第24話 あらそいは始まって⑧

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 平和かと思われた空気がガラリと変化したのはそれから程なくしてだ。

 川の音らしきものが聞こえるが、まだ谷はちらりとも見えない。

 けれどぴりぴりと肌を刺すような殺気立った気配がそこかしこに満ちていた。

 進むうちに木々が体を寄せ合って行く手を阻み、茂った下草に紛れて大量の山蛇が這い回るのが見える。

 ちなみに子供の腕くらいの太さと長さで毒もない……どちらかというと温厚な蛇だ。当然魔物ではない。

 ただ、こんなに群れて移動することはまずない――それは確かだ。

 そこでフォルクスが足下を這っていく一匹を避けて眉を寄せた。

「……なンだこりゃ、蛇だらけだぜ」

「移動しているんだ。進行方向からするに俺たちの前方にでかい魔物でもいるのか、もしくは群れがいて、それから逃げているってこと」

「群れって……魔物が繁殖しちまってンのか?」

「それだけじゃないな。人族ってことも有り得る」

 俺が言うとフォルクスは鳶色の瞳を瞠った。

「なンだって?」

「……いまが『無事に逃げられる』最後の選択時かもしれないぞフォルクス。もう一度聞く。人族と戦えるか?」

「は、あんただって同じだろ勇者サマ。勇者が人族相手に剣を取るなンて――」

 ――ああ、そうか。フォルクスは知らないんだな……。

 俺はそこで、はっきりと首を振った。

「魔王と戦うのに俺が屠ったのは魔物だけじゃない。――人族だって何度も相手にしたさ」

「……え」

「俺が魔王を相手にした頃は賊もずっと多かった。それだけじゃないぞ。魔物に頼って負の力に犯された『ヒト』は理性を失うらしいんだ。……理性は残っていても魔王側につく人族だっていた。フォルクスはそんな人族を知っているだろ?」

「――! 〈ヴォルツターク帝国〉の皇帝……?」

「まあそれは俺も聞きかじりで確信しているわけじゃないけどな。とにかく、そういう人族はほかにもいたってこと。勇者なんてそんなものなんだ。……だからもう一度問う、お前は戦えるか?」

 フォルクスは俺の言葉に何度も唇を開きかけては閉じ……やがて意を決したように頷いた。

「大丈夫――。そうだよな、物語の大半は綺麗な部分を切り取って誇張したもンだ。それでも俺はあんたの物語を……そこに描かれるあんたを信じる」

「……お、おう……物語の俺ってどんなかな……実は読んだことないんだ」

 わざわざ自分が書かれた物語を読むっていうのは……こう、ムズムズするだろ。

 俺が苦笑してみせると、フォルクスは飄々と笑った。

「キラッキラしたお人好しってなもンかね?」

「うわぁ……なんだかおぞましい解釈だな……。とにかくフォルクス、お前の返答は受け取った。まずは前方にいるのが『なに』か確かめよう」


 俺はそう言って一歩踏み出した――が。


 瞬間、世界がぐにゃりと歪んで引っくり返ったような……気持ちの悪い感覚が体を奔る。

 咄嗟に剣を抜いて警戒態勢を取り、すぐ隣にいるはずの彼に声を掛けようとして……驚愕した。

「――フォルクス⁉」


 ……いない。


 どこにも彼の姿はなく、それどころか蛇の尾ひとつ見えやしない。

 茂る木々はいやに静かで……満ちていた殺気も消えている。

 川が流れる音は聞こえているが、むしろ静寂な静謐のような――神秘的な空気さえ感じて俺は唇を引き結んだ。


 知っていたからだ、この空気感を。


「――結界の中、か」

 勇者一行で旅するあいだ、こんなふうに閉ざされた空間は何度も経験した。

 大半はエルフによって施された結界で、〈エルフ郷〉がある〈エルディナ大森林〉なんて最たるものだ。

 ただ、あの結界はどっちかというと知らぬうちに同じ場所を巡らされているようなものだったから……これは龍族の結界だろうか……?

 目まぐるしく考えながら、俺は剣を収めて進むことを選んだ。

 止まっていても埒が明かない。

 龍族であれば望むところだしな。

 ――フォルクスは大丈夫かな……逃げてくれているといいけど。


 そうしてしばらく進むと……川の音が大きくなった。


 視界が開け、覗き込んだ先に深い谷が続いている。

 その下には流れの速い川が横たわり、突き出た岩にぶつかって白い飛沫を撒き散らしながら透き通った水が流れていく。

「…………」

 こんなところから突き落とされたなんて。

 胸の奥が疼く。

 メルトリアはそのとき安堵さえ感じたと言っていたけれど――そんなの赦せるはずがない。

 抵抗できない彼女を何度も何度も傷付けたあとで……さらに惨い仕打ちを行うなんてさすがに非道すぎるだろ……。

 考えるほど、胸の奥がじくじくと膿むような疼きが強くなる。

 俺は頭を振ってあたりを見回した。

 暗くなって沈んでいる場合じゃない。

 とりあえず谷底に降りられる場所を探そう。

 フォルクスの言うとおり水も補給しておかないとならないからな。

 ……すると、少し先に足場になりそうなところを見つけた。

 人族ひとりなら降りられそうな細道……といったところか。

 俺は吹き抜けていく風に持っていかれないよう、崖側に身を寄せて慎重にそこを下る。

 右腕を伸ばし、指先を岩の突起にかける。

 そうしたら右足を踏み出して体を寄せる――その繰り返しだ。

 途中、跳ねた石ころが谷底へと落ちていくのを――なんともいえない気持ちで見送った。


 ……こんな道も、皆と下るのは楽しかったな。


 ふとそう思う。

 勇者一行で旅をしたのは三年半くらいだろうか。

 思えばあっという間だし、そう、楽しかったんだ。

 つらいことも悔しいこともあったし、怪我だってしたし。

 だけど皆がいたから乗り越えられた――。

 ひとりきりになったいま、皆の温かさが胸に痛いくらいに感じられる。

 情けない話だけど、寂しくてたまらない気持ちが込み上げてきて泣きそうになった。


『平和になったらどうする? アルト』


 絶望的な状況下で、勇者一行の星詠みスカーレットが長い紅髪を左手で掻き上げながらそう聞いてきたことがある。

 俺は……なんて答えたんだったかな……。

 胸の奥底、記憶の欠片をたぐり寄せれば――言葉はすぐに見つかった。

 そう、たしか――。

「……皆が笑うのを見たい。それで……俺ももっと笑いたい」

 そっと呟くと……苦い気持ちになった。

『じゃあ、あたしも一緒に笑ってあげる』

 底抜けに明るいスカーレットは俺にそう言ってくれたけれど――結局俺は遺され、メルトリアもいなくなって……ひとりだ。

 胸の奥が疼く。うずく。うずく。


 ――刹那。

 

 谷底から頬を叩くような強烈な風が吹き上げ、俺は咄嗟に右腕で顔を庇った。

「……ッ」

 薄目を開けて目を凝らせば……谷底から上空へと巨大な影が過る。

 くそ、結界の中なのに魔物か――いや、むしろあいつの結界なのか⁉

 巻き上げられた髪が頬を打つ。

 剣を振るには狭い。戻るか――進むか――!

 考えたとき、目の前に舞い降りて高度を保ち『それ』は巨大な翼をばさりと羽ばたいた。


『――ふむ。エルフの印を感じたが――まさか千葬勇者とは』

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