第27話

「あのさ、雫さん、日中とか少し出掛けられないかな?」

僚介さんたちが帰った後、私がキッチンで食器を洗っている時にそう声を掛けられた。

水を止めて横を見ると、千紘くんが少し照れくさそうにして立っている。

「……お出かけですか?千紘くんと?」

「うん、前も言ったけどあと二週間ばかりで俺も社会人になるし、最初は研修とか色々あって【月夜の森】にもなかなか顔を出せなくなるからさ、その前に雫さんと出掛けたいなぁって―――」

「それは、デートしたいってことですよね?」

「「わあっ!」」

千紘くんの後方から、宮原さんが顔だけにょっとと飛び出してそう言った。

「何だ、いつの間にお二人はそういう関係になっていたんですか?早く言ってくれれば、私は遠慮していましたのに」

「そういう関係?というと、どういうことですか?」

宮原さんの言葉の真意が分からず、私は思わず聞き返した。宮原さんと千紘くんは互いに顔を見合わせながらしばらく黙っていたが、そのまま互いの肩をばんばんと叩きながら笑いあっていた。その反応の意味がよく分からなかった。

「雫さん、雫さんは日中は体を休めている時間ですし、なかなか外に出られない不安もあると思います。でも、梶くんは誠実な男性ですし、もし街中で体調が悪くなっても察してくれると思います。日が高い時間帯の街中の様子を見る意味でも、体験してみる良い機会かもしれませんよ」

宮原さんの言葉に、千紘くんはうんっと大きく頷いた。

「夜の世界も素敵だけど、太陽の下の世界も、俺は雫さんと歩きたい。今まで体感してこなかった分、この近辺も色々と変わってきているし、俺が案内するよ」

二人の強い後押しもあり、私はこくりと頷いた。千紘くんは外からもわかるくらいに目をきらきらさせている。

「あ、でも、母にいちを訊いてみてもいいですか?日中から夕方くらいまでは大体家にいるので、急に外出すると母にも心配を掛けてしまうので……」

「もちろん、あ、でも、俺自身があいさつを兼ねて雫さんの家に行ってもいいかな?素性がはっきりしないと、雫さんのお母さんも不安になると思うから」

千紘くんを母に紹介する―――そのことを考えただけで、急に心臓が早鐘を打ち始めた。幼少時から友人らしい友人を家族に紹介したことのない私が、はじめて紹介する人がお店の常連のお客様で年齢のあまり変わらない男性という点で、母は驚きのあまり失神したりしないだろうか。

「わ、分かりました。第一関門突破のために、極力頑張ります」

私がぐっと拳を握り力説すると、千紘くんは不可解そうに首をかしげた。


朝の五時、宮原さんも出勤し、私は閉店準備をしていた。

千紘くんはあの後、バイトの疲れが出たようで予備の布団でぎりぎりまで眠っていた。最近、この予備の布団はお客さん用に大活躍している。開店時間には布団を干すことが出来ないし、普段宮原さんはお仕事で忙しいので、布団乾燥機を持ち込んでいいようなら今度使わせてもらおうと思う。

ブックカフェなのに、布団乾燥機を必要とするカフェというのも面白いなぁと思いつつ、私はいつの間にか口元に笑みが浮かんでいたようだった。

「どうしたの、雫さん?何か凄く楽しそう」

「……え!?顔に出ていました?すみません」

私は両頬を押さえながら上ずった声を上げた。最近、やたらと顔や気持ちが緩みっぱなしな気がする。接客業に携わる一人として、しっかりとしなければと両頬に活を入れる。

「ちょ、ちょちょどうしたの?そんな、顔をばちばち叩くもんじゃないって。ほら、少し頬が赤くなってるじゃん。そんな、自分を傷つけるもんじゃないよ。せっかく可愛い顔してるんだし、勿体ない―――」

そこまで言って、千紘くんははたっと口を閉ざした。私が何も言わないで見つめていると、手のひらで顔を覆いながら長く息を吐いた。

「あー駄目だ。俺も人のこと言えないや。最近、やたら制御がきかなくなってる気がする……」

「そうなんですか?」

「そうなんですよ。これも、雫さんの所為だから」

「え?すみません!」

「謝らないでよ。じゃあ、雫さんの家まで行こうか」

千紘くんが手を差し伸べたので、私は一瞬ためらいながらもその手を取った。千紘くんはとても嬉しそうに目を細めている。


早朝、こうして千紘くんと手を繋いで歩くのももう二回目だ。最初は恥ずかしさといたためなさと、若干の恐怖で足元が覚束なかったのを覚えている。だけど、二回目になると千紘くんの大きな手にすっぽり包まれている心地よさと安心感で足取りも軽い。そして、あまり眩暈や頭痛もなかった。【月夜の森】で働くこの生活リズムに体が段々と慣れてきているのかもしれない。

「雫さんの家は通りを抜けて二つ目の角だっけ?」

「そうです。坂の途中に家があるので、ちょっと大変かもしれないんですが」

「大学時代はあまりスポーツしてなかったからなぁ。バイトと大学の往復ばっかりだったし。でも、時間がある時に自転車で遠出とかしていたから、脚力はある方だと思う」

「凄いですね。私は自転車に乗れないので羨ましいです」

「え、そうなの?」

「私は妹と比べると動きが鈍重で、怪我をしたら大変だからと、父が許してくれませんでした。だから、妹が颯爽と自転車で坂を下っているのを見ると、とても羨ましかったんです」

「俺、就職してお金を貯めたらバイクの免許を取ろうと思っているんだ。それは、妹の病院の送迎をいつもおばさんにお願いしているから、俺が時間が出来た時に送迎しようと思ってたんだけど……雫さんも後ろに乗っけてどこか連れて行ってあげるよ。そうだな、海とか」

「海!いいですね、見たことがないんです」

「うん、じゃあ行こう。絶対に」

「ええ、絶対に」

通りを歩いていると、ベーカリー・カブラギというパン屋さんの電気がついていた。ガラス張りの店内を覗くと、レジに一人の女性がいるだけで、お客さんはいなかった。

「雫さん、ここのパン美味しいんだ。大学の講義が早い時によくここのサンドイッチとか買っていくんだけど、たまごサンドとかもうふわっふわで食べたら他のたまごサンドが食べられなくなるくらいなんだよ」

「そうなんですか?知らなかった」

仕事終わりに通る時は開店していることに気づけなかったので、勿体ないことをしたと思った。千紘くんに促されるように店内に入った。

「いらっしゃいませ」

レジの女性が笑顔でそう言った。千紘くんはトレーを掴むと、早速たくさんのパンを眺め始めた。レジの奥には男性が一人せっせとパンの生地をこねているようだった。パンの焼かれる香ばしい匂いが漂ってくる。

ふと、レジの女性の胸元の奇怪な模様が目に入った。ベーカリー・カブラギの文字の下には両手が差し出され、その手の間には光の玉のようなものが発光している模様のバッチが付けられている。見たことのないはずなのに、その模様に何故だか無性に興味を引き付けられた。

「……お忘れですか? 御巫様。この聖なる刻印を、貴方を守り慈しむ、偉大なる模様を」

びくっと体を震わせ視線を上げると、そこにはにっこりと笑みを浮かべたままの女性が立っている。まるでその笑顔を顔に貼り付けられたような不可解さが残っていた。

「貴方は、長きに渡りご不浄に触れられています。早く首座様の元に戻り、聖なる気に当てなければなりません。あのような、不浄を漂わせた異性と触れてはなりません」

「あ、あなたは―――」

「雫さん?」

千紘くんの言葉に私は大きく体を震わせて、そのまま足をもつれさせて大きく尻もちをついてしまった。

「雫さん、大丈夫!?」

「お客様、大丈夫ですか?」

先程の貼り付けたような表情ではなく、レジの女性は心配そうに覗き込んでいる。

歯がガチガチと震え、指先まで血が通いきれていないようで冷えきっていた。私の様子を不可解に思ったのか、千紘くんはしゃがみこんで視線を合わせた。額に手のひらを当てて、自分の額と体温が同じか確認している。

「熱はなさそうだけど……早く家に帰ろう。出掛ける挨拶は、まだ別の日にするよ。雫さんの体を休ませるのが先決だし」

千紘くんは手を差し出してくれたが、私はその手を掴まずに自分の力で立ち上がった。レジの女性の視線が怖いからだ。

ゆっくりとレジの方を見ると、女性は何事もなかったかのようににっこりと微笑んでいる。いつの間にか胸元のバッチもなくなっている。私の気のせいだったのだろうか。

「雫さん、たまごサンド、お母さんの分も買うから一緒に食べてよ。それで、また会いに行った時に感想を聞かせて」

「う、うん……」

指の震えはまだ収まらなかった。私は震えを千紘くんに気付かれないよう、もう片方の手で覆った。

「ありがとうございましたー」

女性はドアのところまで見送ってくれた。千紘くんが袋の中のサンドイッチを覗いている時に、私は後ろを見やった。

女性は無表情でこちらを見ている。そして、生地をこねていたはずの男性もいつの間にか手を止めて同じ表情でこちらを静かに見つめている。

モノを見るかのような何の感情のないその瞳の色に、私は目が離せなくなっていた。

そして、そこから離れるように私は一気に走り出した。

後ろから名前を呼ばれたような気がしたが、私は前だけを見据えてがむしゃらに両足を動かした。

『あのブックカフェで働き続けることを、あの方は良しとしないと思います。だけど、私は報告しません。報告義務違反で何かしら罰を与えられるかもしれませんが、それはそれで構いません』

―――多分、有沙さんが知る前から、私の行動は疾うに父に筒抜けだったんだ。

あのベーカリー・カブラギだって、今まで何度も前を通っていたが開店してはいなかった。多分、父からの千紘くんに関わるなという警告なんだ。

「―――雫さん!」

強い力で手首を掴まれ、私は止まらざるを得なくなった。

「どうしたんだよ、急に走り出して。具合悪いんじゃなかったの?」

千紘くんを見上げると、不可解そうに見下ろしている。さっきまで楽しく会話をしていたのに、急に怯えて尻もちをついて、その後は急に走り出して、脈絡もない私の行動に手を余らせているのだろう。

今までも、周りの人たちが私と関わると大体向けていた視線だ。

「……ごめんなさい、千紘くん。私、あなたと出掛けることは出来ない」

「何で?今日は雫さんが具合悪そうだから別日にしようって提案しただけだよ」

千紘くんは苛立たし気な色を声に滲ませている。

感情の起伏が激しい、情緒不安定な女って思ってくれていい。

「千紘くんのバイクに乗って海を見に行くのも、無理だと思う。その時には、私はもうあなたの目の前からはいなくなっていると思うから。【月夜の森】の店員とお客さんとして、これからも接してもらいたいの」

「―――どういうこと?」

ぼろぼろと両目から涙が零れてくる。

「ごめんね、ごめんなさい。何も言わず、私の言うとおりにして欲しいの。あと、ほんのわずかな時間だと思うから、その間は、宮原さんや千紘くんや里穂子さんや五十嵐さんたちと今まで通りに笑顔で過ごしたいの」

これ以上、千紘くんと個人的に会うようになったら、父が何をするか分からない。千紘くんの妹の千里ちゃんやおばさんや家族の人たちをも巻き込むことになってしまうかもしれない。

「……分かった」

力なく呟く千紘くんはそのままそっと抱きしめた。私は慌てて離れようと両手で押すも、千紘くんは微動だにしなかった。

「大丈夫、雫さんを脅かすものは来ないよ。俺が守る」

頭上から優しく呟く声に、私はふっと力が抜けていくようだった。

「雫さんがいなくなろうとするなら、俺が追いかけて連れて帰る。体を捩って抵抗しても、離さないから。覚悟しておいて」

涙を止めようとしてもなかなか止まらなかった。さっきまでは恐ろしさや苦しさに苛まれていたのに、優しく響く声に体中にあたたかな熱が帯びていくようだった。

そうだ、この涙は、多分安心感だ。

「ううう、本当は千紘くんと一緒にいたい。皆と一緒にいたい」

「一緒にいればいいじゃん」

「だけど、その時はきっと来てしまうの。ずっと昔から、決められていたことだから」

「そんな決まり事、なかったことにしちゃえばいいじゃん」

ふえっと変な声を上げて、私は千紘くんを見上げた。

「雫さんが担うことないんだよ。そんな人の人生をめちゃくちゃにするような決まりなんて、そんな不条理なことはないことにしちゃえばいいんだよ」

千紘くんは真顔でそんな思いもしなかったことを口にした。






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