どこで育ち間違えたのか今じゃ面子ばかり気にする捻くれ屋さんなのです。私の身長を追い越したぐらいから、わざと反抗しているみたいに言う事を聞かなくなって。本当、姉として行く末が心配ですわ。


「諦めな」と、セケムウィが言いました。本当、あの子ときたらその頃は、声色まで冷たかったわ。仕事場で何か嫌な事でもあったのでしょうかね。


「僕知ってるよ。緑色の肩布をつけてる背の高い神官だろ?」


 私から視線を少し横にずらした弟は、ぶすっとした顔でイエンウィアの特徴を述べました。そして、「あの人は駄目だよ。父さんは許してくれない」と。


 まさか弟にまで勘づかれていたとは。大失敗でした。私の注意が足らなかったのね。


 弟は肩をすくめると、御近所の奥様が噂話をしている時みたいな調子でこう言いました。


「仕事はできるみたいだし役職も悪くないけど、出自が不明じゃね」


 一丁前に首を横にふりながら話す様子が、なんとも生意気でしたわ。

 しかも弟は言うに事欠いて、「それに、所詮は姉さんの片想いだろ? 相手にされてないらしいじゃないか」とまで。


 弟の発言には複数個、腹の立つ点がありましたが、私は第一に教育的指導をしなければと、弟を指さして叱りました。


「あなた、また召使を間者スパイ代わりに使ったわね!」


 私は弟に常日頃から口を酸っぱくして、私事で召使を気軽に使うな、と注意していたのですが、あのクソ馬鹿野郎――失礼。あの子は私の忠告をまったく聞こうとしなかったのです。


 自分の身分に胡坐をかいていると人としての品格を損なうわよ、と私は苦言を呈しました。

 弟はムッとした顔になると、「姉さんこそ」と私を睨んできました。


「家の格を落とすような真似だけはやめてよね」


 日頃から私の外面の良さを鼻で笑っていたセケムウィは、睨みつつも冷笑を浮かべるという、器用な真似をして私を煽ってきました。

 

 見事煽られた私は、早くも沸点を超えました。


「あなた――」


 唸るように言いながら立ち上がると、つかつかと弟に歩み寄り、私は頭一つ分高い位置にある弟の口に両親指を突っ込んで、千切れんばかりに横に引きのばしてやりました。


「よくもそんな口がきけたわね! この、鼻たれ小僧が!!」


 まあ少々、大人げない怒り方だったと思いますけれど。所詮は姉弟喧嘩ですから。


 セケムウィは私の両腕を掴むと、力いっぱい押し返してきました。私の親指はあっさりと弟の口からすっぽ抜けましたわ。


 悔しいけれど、私は既に腕力では弟に叶わなかったのです。それは日々の喧嘩で痛いほど痛感しておりました。


 ――え? この歳で手が出る姉弟喧嘩は珍しいですか? そんなこと……ないと思いますけれど。


 弟に握られた両手首がとても痛かったけれど、それを口にするのは負けを認めるのと同じだと思った私は、渾身の力を込めて弟を押し返しました。


「僕だってもうすぐ結婚するんだからな! 姉さんみたく子供扱いしてくる小姑がいたら困るんだよ!」


 ホント、オコチャマが何をこざかしい事を。


 セケムウィは興奮で頬を紅葉させながら、あろうことかこんな事まで言ったのです。


「神官なんかに尻尾振って、恥ずかしいったらありゃしないね!」


 この言葉で、私の堪忍袋の緒は完全に切れたのです。沸点を超えるどころか、瞬間蒸発ものの怒りが全身を駆け巡りました。


「神官のどこが悪いのよ! あの人はあんたなんかよりよっぽど人間が素晴らしいわ! もし私に尻尾があったら、あの人はもっと可愛がってくれるわよ!」


 私の発言が何かおかしかったのか、弟は「何言ってんの?」と少し冷静に戻りました。


 私はその隙に――いえ、本当は反則技だと分ってはいたのですけれど、あまりに激昂していたものですから……弟の股間を蹴り飛ばしてやったのです。

 おかげで、私の両手はまた自由になりました。


 それで、レスリングの遊びに付き合っていた子供の頃の要領で、痛みで悶絶している弟を地面に倒して馬乗りになってやったのです。

 流石に卑怯ではしたない行為だったと思うけれど。怒らせた弟も悪いので。


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