考えるカニの七十年
沢田隆
第1回
いまは家にミニチュアダックスフントのアリシアがいて、うるさいくらいに元気なのだけど、先日、両親と一緒に姉夫婦の家に遊びに行った日だけは、帰宅してから居間のソファーの上でグッタリしていた。
どうやら幼い甥っ子を連れて、姉夫婦の自宅近くの川沿いを散歩したらしいのだけど、両親はもとより、アリシアも甥っ子が走り回る、走り続けるその体力に驚かされたらしい。
だから散歩を終えて姉夫婦の家に戻ったとき、甥っ子以外の誰もがヘトヘトになっていたのはアリシアも同じで、向こうの家で飼っている猫のムギちゃんと初対面だったはずなのに、アリシアはまるで興味を示さずに横になっていたという。
その事実にちょっと驚いたのは、アリシアは誰でも好きだ、なんて言ってしまうと「節操がない」みたいに聞こえてしまうかもしれないけど、でも人でも犬でも猫でも関係なく、誰にでも近付いていってしつこいくらいにまとわりつく。
いつだったか、そういうしつこさを見せたことで、自宅近所の飼い猫に引っかかれて耳の尖端から出血をしたことがあったのだけど、アリシア自身は別に気にしていない様子で、いろんな意味で大丈夫かと心配になった。
でもその日、アリシアは自らムギちゃんに近付こうとしないで、むしろムギちゃんのほうからアリシアに近付いて鼻先をツンとつけると、アリシアは一歩引いたらしい。
散歩で疲れていたのもあったのだろうけど、常に積極的なアリシアが引くという、すごく珍しい展開だった。
ちなみに、ムギちゃんは足の短い三毛猫であり、私はムギちゃんの話題が上がると決まって、
「ムギちゃん可愛い、可愛いムギちゃん」
と連呼してしまう。
よくよく考えるまでもなく、にゃんこに関しては一度も家で飼い育てたことがないから、いちいち感じる可愛さはある種の物珍しさみたいな感覚なのかもしれない。
数年前に一回だけムギちゃんが家に来たことがあった。でも慣れない場所だったから、まさに言葉どおり「借りてきた猫のよう」だった。
って、ムギちゃんは正真正銘のにゃんこなのだから「猫のよう」ではないのだが、そのときは隠れる場所を探し回った挙句、私の部屋にずっといて、窓から外を眺めていたそれが可愛かった。
犬と猫は違う。
そりゃ「いぬ」と「ねこ」で発する音が違うし、文字の形も違う。そんなのは誰でもわかる。
そうなのだけど、ムギちゃんはムギちゃんで、さらに違う。
犬(アリシア)は「ワン! ワン!」と、尻にいちいち「!」
exclamation mark(感嘆符)がつくような鋭い鳴きかた(吠えかた)をする。
猫は「ニャー」とか「にゃ~ん」とか鳴く。
でも、ムギちゃんはその「ニャー」とか「にゃ~ん」がすごく薄い。
「えっ、鳴いたの?」というくらいのウィスパーボイスなのも魅力的。
もう九歳だという事実を聞いてちょっと驚いたのだが、その鳴きかたは相変わらずみたいだし、あのとき私の部屋で二人っきりになったときムギちゃんは何歳だったのだろう。
若いころのムギちゃんと二人っきりになれた時間があったなんて、結構ラッキーだったのかもしれない。鼻ツンしてもらえたし。
という感じで、私はムギちゃんのことをそれなりに喋って(語って)しまえる、ファン的な立場の人間なのである。
(立ち位置が遠いなぁ…)
その先日とは別の先日、母がふと、
「ポーくんが生きていたら、アリシアはどういう接しかたをしただろう」
というようなことを言った。
それはアリシアの積極性を考えての発言だったはずで、しかし現実を言ってしまえば、垂れ耳ウサギのポーくんは、アリシアがこの世に誕生するより前(約2年前)にはもう亡くなっていた。
だからポーくんとアリシアは、どう足掻いても会えない仕組みだった。
なぜ母がそんなことを言い出したのかは、単にアリシアは私たち家族(人間)が仕事に出ている間、家に独りだと寂しいのではないか、みたいな考えがあったからだと思う。
でもペットショップにいたころ、アリシアは同じ年齢くらいのビーグルと一緒に過ごしていたというのは、両親から聞いて知っていた。
だとすれば、むしろまだ子犬だったそのビーグルから、友達だったアリシアを取り上げたのは私の両親だという視点に立つと、「アリシアは独りだ」という言葉から得る印象以上の深くて重い寂しさを、いつも一緒に遊んでいた友達がふといなくなったその日のビーグルの側に実感して、泣きそうになるくらいに胸が苦しくなる。
だから私はその話題になるたびに、いまだに、
「両方(ビーグルも)連れてくるべきだった」
と言い続けている。
その当時はルークとシェルが亡くなってそこまで時間が経ってなかったから、複数を育てるのが結構大変だったという実感のほうが強かったのだろうし、いまはアリシアだけを育てるのに慣れてきたのもあって、少し余裕が出てきたからこその、
「独りは寂しいのではないか」
という発言だったのだとすれば、その感覚がいいとか悪いとかではなく、人間の都合のよさみたいな部分にやっぱり私は何も言えなくなる。
とはいえ、私は犬や猫よりもウサギさんが好きだ。
Twitterなんかで誰かが愛情をもって育てている、一緒に暮らしているウサギさんの姿を見るとものすごく羨ましくなる。
しかしその羨ましさは、こよなく愛するポーくんがもう目の前にはいないことへの寂しさではない。
いや、もうその時期は過ぎたというのが正しいのは、乗り越えたというよりもある種の気付きによって前向きさが生まれたということなのだが、それでも、
「じゃあ新たなウサギさんを迎え入れよう」
という気持ちにはならない。
そういう気持ちになっても実際に飼うことを考えたとき逡巡してしまうのは、ものすごく単純に命の終わりを見るのがつらいからだ。
ポーくんのことも、ムギちゃんのことも、私は彼、彼女への愛情や魅力を山ほど語ってしまえる。
でも語っているときは、先のことなんてなにも見ていない。
どことなく幻想の中に在る感じがしている。
もちろん、始まる前から終わることを考えるなんてバカバカしいという意見が真っ当なのだろうけど、でも「迎える」という現実と向き合うとき、どうしても「命」と「時間」が腕組みをして目の前に立ちはだかる。
いや、そうやって邪魔をしてくれたほうがありがたいと思ってしまう部分もある。
そういう「命」や「時間」だけではなく、きっと私は新たなウサギさんと暮らし始めてしまったら、もうその子に夢中になって、生活がそれだけになってしまう可能性があるから。
「可能性」って言葉はそう出来得るという前向きな言葉だから、きっと私はそうしたいのだと思うけど、まあ…、うん。
そうでしょう?(なにがだよ…)
とはいえ、やっぱり私は愛情を向けた相手の命の終わりにはどうしたってもう耐えられそうにない、というのが一番強い感情だと思う。
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