第3話 鏡の中の君へ 前編(加賀美朱里編)その2

 梓馬は夏休みに入ると、アルバイトを始めた。選んだのは倉庫の軽作業で、八月末までの短期契約だ。どこまでも同じ景色の作業場は冷凍庫で、マイナス温度を保っている。手にしたリストに目を落とし、アルファベットと数字が示す場所に向かい、商品をダンボール箱に詰めていく。

 それらを台車に乗せ、エレベーターで一階の集荷所まで運ぶ。小さく積み重ねた物をさらに積み重ねていく作業は、いままで目の届かなかった裏方の存在を意識させる。あの日に積み重ねた減点方式の論理が、本当にただの詭弁でしかなったと身に染みた。

 自分で稼いだ金は、惜しく感じるようになった。飲み物はペットボトルに水道水を詰めたもので済ませ、食事もコンビニではなくスーパーでおにぎりを買うようにする。

 こうして貯まる金に具体的な使い道があるかというと、実は思いついていない。やはりあのデパートに近づきたくはなく、かといってあの日に自分を救った加賀美朱里に渡そうにも、連絡先を知らないまま別れた。

 休憩の間、仕事終わり、風呂上り、そして就寝前。充実感から生まれる息を吐くとき、決まって加賀美朱里のことを考える。もう顔はぼんやりとしか思い出すことができないが、幅広の目に射抜かれた感触だけは覚えている。

 再会はあっさりと果たされた。加賀美朱里が二学期の始め、明条高校に転入してきたからだ。整った容姿で注目を浴びた朱里は、同クラスに市原梓馬の姿を見かけると、両手を叩いて喜んだ。直後、背後から伸びてきた嫉妬の手に肩を掴まれ、梓馬はこれまで演じていたクールキャラとは程遠い声を上げた。

 普段話さないクラスメイトからも、知り合いなのかと訊かれた。梓馬はそれが実に気持ちよく、朱里という名のブランドを着ているようだった。人間はそう簡単には成長しない。

 朱里は良くも悪くも、ずいぶんと目立った。大人びた容姿と丁寧な物腰から、すぐに上位グループに入ることになり、ついでとばかりに梓馬のカーストもわずかに上昇した。しかしそのぶんやっかみも多く、朱里は不良だというレッテルはすぐに張られた。

 有名私立から平凡な私立に転入してきたことから、なにか問題でも起こしてきたのだろうと。その邪推はいつの間にか荒唐無稽なものとなり、乱交や飲酒喫煙というワードと結びつくのにそう時間はかからず、最終的には殺人を犯したという突飛なものになっていた。

 その発端は朱里の転校前の有名私立が、四年前に不祥事を立て続けに起こしたことからきている。女生徒の飛び降り自殺を、学校側が事故として処理しようとしたことが取り上げられた。全国に知られる名門だったことで、ワイドショーが連日にわたって騒ぎ立てた。

 世間の注目がその私立高校に集まっている最中、リンチで膣に電球を入れられたと訴える女生徒が現れ、事態は収拾がつかなくなっていく。だが三か月後に芸能人の薬物所持及び使用が報じられると、そちらに話題がすべて奪われた。よくある話だった。

 梓馬からすれば四年前の自殺と、いま高校生の朱里にどんな繋がりがあるのかといったところだった。だが噂話に明確な根拠はいらない。朱里の容姿が大人びているために、実はもう二十歳を過ぎているんだと噂する者までいた。

 そういった話を聞くたびに、自分が守らなければ、という思春期めいた使命感が梓馬の中に育っていく。こういった勇者や騎士のような勘違いは、思春期にありがちな話だ。

 大抵は痛い目に合い、大人の男としての分別を学んでいくことになる。しかし梓馬はかわいそうなことに、成長のチャンスを失ったまま朱里と付き合うことになった。

告白までには数か月かかった。積極的な朱里の様子から、告白すれば上手くいくと自分でも思っていたが、それを信用することは難しかった。

 原因は二つ。一つめは、親の愛情を受けなかった物特有の無価値感。二つめは、朱里が自分を、勉強や興味の対象として見ているという説を否定する材料がなかったことだ。

 そうした梓馬が告白に踏み切れたのは、川沿いを二人で歩いていた放課後のことだ。朱里が子供たちに注意しにいくから、ついてきてほしいと頼んできた。

 なにを注意するのかと訊ねると、子供たちが神社の敷地内でサッカーをしていると返ってきた。その神社の入口には、球技禁止と書いてあるとらしい。

 梓馬は梓馬で、朱里と行動をともにできるならなんでもよかった。子供たちに拳骨を食らわせててっとり早く解決し、そのあとはどこかに遊びに行こうと考えていた。だがいざ子供たちに話しかけると、顎をからかわれて、声を荒げることになった。

 その様子を見て朱里も子供たちと一緒になって笑い、そのあとで人の欠点を笑ってはいけませんと注意し、俺の顎は欠点なのかと嘆く梓馬を慰め、その傍らで子供たちにも根気よく説教を続け、三位一体の話でまとめた。

 そして子供たちは、門限だと言って帰宅してしまう。改心した様子はなかった。

「言葉が正しければ伝わるとは思っていませんが……、ここまで手応えがないと、子供たちが別の生き物に思えてきますね」

 朱里は肩を落とし、続けて頭を落としていた。なぜそこまで落ち込めるのか、梓馬にはわからなかった。

「殴れば簡単に言うこと聞く」

「そんな、子供を殴るなんて。彼らは言葉が使えるんですよ」

 これに梓馬は、上手く言い返す方法を思いつかなかった。自分こそ言葉の力を信じている。話が通じるならば、どうとでもなるという自負を、多少なりとも持っていたからだ。

「子供のうちは仕方ないんじゃないか。躾って言葉だって、要するに暴力ってことだろ」

「いえ、今回はきっと私の話し方が悪かったんでしょう。子供たちのルールに則って話していれば、わかってくれたはずです」

 朱里の言う通り、子供たちの世界観で損得の話をすれば理解を得ることができる。しかし経験の少なさと体感時間の長さから、子供たちには先を見据えた思考をすることが難しい。

 うわべで話していた梓馬は、自分の持論を揺らがせることがなかった。子供たちに言うことを聞かせるには、やはり暴力という損の力が有効だと。それができないならば、ご褒美という得の力を使うしかない。そしてこれらの方法では、どちらも物事の本質を学ぶことはできないとも。

「まあ、あのガキどもは放っておいても大丈夫だ。見ていて変な感じはしなかった」

「というと?」

「まともな家の子供だろう。毒親の子供はなんとなくわかる。あいつらは子供を子供らしくしないんだ」

 梓馬の語尾に少しの熱がこもり、肩が上がっていく。隣の朱里の眉が下がっていることに気付かないまま、自分の母親への呪詛を漏らし始めた。

「あなたはきっと良い父親になるんでしょうね」

「どうだろうな。虐待された子供は、大人になれば自分の子供を虐待するそうだ。案外、俺もそうなるかもしれない」

「なりませんよ、あなたは優しいですから。現に、あなたを馬扱いして跨ろうとした子供を許したじゃないですか。そんな人がどうして自分の子供を愛さないというんです」

 朱里は言いながら、遠くを見るように笑う。

 その笑顔を見て梓馬は、朱里が自分の子供を産んでくれたならと想像した。

「俺は子供を常に優先する父親になりたい。見て見ぬ振りをするような、うちのみたいになりたくないって気持ちもある。あるが、親の都合で生まれてくる子供に対して、きちんと責任を取りたいってほうが本音だ。俺は子供が生まれたら全力でそうする」

「子供への責任、私もそれを肝に銘じましょう」

 朱里は大きく頷くと、胸に手を当てて目を閉じた。その下に乳首があることを想像した梓馬は、いまがチャンスと透視を試みる。ピンクがかったなにかが見えた気がした。

 もっと、もっとだ――

 梓馬がいま現実の目を閉じて、心の目を開こうとしたときだった。

「鼻の下が伸びていませんか、伸ばすのは顎だけにしてください」

 朱里が片方の目だけを開けて、悪戯に言った。

「違う。肝に銘じるのになんで肝臓じゃなく、心臓に手を当てるんだろうと思っただけだ」

「あなたの手が、私の胸に伸びてくる気配があったからです」

「俺は紳士だ。そんなことはしない」

 梓馬は胸を張ってふんぞり返った。

 それに朱里は、一瞬ぎょっとした顔をする。目線は下を向いていた。

「嘘を吐くと鼻が伸びる人形は知っていましたが、嘘を吐くと股間が伸びるタイプもいたんですね……」

「えっ」

 慌てて腰を引く梓馬の姿勢は、謝罪しているように見えた。

 朱里は気分良く鼻で笑う。

「あのベンチに行きましょうか」

 現在二人がいる神社は、明城高校最寄りの駅から徒歩十分ほど。そこからさらに五分ほど歩けば信号のある十字路が見え、足元には川が流れている。これは梓馬の地元まで続くほど長く、川に沿って作った遊歩道がある。

 あのベンチと呼ばれるもの、それはそこにあった。朱里が祖母とよく座ったもので、いまでも大事な場所だ。

 その並びには無造作に小ぶりな木が植えられており、かと思えば手入れされた名前の知らない花も並んでいる。歩道の外側には雑草が生い茂ったアパートがあり、人が住んでいる気配はない。その隣の大きな和洋折衷の屋敷もまた、閉まった雨戸が無人状態を表現している。塀には蔦が降りており、その上に伸びた雑草や、毛量の多い木々の頭が見えている。だが門や塀の前にある花壇だけは、誰かが面倒を見ている様子があった。

 紳士ぶれば女心が掴めると思っている梓馬は、ベンチにハンカチーフを引く。サイが刺繍されたブランドロゴが目立つ一品だった。

「座ってくれ」

「自然体でいいですよ」

 朱里は座らなかった。サイが恨めしそうに朱里の薄い尻を眺めている。

「これが俺の自然だ。紳士って言っただろ」

 もちろんそんなわけはない。そもそも梓馬は朱里と出会う以前まで、ハンカチを持つ習慣がなかった。

「紳士は泥棒なんてしませんが」

「怪盗を知らないのか、あいつらは紳士で泥棒だ」

 そう言って梓馬は何名かの有名な怪盗の名を挙げた。

「そんな空想の人物の名前を挙げられても……」

「空想じゃない奴もいる。両国に墓がある。そこに行けば証明できる。今度の日曜日に行ってみないか」

 梓馬は、自分ではさりげないつもりでデートに誘ってみた。心臓が、さすがにその誘い方はないと抗議を打ち始める。

 どくどくと緊張が響くなか、梓馬は朱里の回答を待った。

「ほっかむりした紳士なんて面白そうですね。でも証明の必要はありません」

 朱里はそう言ってにやりと笑った。悪戯をする子供のような表情。梓馬はそれにどきりとして、次に朱里がなにを言うかわかったと思ってしまった。

 だってあなたは私の心を盗みました、と言うに違いない――

 どういうルートで思考すればそうなるかはともかく、梓馬は朱里がそう言うだろうと確信してしまった。先ほどの怪盗に思考が引っ張られているからだ。

「待て、俺が先に言う」

「え?」

 朱里はせっかくの休みに泥棒の墓参りよりも、お互いの共通の趣味である服を見に行こうと提案するつもりだった。

「俺もお前が好きだ」

 梓馬は顔を赤らめながらも、これ以上ないくらいの真剣な顔で言った。

 朱里の口の形は「も?」になっていたが、発声はすんでのところで止められた。

「あ、ありがと」

「お、おう」

 梓馬はありがとうの意味が複雑なことを、生まれて初めて味わった。嬉しいとも取れるし、ごめんなさいの緩衝材とも取れるからだ。

 表情や目線から朱里の心を読みたいが、やはりどうとでも取れる。梓馬の他人を見抜く手法は、自分の取扱説明書を他人にも当てはめているだけだ。女心のページはまだない。

「こんなことがあるなんて、私は考えもしなかった……」

 朱里は口角を上げているが、なぜか笑っているようには見えない。

「俺もだ。まさか、また会うことになるなんて思っていなかった」

 朱里は梓馬の勘違いを指摘しないまま、自分の心が解けていくのを感じていた。

「私はあなたが好きよ。初めて会った日、私を被害者だと言ったあの日から、何度もあなたのことを考えた」

 この好意の開示に、梓馬は心の底から喜べなかった。朱里が、私もではなく、私はあなたが好きよと言ったからだ。

 そして暗い結末を直感する。その原因は、単純な日本語の使い方の問題ではない。朱里のなかに、大きな躊躇いがあるように見えた。

 梓馬はそれでも突き進むことにした。へらへら笑って、告白をなかったことにできる地点はとうに過ぎている。

「俺と付き合ってくれ」

「……」

 朱里は答えなかった。

 お互いに好きだというなら、付き合えばいいだけの話。ではなぜ朱里は沈黙しているのか。そのヒントを得ようとする。

 一瞬の風が吹いた。ベンチに引いていたハンカチが、空を飛ぶ。その強い風は、朱里の髪をなびかせて、表情を完全に隠してしまった。

 見えない顔に、心を探す。髪の表面の艶に、これまでの思い出が反射していく。答えは思い出のなかに用意されている。しかしそれを見つけられるかは、自分次第だ。

 俺のこと、どう思ってるんだ――

 梓馬は自然と、朱里の顔に手を伸ばした。かきわけたそばから、鋭利な美貌が露わになっていく。そのときに聴こえてきたのは、自分の声だった。

 助けたい――

 なぜそう思ったんだろう。梓馬はそこに思考を巡らせた。

 心の中の鏡に、自分の答えをかざしてみる。そうすると至極単純な答えが、映し出されていく。あの日からずっとそれは、掲示されていた。梓馬のなかにある偏見が、光を屈折させていて気付くことができなかっただけだ。

「お前を助ける」

「え、いきなりなに?」

 朱里は呆れ半分を、顔に浮かべている。

 その残りの半分にある本音を、梓馬は口にした。

「助けてって聴こえたんだ」

「言ってませんが」

「でも思っただろ。さっきだけじゃない。ずっと聴こえてたはずだったんだ。お前が俺を助けた日からずっと」

 具体的な根拠はなに一つなかった。しかし朱里は後ずさりする。

「あなたらしくない。なんでそんな馬鹿みたいなことを自信満々に……」

 朱里はそう言うと、涙をこぼし始めた。本人でさえも、助けを求めているという自覚はなかった。もう諦めていたからだ。口でいくら馬鹿だと言ったところで、心がそれは嘘だと証明している。

「目的さえ達成できれば、自分らしさなんかどうでもいい。確かに普段の俺だったら、空想の声なんて根拠にできない。でも目の前でお前が泣いているっていうんだったら、俺らしさなんか二の次だ。俺は、お前を優先順位一位に指定する」

「本当、に?」

 啖呵に対して小首を傾げた朱里は、幼さを感じさせる。周囲の助けがなくては生きられない子供のようだった。

「ああ、だからお前を助ける。今日まで誰も、お前を被害者だと言わなかったなら、声が聴こえなかったなら、俺にしかできないことだ」

 思いを言葉にすることで、心が影響を受けた。どんなことがあっても朱里を守ろうという気持ちが、決意となって背骨に同化していく。梓馬は自然と胸を張っていた。嘘ではないことは股間の高鳴りが証明している。

 言葉は振動で、やはり朱里にも伝わっていた。この男は本当にやるんだろう、私さえも助けてしまうんだろうと。

「不思議ですね。あなたらしくない言葉が、あなた以外の誰にも言われなかった言葉だったなんて」

 朱里はそう言うと、梓馬のパーソナルスペースに一歩踏み込んだ。

重なるお互いの領域が、人間の最小単位を一人からふたりにしていく。互いを抱き合う手が、どちらの手かわからないほどに。

「お前は俺を助けたから、お前も俺に助けられないといけない。これはもう、あの日に決まっていたことだ」

「賽は投げられていたんですね」

「いや、流されたらしい」

 梓馬はそう言って、風に飛ばされたハンカチを目で追った。川を流れていくサイのロゴが、ふたりを恨めしそうに見ていた。

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